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学長からのメッセージメイルマガジン「EPISTOLA」

No.31「二つの糸の出逢い-ザビエルとキリシタンの痕跡」

2019年10月16日

大学の第3クォーターが始まる前に、鹿児島へ出かけました。南山大学に事務局をおく日本カトリック神学会主催の学術大会が、宣教師フランシスコ・ザビエルの渡来470周年となる今年、彼の上陸の地・鹿児島市で開催されたからです。同大会の総合テーマは、「日本宣教再考」でした。研究者による発表や基調講演が、カトリック鹿児島教区のザビエル教会と教区本部を会場として行われ、講演は教区信徒の方々にも公開されました。

現在のザビエル教会の聖堂は1999年に建てられ、帆船をイメージしているそうです。聖堂内に入ると、船底から見上げるような天井の内装は、祭壇側のステンドグラスが海の青色、パイプオルガン側が宣教師の情熱の赤色です。(※1)学術大会終了後に、事務局職員がオルガンを演奏してくださったので、同教会で働いている職員の方々やシスターとともに、しばらくオルガン・メディテーション(瞑想)の時間をすごしました。

聖堂の向かいにある公園を眺めると、ザビエルが鹿児島に滞在した記念碑(滞鹿記念碑)が見えました。また、教会職員の方のご案内で、近所にあるキリシタン墓地を訪れることができました。この墓地は、「浦上四番崩れ」という出来事の折に流配された長崎・浦上の信徒たちのものだそうです。浦上四番崩れとは、現在の長崎県で明治維新前後におこなわれた大規模なキリシタン弾劾です。それまで、私は教会の近所にこのような歴史的墓地があることを知りませんでした。

高校の世界史で習ったザビエル渡来は1549年。長らく潜伏していた浦上の信徒が大浦天主堂でプティジャン神父に出会ったのが1865年。その後の四番崩れを経て、1873年に信徒は浦上に戻ることができました。訪問したキリシタン墓地は、浦上に戻ることができずに鹿児島流配中に亡くなった方々のお墓だそうです。もともと旧福昌寺の中に散在していたものが、初代のザビエル教会聖堂を建てたラゲ神父の意向で、1905年に現在の場所に集められたそうです。また、歴史的に興味深いことですが、かつて、この福昌寺の第15世東堂忍室(とうどうにんしつ)和尚は、鹿児島滞在中のザビエルと宗教について語り合うほど親交を深めていたそうです。(※2)それを記念して、現ザビエル教会の聖堂へ向かう登り階段の壁には、和尚とザビエルが語り合う姿を留めたレリーフが飾られています。

学術大会を鹿児島で開こうと考えていた時、日本宣教の始まりを担ったザビエルの活動を念頭に置きましたが、今回当地を訪れてみて、宣教師がいなくなったあと何世代にもわたって信仰を継承した人々の生活の痕跡に出逢うことができました。これは、昔聴いた中島みゆきさんの『糸』という歌にある、二つの物語あるいは糸が織りなす布に触れたような感覚です。ちなみに、会場となったザビエル教会では本学の卒業生にもお世話いただきました。サッカー部OBの方でした。この学術大会でご協力いただいたすべての方々に感謝します。

ザビエル教会の聖堂

ザビエル教会の向かいに見えるザビエル滞鹿記念碑

※1 同聖堂の成り立ちは、現地の方々の説明の他、カトリック鹿児島司教区ホームページ(カトリック鹿児島司教区「キリストの福音上陸の地・鹿児島ザビエル教会」2019年9月8日付、https://kagoshima-catholic.jp/diocese/kagoshima/40.html)も参照。

※2 同墓地に掲示されている説明板「ザビエル歴史街道・キリシタン墓地」を参照。

南山大学長 鳥巣 義文

発行人:南山大学長
発行 :南山大学学長室 (nanzan-mm-admin@ic.nanzan-u.ac.jp