南山の先生

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人文学部・日本文化学科

松田 京子

職名 教授
専攻分野 日本近現代史、文化交流史
主要著書・論文 『帝国の視線-博覧会と異文化表象-』(単著、吉川弘文館、2003年)、
「「風景地」の思想-「帝国」の拡大と国立公園-」(単著、『日本文 化の人類学/異文化の民俗学』、法蔵館、2008年)
『帝国の思考-日本「帝国」と台湾原住民-』(単著、有志舎、 2014年)
将来的研究分野 表象文化論(近代日本における異文化表象)、植民地主義とマイノリティ(日本統治下の台湾先住民政策史)、文化交流史(近代日本における社会進化論の受容と展開)
担当の授業科目 「日本文化学基礎演習」、「日本文化学演習」、「日本文化史」、「近現代日本とアジア」

東アジアの中の日本:「文化」の交流、接触、葛藤の歴史

次の引用文は、『朝日新聞』に掲載された記事の一部抜粋です。まず、この文章を読んでみてください。

台湾・台東市のはずれにある一千平方メートルほどの大きな農家の庭。台湾の少数民族・アミ族に伝わる歌を、郭英男(民族名=ディファグ)さん(78)が披露してくれた。そばには、豊年祭参加のために里帰りしていた長男の蒋進興さん(52)も。歌はアミ族にとっては大切な生活の一部だ。

台北市に住む蒋さんには、一人息子の孟達君(12)がいる。しかし祖父と孫の間には、大きな障壁が立ちはだかる。言葉だ。

郭さんが分かるのは戦前の日本統治時代に覚えさせられた日本語とアミ語。一方、台北で生まれ育った孟達君は、アミ語はほとんど理解できない。父が「通訳」しないと、二人の意思は伝わらない。

そんな二人の気持ちが通じたことがある。二年前、台北の小学生のど自慢大会で、孟達君はアミ族の歌を三曲歌い、見事優勝した。祖父の声を聞いて覚えた歌だった。

「孫が自分の歌を歌ってくれた。民族文化が継承されたと、本当に、うれしかった」。郭さんは日本語でそう言い、顔をくしゃくしゃにさせて笑った。 (『朝日新聞』1998年11月10日)

さて皆さんは、この記事の内容から、どのようなことを感じましたか?

まず祖父と孫の間で、言葉が通じないという状況があるということに、大きな驚きを抱いたのではないでしょうか。そして、そこに「日本語」が介在するということ、台湾で暮らす年輩の人のなかに、「日本語」を話す(話せる)人がいるということに、不思議な感触を覚える人が多いのではないでしょうか。

このような状況が存在する背景には、近代期の日本の歴史が大きく関係しています。この記事に登場する台湾は、1895年~1945年の約50年にわたって「日本」でした。より正確に言えば、日本「帝国」の植民地でした。この記事で紹介された、「部族の言葉」と「日本語」は話せても孫と会話できない郭さんの存在は、日本の植民地支配の歴史が、台湾社会のなかに深く、その痕跡をとどめていることを示しているといえるでしょう。

このように近代日本の歴史は、現在の日本の国境線内部にその範囲を限定しては、洩れ落ちてしまう多くの問題を抱えています。1945年までの日本は、東アジアを中心とした諸地域で植民地支配を行う「帝国」としての側面を有していました。この「帝国」としての経験が、近代から現在に至る日本社会において、思想や表象といった広義の「文化」領域に属する事象と、どのように相互に関連しているのか―このような問題を、私自身は博覧会における「異文化」展示などを具体的な素材として研究しています。

皆さんも、広い意味での「文化」に関わる領域の問題から、日本の近代・現代の歴史を探究してみませんか。その際、「文化」の交流、接触、葛藤といった観点から、特に東アジア諸地域との関係にも視野を広げることで、「日本」、「日本史」「日本文化」といった枠組み自体の歴史性も考察の対象とするとともに、現在および未来にむけて、国際社会のなかで友好的な関係を築いていくために必要な歴史認識のあり方を、ともに考えていければと思います。