南山の先生

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人文学部・キリスト教学科

袴田 渉

職名 准教授
専攻分野 古代キリスト教史、教父学、宗教学
主要著書・論文 田島照久・阿部善彦編『テオーシス―東方・西方教会における人間神化思想の伝統』(共著)、2018年2月、教友社(執筆担当部分:第4章「ディオニュシオスの神化思想―ヒエラルキアと不知の暗黒」)。
将来的研究分野 中世キリスト教思想における救済概念史
担当の授業科目 「キリスト教史(古代・中世教会史)」、「キリスト教概論」、「宗教論」他

キリスト教史を学ぶということ

 南山大学には、「キリスト教史」という授業科目があります。これは他の大学でもごく普通に履修できるような一般的な科目ではなく、キリスト教を母体とする本学ならではの授業科目の一つです。しかし、私たち日本人にとって、キリスト教の歴史を学ぶことに一体どんな意味があるのでしょうか。日本史や世界史であれば、その歴史的知識がめぐりめぐって「自分史」につながることは容易に想像できますし、単純に一般教養としても学ぶ価値があることはすぐに分かります。ですが、キリスト教史では、そうはいきません。統計を見ても、日本のキリスト教徒は、総人口比で1%に満たない数しかおりませんので(文化庁『宗教年鑑』令和4年版参照)、そうした事実からも、キリスト教という特定の宗教の歴史が、多くの日本人にとって、自分とは係わりのないものとして受け止められているであろうことは、十分に予想できることです。

 ところが、キリスト教という一宗教の歴史は、実は私たち一人ひとりの歴史と決して無関係なものではありません。なぜなら、キリスト教とは、近代以降の日本が熱心に受け容れ、受け継いできたヨーロッパ文明の精神そのものだからです。ヨーロッパに生まれた制度・思想・芸術・科学技術はみな、このキリスト教という宗教の理念や理想によって支えられているのです。たとえば、私たちが生まれてこの方自明のこととして従ってきた「1週間(7日間)」という生活単位は、聖書の『創世記』に記された、神が7日間で世界を創造したという故事に由来し、「神を模倣すること」を人間の生きる上での課題であり目的ともするキリスト教理念に基づく制度だったのです。さらには、私たちが現在当たり前のように享受している「人権の思想」や「個の尊厳の思想」、「自由の思想」もまた、キリスト教的な「愛」の理想を基礎として、近代のヨーロッパにおいて生み出されてきたものです。つまり、現代に生きる私たちの生のあり方を、その根底において支えるものの一つが、キリスト教だということになります。

 しかしながら、今から150年以上前の近代から現代へと移行していく時代から、日本は、ヨーロッパ文明の表面とその形式を受け容れてきていながらも、その内面や精神については、「和魂洋才」の名のもとに、これを受け継ぐことを拒んできたように思われます。やがて、ヨーロッパ文明の内面を「和魂」によって読み替え、書き換えていくこの試みは、1945年の第2次世界大戦における敗戦を機に、大きな挫折を味わうことになりました。その後、私たちの社会と生活全般に浸透していった欧米化の流れは、私たちの内面までも充たすものとはなっていません。それは、ヨーロッパ文明を生み支えた精神への洞察がどこか表層的なものにとどまり、他方で、その洞察を「和魂」へと読み替えようとする熱意も失ってしまった、私たちの精神的態度の帰結なのかもしれません(そもそも「和魂」とは何かということさえ、私たちにはもう分からなくなってきています)。

 こうした状況のなかにあって、現代を生きる私たちの心の、あるいは精神のありかを探るために、すでに受容され私たちのものとなっている、ヨーロッパ文明を生んだ精神としてのキリスト教のもともとのあり方を知ることは、決して無駄なことではないと思います。私の担当するキリスト教史の授業では、紀元後に誕生したばかりのキリスト教が、ローマ帝国下での迫害の苦しみを超えて、やがて「帝国の宗教」となり、教会組織や修道制を生み、さらに複雑な教義論争を経て、発展と分裂を繰り返していく姿を概観し、そうした多様な歴史的事象の奥底に脈々と流れ続けている精神のあり方を探求し、同定しようとします(それが何なのかは、私の授業を受けてからのお楽しみです)。そして、その精神を知ることは、そのまま私たち自身の文化の「もう一つの根」に触れることを意味するはずです。私たちにとって、それこそがキリスト教史を学ぶ意義であり、私の授業の目指すところです。