文字サイズ
  • SNS公式アカウント
  • YouTube
  • Facebook
  • X
  • Instagram

学長からのメッセージメイルマガジン「EPISTOLA」

No.6「『人間』の定義」

2020年9月16日

先日、BBCのウェブサイトで残酷なニュースを見ました。1906年に、Ota Bengaというコンゴ人が、ニューヨークの動物園の猿の檻に展示されました。彼はその2年前にコンゴで誘拐され、他8人と共にその年に開催されたセントルイス万博でも展示されました。今更ニュースになったのは、動物園の園長が、現在の反人種差別運動から影響を受け、ようやくその事実を認め謝罪したからです。檻に入れられた当時には広く欧米の新聞などで注目されていたにもかかわらず、100年以上、動物園側はその事実を否定して、彼はただの職員であったと主張したそうです。そして、謝罪文に、檻に入れられた期間が3週間にわたったにもかかわらず「数日間」と表現されたことからは、まだ隠蔽されていることがあるように思わされます。

2005年、愛・地球博と関連する事業として、本学の「人間の尊厳」科目開講十周年を記念する連続講演会が開催され、各講演会の原稿が「人間の尊厳のために――南山大学『人間の尊厳科目』開講十周年記念」としてその翌年に出版されました。その中で、本学社会倫理研究所の現所長・奥田太郎教授の講演、「尊厳をもつ『人間』とは誰か?」は特に興味深いものだと私は思っています。そこで、「人間」の定義が問われています。「『人間』という概念は、『国民』や『民族』などよりもはるかに広い、と考えられています、しかし同時に狭くもあります。同じ『国民』であっても、『人間』扱いされていない者たちがこれまで存在してきたし、今も存在するし、これからも存在しうるからです。(省略)ある時代の『人間』は、白人・男性・成人に限られていたかもしれません。『奴隷』は『人間』に所有されるモノとしてのヒトでした。異国の人びとが『野蛮な未開人』とみなされ、ヒトだけど『人間』に一歩届いていない者として扱われていたこともあります。」(

Ota Bengaに対する残忍な扱いは、100年前のアメリカと、その当時の人々の問題だった、と片付ける人もいるかもしれません。しかし、これは他人事ではなく、私たちの、そして私たちが生きている社会の「人間」の定義を問うように迫るものです。最近、コロナウイルスの感染者や感染者と接触を持つ人に対する差別が注目されていますが、それだけではなく、例えばホームレスへの偏見および犯罪者への扱いに、私たちの「人間」の定義を見ることができます。生まれながらにして全ての人が平等にもっている「人間の尊厳」を推進するために、もう一度真剣に自分自身の内にある「人間」の定義を見つめて、見直す必要があるかどうかを反省しましょう。

浜名優美・山田望 編「南山大学『人間の尊厳科目』開講十周年記念・連続講演会 講演集」(南山大学、2006年)56-57頁

南山大学長 ロバート・キサラ

発行人:南山大学長
発行 :南山大学学長室 (nanzan-mm-admin@ic.nanzan-u.ac.jp