南山の先生

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国際教養学部・国際教養学科

VOLPE,Angelina

職名 教授
専攻分野 宣教学、キリスト教教育論
主要著書・論文 『隠れキリシタン』(南窓社1994年)『声-人間とその魂』(ドン・ボスコ社1996年)『イエスを知るために』(ドン・ボスコ社1999年翻訳)『小さなキリスト教人間学』(ドン・ボスコ社2001年翻訳)『20世紀の聖者』(ドン・ボスコ社2010年)
Il cristianesimo in Giappone.Storie di coraggio e dolore (Urbaniana University Press 2019)

将来的研究分野 キリスト教人間学
担当の授業科目 「宗教と文明」「人間の尊厳」「宗教論」「キリスト教概論」「異文化との出会い」

宗教論
(「宗教を学ぶ必要性とは?」)

「どうして宗教を勉強しないといけないのですか?」。宗教論の講義で、学生から受けた質問の一つである。

私はその疑問に驚かない。日本の学校教育は宗教科目がほとんどない。1947年に公布された教育基本法第9条第2項に「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育、その他宗教的活動をしてはならない」と述べられている。戦後に宗教教育が廃止された理由として第一に挙げられるのは、戦前の日本が天皇に対する神聖不可侵と国家の絶対的価値観に基づき、軍事国家主義と侵略を求める帝国主義の道を歩んだ結果であると言われている。それゆえ独特な意味を持つ宗教科目は学校教育のカリキュラムから外され、教科書からも削除された。しかし宗教は歴史における存続的現象であり、教科書(特に倫理、日本史、世界史)にはある程度、宗教関連事項の記載は必要である。その描写はほとんどネガティヴなアプローチ(特にキリスト教に関する出来事は十字軍、魔女狩り、異端者裁判など) で終わる。

したがって若者は学校で入試問題にかかわる情報を多く学ぶが、自国の宗教的歴史を知るきっかけが与えられることは少ない。そのため日本人は古代から「無宗教」であると考える人が多い。また宗教は単純なもの、心が弱い者が頼るところ、臆病者、人生の楽しみを知らないストア派のような人々の習慣のように考えられるようになった。宗教アレルギー(特に1995年に発生したオウム真理教の恐ろしい事件のために)も広がってきた。倫理のいくつかの教科書に、あるイラストがあった。一人の女の子が「宗教って要るのかしら」と問い、それに男の子は「人間はやっぱり弱いから」と答えている。もちろん人間が弱いのは事実であるが、この場合のニュアンスはそれと異なる1)。学生がこのイラストを見て考えることは何であろう。ある学生の印象は、弱い人は現実逃避をして存在しない何かにすがり、強い人は自分で頑張る、というものであった。

私はこのようなバックグランドを持つ若者に宗教論を教えなければならない。第一のステップは、「偏見は知識を遠ざける」ということを考えるように勧める。「勉強とは願いである。何かを理解できるように願うことである。しかし本物の願いができる人は、勉強によってまったく新しいことが与えられることを期待する人である」2)。つまり、本物の知識人は、調べることに対してまず学ぶ心を持たなければならない。しかし宗教を勉強しても「何も役に立たない」と思っている学生が多い。そこで次に進めるステップは「探究」である。宗教はなぜ生まれるのか。人生と物事の存在の意義を探し求める人間はそこまで達するために様々な道を試みる。その探求は人類の誕生から今日まで続く。従って宗教は人間の試みであり、美点と欠点も含めて進む探求である。偉大な歴史宗教学者ミルチャ・エリアーデは次のように書いた。「世界にそれ自身において実在するものがあるという確信がなければ、人間の精神がいかに機能しうるかは想像しがたいし、人間の意識が行動や経験に意味を付与せずに現われうると想像することも不可能である。実在し、意味ある世界の認識は、聖なるものの発見と密接に関連している。聖なるものの経験をとおして、人間の精神は、それ自身を実在する、力強い、豊饒な、しかも意味あるものとして顕すものと、そしてそのような資質を欠くもの、すなわち事物の混沌とした危険な変動、それらの予想しがたい無意味な出現と消失とのあいだの相違を認識してきたのである。要するに、『聖なるもの』は人間の意識の構造の一要素であって、意識の歴史の一段階ではない」と3)

したがって、自己分析を真面目に行う人間は、必ずこの「聖なるもの」あるいは「すべての人間の問いかけの答えとなる究極的根本」を探さざるをえない傾向を見つけるであろう。それは外的圧迫ではなく、内から湧きあがる要求である。この要求こそが「宗教心」である。言いかえると、宗教心は「最終的な意義を望む心」であると言える。ここまで進むと学生は授業に興味を持ち始める。歴史的な宗教だけではなく、すべての人間が持っている宗教心について考えるようになるからである。

ある学生が最終レポートに次のように書いた。「ジョン・コルトレーンというミュージシャンの『至上の愛』というアルバムは、神に捧げて作られたものとして知られている。この授業を受ける前は聞いても単なる良い曲だとしか思わなかった。しかし、今は聞くたびにその神秘的な美にうち震える。そしてジョン・コルトレーンの崇高な精神にわずかながら近づくことができたような気がしている。神について知ることによって感受性を豊かにすることができたと思う」。

注1)Cf . Angelina VOLPE, "Christianity and the Catholic Church in Japanese High School Textbooks", 『南山神学』、第28号、在名古屋教皇庁認可神学部、南山大学人文学部キリスト教学科、2005年、p. 66.

2)ジョヴァンニ・リヴァ『小さなキリスト教人間学』、ドン・ボスコ社、2001年(第3版:2012年10月)、12頁。

3)ミルチャ・エリアーデ『世界宗教史』1(石器時代からエレウシスの秘儀まで)、筑摩書房、2000年、13頁。

1) トナーレスターテ国際平和文化フォーラム2015。ヴォルペゼミの台湾人の学生がネパールの司教 Anthony Francis Sharmaにご挨拶。
2) トナーレスターテ国際文化フォーラム2007。 コーディネーターElena Lanzoni先生とDonald Moore先生と共に。Moore先生は長期にわたり中近東の宗教対話のために尽力された。
3) トナーレスターテ国際平和文化フォーラム2017年、諸宗教対話セクション。ダリル・ブバクールを囲むヴォルペの学生たち。1992年から2020年までパリ・グランド・モスク学長、2003年から2008年までフランス・ムスリム礼拝評議会(CFCM)会長。