南山の先生

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人文学部・心理人間学科

土屋 耕治

職名 准教授
専攻分野 社会心理学
主要著書・論文 『直接経験・間接経験が行動意思決定に与える影響』(対人社会心理学研究,単著,論文)
『体験で学ぶ社会心理学』(ナカニシヤ出版,共著)
将来的研究分野 小集団のダイナミクス,社会的影響のミクロプロセス
担当の授業科目 社会心理学,心理人間学基礎演習,心理人間学演習,人間関係フィールドワーク

私たちは周りの影響をどれだけ自覚できているのか?
-「そうなろうとする万有意志」と無自覚さ

社会の中で生きる私たちが,様々な場面で周りの人や環境の影響を受けていることを否定する人はいないでしょう。それと同時に,私たちは,自分の意思に基づき,物事の判断を行っているとも思っています。それでは,両者の境目は,どれほど明確なものなのでしょうか。ここでは,私たちは周りの影響をどれだけ自覚できているのか?という問いについて,小説と心理学の知見を紹介しながら,考えていきたいと思います。

数年前に亡くなったカート・ヴォネガットという作家がいます。彼の書いたものの中でも,「タイタンの妖女」というSF小説は,私の好きな小説の一つです。まだ,読んでいない人には申し訳ないのですが,入り口として内容を紹介させてもらいます。

「すべての時空にあまねく存在し,全能者となった彼は人類救済に乗り出す。だがそのために操られた大富豪コンスタントの運命は悲惨だった。富を失い,記憶を奪われ,太陽系を星から星へと流浪する破目になるのだ!」というのは出版社の紹介です。簡単に説明を加えると,時空を超える力を持つラムフォードに,主人公も,その家族も翻弄されていく。そして,最後に,土星の衛星であるタイタンに行き着き,全ての真実を知るという物語です。そこで明らかにされたのは,万里の長城もストーンヘンジも,実は宇宙人であるトラマルファード星人が幾何学的な言語で仲間にメッセージを伝えるためだけに人間を利用して作らせたものだったということでした。でもそれを人間は知らない,自分たちで自分たちの目的を達成するために自分たちの意志でそれを成し遂げたと考え,それを疑おうともしない。全能者として存在し,自己決定ができていると考えていたラムフォード自身も,彼らの「そうなろうとする万有意志」の力の影響を受け,無自覚に動かされていたのだった,というラストです。

さて,少し話を専門的なものに戻します。私は,社会心理学を専門にしています。社会心理学とは,私たちが周り (他者,環境,社会など) の影響を受けると同時に,周りに影響を与える中で,どのように思考・行動するのかを研究する分野です。グループの人間関係,社会的な影響など,非常に魅力的な研究がたくさんありますが,ここではそのうちの一つ,周りからの無意識的な影響について紹介したいと思います。

ここで紹介したいのは,単純接触効果を扱った研究です。この実験では,a,b,c,dといくつかの写真を用意し,それらを参加者にランダムに提示していきます。そのときに,a~dの提示回数のみを操作 (実験者の側が変えること) します。aは3回,bは10回などと見せる回数を変えるということです。その後,「どの写真が好きですか?」と聞くと,提示回数の一番多かったものを好きだと答える,という実験です。「単純」な「接触」回数だけがもたらす「効果」ですので,単純接触効果と呼ばれているわけです。興味深いのは,参加者に,「なんでその写真を一番好きだと思ったのか」と聞いたときの回答です。彼らは,「一番見た回数が多いから」ということを理由に挙げず,「なんとなく」とか「雰囲気がよかったから」などの理由を口にします。実験の結果から,提示回数が参加者の抱く好意に影響を与えていたと言えるのですが,本人たちは原因 (提示回数) には無自覚に,むしろ自覚できる部分では他の理由で好意を感じ,写真を選択するのです。どうでしょうか。「タイタンの妖女」との関連が見えてきたでしょうか。

私たちは,思考し,行動します。自分の「意思」に基づいて,物事を選び取っていくのだ,という考えは確かに一つだと思っています。しかし,上記の研究は,行動が意識的な意思に基づいているだけではないことを示していると思います。周りの影響を私たちはどれだけ自覚できているのか?トラマルファード星人の「そうなろうとする万有意志」の力が働いていて,というのは少し滑稽かもしれませんが,小説で描かれているように,私たちの思考・行動の原因は,必ずしも自覚できる部分のみにあるとは限らないと思っています。

心理学は,上記の研究のように,本人の内省のみでは分かり得ない部分に,実験や調査といった科学的な方法を用いて迫っていくことができる一つの方法であると思います。大学では,様々な事柄を題材に,人間について一緒に考えていく時間が持てれば,と思っています。