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学長からのメッセージメイルマガジン「EPISTOLA」

No.23「私のルーツをたどる」

2022年2月16日

私の父は、1928年、当時ポーランド南東部だったルドウィコウカ(Ludwikowka)という村で生まれました。この村は1939年にソビエト軍に、その後1941年にドイツ軍に襲われるなど、戦争中は多少の困難はありましたが、父の村での生活は続きました。しかし、1944年2月16日の夜中、ウクライナの民族主義者と思われる人々によって村が焼かれ、多くの人が命を失いました。父とその家族を含む生き残った人々は、近くの森に避難し、数日後、ドイツ当局は生存者を近くのロハティン(Rohatyn)市に移しました。2か月後、彼らはドイツに連れて行かれ、そこで戦争の最後の一年間、農場で働きました。戦後、今度はドイツ中部のコルバッハ(Korbach)の町の近くにあるポーランド人難民のキャンプに移されました。父の母親、すなわち私の祖母は翌年にキャンプで亡くなり、その2年後、父親(私の祖父)が亡くなりました。それから、父と父の弟と妹は米国への移民を決意しました。

小さい頃、私は断片的に父の生い立ちの話を聞きましたが、上記の説明のほとんどは、1994年の初めに、博士論文の提出と論文の最終試験の間にとった休憩の時に父から得たものです。その年の秋、父が突然亡くなりました。

ドイツで語学コースを受講した時にコルバッハの町にある祖父母の墓を訪ねる機会はありましたが、戦後の国境の変更により父が育った地域はウクライナの一部となり、戦時中に村が破壊されたということで、父が生まれた故郷を訪れる機会はないだろうと思っていました。しかし、神言会の総本部で勤めていた時、同僚の一人がポーランド人であったため、ある時、彼と父の話をしました。彼がポーランドに帰ったら、私のルーツをたどってみたいかと彼に尋ねられました。遠い昔に破壊された村を見つけられるものだろうかとあまり期待せずに、一応父から得た情報を彼に送りました。それに基づいて神言会の他の同僚たちがインターネットで検索してくれた結果、いくつかの手がかりが得られました。

その後、私はポーランドに行き、同僚の二人と日が出る前にワルシャワから車で出発しました。ウクライナとの国境で少し遅れ、整備不足で荒廃したウクライナの道路を注意深くナビゲートしながら、午後半ばにリヴィウ(Lviv)という街に到着しました。そこから、道順を尋ねながら、まずロハティンに、そして、父から得られた情報によると、ルドウィコウカに最も近い町であるブルシュティン(Bursztyn)という小さな町に辿り着きました。そこから、ルドウィコウカがどこにあるのかを教えてくれる人を見つけるのは困難でした。もう夜が近づいて、そしてその日の中にワルシャワに戻る予定でしたので、とにかく父が行き来したところまで来ることで満足しようか、と思い始めた時、ある中年の女性に出会いました。ルドウィコウカについて尋ねると、彼女は自分についてくるように言い、彼女は自転車に乗って、牛が放牧されている牧草地を通る小道の丘の途中まで私たちを案内し、丘の頂上に墓地があると話してくれました。私と一人の同僚は車から降りて、丘を駆け上がったところに、長い間放置されていた墓地を見つけました。墓地の中央に記念プレートが付いた大きな金属製の十字架がありました。プレートの碑文には、1944年2月16日から17日の夜にルドウィコウカの村で亡くなった人々の記念碑として、そしてもうなくなった村の記念碑として、2009年に十字架が置かれたのだと書かれていました。父が15歳で村を出てから69年後、私は父が育った場所に立っていました。 その時に感じたすべての感情を言葉で表現することはできません。

こうした話があるために、最近のウクライナの情勢は、私にとって、他人事ではありません。また、この二年間のコロナの経験が証しするように、人類すべての運命は深く繋がっているからこそ、権力者の野心のために自分たちの運命が振り回されているウクライナの人たちの安全のために祈りたいと思います。

南山大学長 ロバート・キサラ

発行人:南山大学長
発行 :南山大学学長室 (nanzan-mm-admin@ic.nanzan-u.ac.jp