学部別インデックス
人文学部・人類文化学科
青山 幹哉
職名 | 教授 |
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専攻分野 | 日本中世史、系図学 |
主要著書・論文 | 「『熱田大宮司千秋家譜』の構成について」「中世寺院における系図史料の存在とその理由」「〈顕わす系図〉としての氏系図―坂東平氏系図を中心に―」「武士論―文明と野蛮の接触と相互変容―」「中世系図学構築の試み」(以上、単著)「『愛知県史』通史編2」「『新修名古屋市史』2巻」(以上、分担執筆) |
将来的研究分野 | 日本中世武士社会における歴史認識とその叙述の分析 |
担当の授業科目 | 「日本史A」「日本史概論」「文献資料講読(日本)A・B」「文化史B」 「人類文化学演習」他 |
「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の歴史的意味
歴史学とは、過去の事実だけを検証する学問ではない。虚構であっても歴史を動かしたものについては考察の対象とする。例として「源平藤橘」の問題を取り上げよう。今日、「氏」は苗字の意味で用いられることが多いが、本来、苗字とは別の氏(うじ)が日本人の名前にあった。現在の日本人の氏(うじ)を探ると、「源(みなもと)」か「藤原(ふじわら)」である人が大半で、さらにほとんどの日本人の氏(うじ)は、これらに「平(たいら)」とごく少数派となるが「橘(たちばな)」を加えた「源・平・藤・橘」の四姓に収まってしまうのである。
もともと氏(うじ)は父系出自の血縁集団を指し、父祖を同じくする人々が同一の氏名(うじな)を名乗った。娘も父の氏(うじ)を称するのであって、夫の氏(うじ)を称することはなかった。夫婦別姓が当たり前であったわけである。養子も先祖祭祀の都合上、同じ氏(うじ)から採るのが原則であり、異なる氏(うじ)のものを養子とすることも禁じられていた。それは、古代律令国家が父系を基本原則として社会を構築しようとしたからであった。しかし、列島社会は父系・母系をともに重んじる重系(双系)社会であったため、父系だけで血族集団が構成されることはなかったし、中世、代わって家(いえ)が重要な社会の構成要素となると、氏(うじ)はその実体を次第に失っていった。
ところが、武士の台頭が契機となって、実体を失ったはずの氏(うじ)が幻想として復活するようになった。平安中期以降、都から地方にやってきた貴族(平・藤原・源氏)が現地に土着して勢力を広げていったとされるが、そうならば、もともと現地にいた古代豪族はどこへ行ったのであろうか。現実には、貴種の氏(うじ)が欲しい土着豪族たちは貴族と婚姻を結ぶことによって、あるいは適当に理由を付けて、それまでの田舎臭い氏(うじ)を捨て、貴族的な源・平・藤原・橘氏に改めていったようだ。たとえば「綾(あや)氏系図」を見ると、都の貴族藤原家成(いえなり)が讃岐国(さぬきのくにの)の知行国主(ちぎょうこくしゅ)となった時、讃岐国阿野(あや)郡の土豪綾貞宣(あやのさだのぶ)の娘が家成の子章隆を生み、讃岐藤原氏が成立したと記載されている。落胤説を採る系図はたいてい偽系図であるが、とにもかくにも古代豪族綾氏は、都の貴族藤原氏のご落胤を称することによって中世武士団讃岐藤原氏へ転身を遂げたのであった。
このようにして武士たちが「源平藤橘」を称するようになると、幻想が逆に実体化する局面が生じた。これだから、歴史は面白い。なぜ豊臣秀吉(とよとみのひでよし)は諸大名に豊臣の氏(うじ)を与え、彼らの「源平藤橘」を否定しなければならなかったか、なぜ徳川将軍は源氏の長である源氏長者(みなもとのうじのちょうじゃ)を兼ねたのか、また、なぜ近代日本は天皇家を総本家とする家族国家を称し得たのか......。まだまだ解くべき問題は山ほどある。
ところで、君は源氏ですか、藤原氏ですか?

「見聞諸家紋」(『群書類従』より)