南山の先生

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人文学部・キリスト教学科

南 翔一朗

職名 講師
専攻分野 宗教哲学
主要著書・論文 「カントの道徳神学における神と人間」(博士論文)
将来的研究分野 宗教・キリスト教と近現代の倫理学
担当の授業科目 「キリスト教思想」、「キリスト教哲学」、「宗教論」ほか

悩み抜くこと・迷い抜くことの大切さ

 「自分の考えを持ちたい!」。現代の人々は口を揃えてそう言います。しかし、本当に「自分の考えを持つこと」は、無条件に、あるいはそれ自体として価値のあることでしょうか?もし「自分の考え」とやらが、根拠や理由の薄弱なものだったとしたらどうでしょうか?あるいは、正当な理由もなく人を傷つけたり、おとしめたりするものだったとしたらどうでしょうか?もし「自分の考え」が、そうしたものでしかなかったとしたら、それは独断や独善とどう違うというのでしょうか?これらの疑問からもわかるように、「自分の考えを持つ」ということは、明らかに危険な側面を持っています。
 では、「自分の考え」が独断や独善に堕するのを防ぐには、どうしたらよいでしょうか?気をつけるべきことはたくさんあると思いますが、私は、「自分の考えの弱点を自分で見つけ出したり、他者にそれを指摘してもらったりする中で、自分の考えに執着せず、常によりよい考えを目指して悩み抜くこと、迷い抜くこと」がとりわけ大切だと思っています。「自分の考え」がまだまだ弱点を持った不完全なものであることを自覚するからこそ、人はより真剣に考えたり、考えを前に進めるために一生懸命調べ物をして、知識をつけたりするのであり、そうして人は成長していくのです。悩むこと・迷うことは苦しいことですし、忌避されがちですが、悩みや迷いと上手に付き合うことができれば、私たちはより説得力のある考えを持ったり、スマートに考えたりすることができるでしょう。そして、そのようにして得られた説得力のあるスマートな「考え」は、単に「自分の考え」にとどまらず、社会全体の人々にも共有される「私たちみんなの考え」、「社会の考え」となるでしょう。
 そして、学問としての哲学や思想と言われるものが目指してきたのは、まさにこの「自分の考えを私たちみんなの考えという水準まで引き上げること」であり、そのために議論の妥当性や根拠や理由の正当性を批判的に吟味し、お互いに切磋琢磨する中で、どの議論がより説得力があるかを考えてきました。哲学・思想とは、合理的に議論を立てる技術、あるいは議論を分析し修正する技術だと言ってよいでしょう。
 もちろん、どんな問題について考えることに強い使命感を覚えて悩み続けるか、迷い続けるかという点は、人によってさまざまでしょう。私は、「神は存在するのか?」とか、「全知全能の善なる神が存在し、世界を支配しているとしたら、なぜ世界は理不尽な苦しみに満ちているのか?」とか、「道徳的善悪を判断するための基準って何だろうか?そもそも、いつでも誰にでも妥当する道徳の基準なんてあるのだろうか?」とか「自分の趣味のために使うお金を全額寄付したら、たくさんの人々の命が救われるのに、それをしなくてもよいと言える理由はあるだろうか?」とか、そんなことばかりを考えていますが、人によってはもっと違う問題に悩み、迷う人もいるでしょう。しかし、どのような問題についてであれ、誰かが社会の他の人々を代表して、悩み、迷い、考え抜くことがなければ、社会が成長し、成熟するということもあり得ないでしょう。
 これを読んでくださっている皆さんの中にも、現在の社会や世界に対して違和感を覚えている方、「幼い頃からずっと疑問に思っていることがあるんだけど、親も先生もそれについて教えてくれないし、どうやらはっきりとした答えを持ってもいないみたいだ」などと思って、日々モヤモヤしている方がおられるのではないでしょうか?もしかしたら、あなたが抱えている問題は、社会の多くの人々が見過ごしているだけで、実は社会や世界の根幹に関わる問題かもしれません。そして、誰かが犠牲になってその問題に取り組み、悩み抜き、迷い抜かないと、人類は大変なことになってしまうかもしれません。そうだったら、もう仕方ありません。観念して、私たちと一緒に哲学を学び、とことんまで悩み、迷い抜きましょう!