学部別インデックス
人文学部・人類文化学科
宮沢 千尋
| 職名 | 教授 |
|---|---|
| 専攻分野 | 文化人類学、ベトナム地域研究 |
| 主要著書・論文 | ・「戦時期日本の「新しい女」から見たベトナムの女性像―1942年における森三千代のベトナムでの経験、認識、限界」『アルケイアー記録・情報・歴史』20号、2025年 ・『西川寛生「戦時期ベトナム日記」 1940年9月~1945年9月』(共編著)、2024年 |
| 将来的研究分野 | ・アジア・太平洋戦争期の日本・ベトナム関係の研究と、同分野の日本語での研究の海外への発信 ・フランス植民地時代のベトナム女性言論人の研究 |
| 担当の授業科目 | ・人類文化学科科目:「地域の文化と歴史(東南アジア)」、「歴史人類学」 ・共通教育科目:「アジアとの出会い」 |
アジア・太平洋戦争期に日本人女性作家はどのようにベトナムで文化交流したか?―実態、認識、限界―
文化人類学が専門ですが歴史に興味があり、最近はフィールドワークによる調査よりも文献資料を読んで研究しています。特に1940年9月から日本が当時の「フランス領インドシナ」(現在のベトナム、ラオス、カンボジア。略して「仏印」)に軍隊を進めた「仏印進駐」から日本の敗戦までの日本とベトナムの関係を、日本語、ベトナム語、フランス語、英語などの資料を読んで研究しています。
ところがこれらの資料を読んでいてある違和感を抱きました。女性が資料にほとんど登場しないのです。例えば、当時のベトナムに滞在した日本人(男性)の日記を読んでも、女性はほぼでてきません。この時代にベトナムに滞在した日本人は軍関係者が圧倒的に多く、ほとんどが男性でした。しかし、日本の軍や外務省、企業の事務員などに日本人やベトナム人の女性がいたことがわかっています。また、前述の日記の著者はベトナム人の独立運動家と交流を持っており、その中に女性の名前を見ることができます。なのにどうして彼女たちは歴史的な資料に残っていないのでしょうか?また、5年間にわたる日本軍の駐屯期間中、日本人やベトナム人の女性はどのように暮らしていたのかに興味を抱きました。
そこでまず取りかかったのが、日本人女性とベトナム人女性の交流、特に文化的なそれについての研究です。1942年に森三千代という女性作家が日本の外務省から派遣されて数か月ベトナムとカンボジアを訪問します。その時の見聞記である『晴れ渡る仏印』には彼女が会った多くのベトナム人に関する記述が見られますが、特にベトナム人女性作家との交流に関する記述には、当時の日本人のベトナム観と限界が如実に現れているように私は感じました。
当時のベトナムを訪れた女性を含む日本人の一般的印象とは異なり、森は「ベトナムの女性はよく働く」と述べています。かつて夫とともにフランスやアジアを長期に旅した経験からフランス語に堪能であり、異文化に触れる経験も多く持っていたため、比較的偏見なくベトナム人に接することができたのだと思います。彼女のベトナム人女性や子どもに対するまなざしは暖かく優しいものです。ベトナム人女性作家で教育者でもあるオアインとも仲良くなり、森の帰国後、二人は手紙のやり取りをしています。
一方で、彼女はベトナム語ができず(現在のような翻訳ツールが発達していない当時では数か月の滞在のうちにベトナム語を習得することは不可能でした)、ベトナム人との交流もフランス語で行っていたため、ベトナム文化への理解は一面的なものにとどまりました。ベトナム文学が将来性を持っていることには気づいたものの、それはフランスの援助があってこそだとして、ベトナム人の主体性に気づきませんでした。彼女が交流できたベトナム人文学者がオアインも含めてフランス語で小説や詩を書く人たちに限られていたこともあって、ベトナム語で書かれた文学については『晴れ渡る仏印』には何も書かれていません。また、森はベトナムの民衆に人気がある大衆演劇を何度か見に行っていますが、伝統的な要素にばかり注目して評価し、フランスや西洋演劇の影響については関心を示しませんでした。しかし、当時のベトナムはフランスの植民地支配の影響で社会や文化が大きく変化する時代でした。彼女の見た大衆演劇も伝統的なスタイルから西洋の影響を積極的に取り入れて新たな文化を創り出そうとしていたのです。森が出会ったベトナム知識人の一人は、ベトナムの伝統と西欧の影響とを調和させて新たなベトナムの文化を創造することを主張しており、それを「ベトナムのルネッサンス」と呼んでいたのですが、森はそのことを知らなかったと見え、気づくこともありませんでした。戦時期の日本人のアジア理解の限界と、戦時期にいかに異文化を理解し語ることが難しいかがわかります。改めて、「平時」の大切を感じます。