上南戦歴史・沿革
1960年 -始まりは伊勢湾台風-
上智大学との学生交流は、南山大学学生会の代表が上智大学を訪れ、「文化体育両面」の交流条約を結び、「野球、籠球、卓球定期リーグ戦、文化面においては絵画、新聞等の交換」(『南山大学新聞』第3号)を取り決めたことに始まります。1949年11月には、まず南山大学が大学祭期間中の上智大学を訪れ、翌1950年5月には、上智大学が創立記念祭直後の南山大学を訪れ、それぞれ交換試合を行いました。この交換試合は、次第に各クラブがバラバラに行うようになり学校対抗の趣旨がなくなったため、1955年に一旦中止になりました。
1959年9月に東海地方を直撃した伊勢湾台風被害の救助活動に奔走した南山大学学生会の代表は、その年の秋に東京の青山学院大学で開かれた全国キリスト教系大学連盟総会で伊勢湾台風被災の見舞金を受領しました。その場で対面した上智大学学生代表と大学対抗の定期戦開催の話が盛り上がり、それぞれ学生会に持ち帰って対抗戦開催の承認を受け、大学連盟の見舞金と神言会からの援助によって、南山大学で第1回大会の準備が整えられました。
南山大学において、1960年6月25日・26日に「第1回上智大学・南山大学定期戦」が行われました。これが現在まで定期開催されている「上智大学・南山大学総合対抗運動競技大会」(通称:上南戦)の記念すべき第1回大会です。同じカトリック系大学として、共通の建学の精神や大学の理念で結ばれている両校が親睦を深め、互いに発展していくことが開催の目的でした。野球、庭球など8種目の公式戦の他、文化系クラブの交流も行われました。
「記念すべき第1回のプログラムパンフレット」(1960年)
フォントやデザインが時代をものがたります。
東京駅にてエールを交換する両大学の応援団」(1967年)
東京駅という公共の場で、大きな声をはりあげることが許される時代でした。
「南山大学野球場にて(現パッヘ・スクエア)」(1968年)
現在ランチタイム等に学生でにぎわうパッヘ・スクエアは昔、野球場でした。
1970・80年代 -上智の勝利続き、存続の危機-
上南戦が始まった当時は文化系のサークルも含め「上南交換会」と呼ばれ、文化系クラブ、体育会両方の交流を目指しましたが、徐々に文化系クラブの交流は下火になっていきました。そのため上智大学では、上南戦は全学行事ではなく、単に体育会だけの行事なのではないかなどといった批判が1983年頃から表面化しました。『上智新聞』には、一般学生の関心も薄く、また文化系クラブの参加も少ないため、上南戦は考え直さなければならない時期に来ているとの論説が掲載されたそうです。(『上智大学通信(2000.6.16発行「上南戦の歴史」より)』)。
その大きな原因は、なんといっても実力の差。1970年代は上智大学8勝、南山大学はわずか2勝、1980年代は3回の引き分けを除いて、すべて上智大学が勝利を収めるという、南山大学は上智大学の足元にも及ばない時代が続きます。
南山大学でも早い時期から両校の実力差について問題が指摘されていました。『南山スポーツ(1964.6.8発行)』には、「伝統もできた。友情も築かれた。スポーツ技術の向上もはかられてきた」けれども、両校の間にはあまりにも実力の差があり、南山打倒を掲げて練習に励む上智大学に比べて南山大学は上南戦に対する考え方が甘いのではないかという記事が掲載されました。また一方で、交流は体育会だけではなく大学全体のものとして教職員を含めた研究レベルまで拡大することも必要だといった積極的な意見もあり、上南戦はなんとか継続されていきました。
80年代当時は教職員対抗戦も開催されていました。バッターはリーマー学長(当時)。
1952年創部。第1回大会からの正式種目であるサッカー。
1990年代 -再び時を刻み始めて-
1990年に開催された第31回大会で、南山大学は久しぶりの勝利を収めました。それまでの成績は、通算でわずか4勝、なんと12年ぶりの総合優勝でした。『NANZAN UNIVERSITY BULLETIN No.94 (1990.9.1発行)』に、当時の体育会顧問寺田邦昭教授が次のコメントを寄せています。「私は試合においては両軍の実力が伯仲していることが何よりも大切な事であると考えている。そうでなければ互いが相手チームから学び合うという試合の本質的意義が失われてしまうからである。それだけに、今回の南山大学の総合優勝は、上南戦の発展を願う者にとっては大きな喜びであった。・・・これで、一方に偏ったままの振り子が、他方にも大きく揺れだし時を刻み始めるように、上南戦も失いかけていた本来の意義を取り戻しはじめた思いがする。」閉会式の後、約束どおりリーマー学長がプールに投げ込まれました。学長だけでなく、寺田教授を始め、学生部長、学生課長などが次々にプールへ。プールの中で抱き合って喜びを分かち合う学長らの姿に感激した体育会の学生も次々にプールに飛び込んでいきました。
12年ぶりの総合優勝の後、2年続けて敗れた後の第34回大会(1993年)では史上初の敵地(東京)での勝利となりました。そして第35回大会(1994年)では悲願の二連覇を成し遂げました。1990年代に入り、ようやく本来の対抗運動競技会の目的が果たされ、両校が鎬をけずる「総力戦」が繰り広げられるようになりました。
大学ならではの部活であるアメリカンフットボール。
これまた大学ならではの部活であるラクロス。
2000年以降 -続く総力戦-
2000年代にはいると、実力五分と五分の熱い戦いが定着してきました。それを裏付けるのが上南戦のキャッチフレーズ。“2001今年は上智で大暴れ” (2001年) “MARX WARS EPISODE 43” (2002年) “必勝!連勝!!がんばりマルクス!!!” (2004年)など。マルクス学長の名前を掲げてなんとしても勝ちたいという必至の思いが伝わるキャッチフレーズが目立ちます。2000年から2008年までの勝敗は南山大学が6勝、上智大学が3勝という結果。第47回大会(2006年)には南山大学が4連覇を達成しました。
第48回大会(2007年)では、関東を中心とした麻疹の流行により参加者全員に予防接種が義務付けられるといった出来事もありました。
柔道、弓道、剣道といった武道も上南戦の正式種目です。
氷上の熱気に観客も手に汗握るアイスホッケー。
2009年6月 上南戦第50回記念大会
2009年6月5日~7日、上智大学において第50回記念大会が開催されました。6月5日午前7時から8時30分にかけて、応援団、聖歌隊 南山スコラ・カントールム、上南戦実行委員会などを先発隊として、雨の中、26台のバスが順次東京に向けて出発。総勢およそ900名。今回は記念大会ということで国立代々木競技場 第二体育館で開会式が行われました。開会式では、「南山が勝つのは当然です。私は今年もプールに飛び込みます!」とカルマノ学長の熱い挨拶に、会場の南山サイドは熱気と大声援に包まれました。上南戦のオープニングゲームは、開会式に引き続き行われた男子バスケットボール。バスケットボールの聖地ともいわれる代々木競技場 第二体育館が晴れの舞台となりました。第50回記念大会では、全試合を確実に実施するために、国立代々木競技場の他、アミノバイタルフィールドなど学外会場が借り上げられ、一部悪天候のため日程や時間変更になった競技があるものの、全32種目すべてが行われました。結果は14対18で上智大学の勝利。南山大学は、残念ながら50回の節目の年を勝利で飾ることはできませんでした。
両大学文化系クラブやサークルの交流、OB・OGとの交流など、上南戦の歴史に新しい1頁が誕生した第50回記念大会。キャンパスを飾った上南戦ポスターには、これまでの上南戦の数々のシーンと「この勢い止まらない」のコピーが記されていました。一度たりとも途切れることなく迎えた50年目の上南戦。「この勢い止まらない」まま、2034年には第75回、そして2059年には第100回の上南戦が開催されることになるでしょう。
開会式はバスケットボールの聖地・代々木競技場第二体育館。
サッカー、アメリカンフットボール、ラグビーの会場となったアミノバイタルフィールド。