南山の先生

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国際教養学部・国際教養学科

永井 英治

職名 教授
専攻分野 アーカイブズ学、日本中世史
主要著書・論文 「鎌倉末~南北朝内乱初期の裁判と執行」『年報中世史研究』29、2004年「戦中期北京輔仁大学の日本人教員とその戦後」『近代日本研究』23、2007年「学会アーカイブズという課題」『名古屋大学大学文書資料室紀要』15、2007年
将来的研究分野 室町幕府訴訟制度の史料学的研究、大学アーカイブズの理念と活用
担当の授業科目 「知識の探求1」「文化と情報1」「文化資源学研究」「博物館実習1」

史料があること

「歴史家は史料がなければ書けない」と「批判」する小説家がいます。このような「批判」は、そもそも意味をなすものではありません。歴史研究は、史料を分析することから始まるのであり、史料を無視した歴史研究はありえないからです。

では、史料とは何でしょうか。どのようなものが史料とされるのでしょうか。歴史研究者は、このような問いに対して「すべてが史料である」と答えるでしょう。「史料とは人間の活動の痕跡すべてを指す」という定義を提示する歴史研究者もいます。おそらく、この定義が史料を最も広く捉えるものでしょう。ただ、私はこの考え方には、若干の留保が必要であると思います。それは、史料という言葉は、やはり歴史学の世界の言葉であり、歴史研究者が「史料」と呼ぶものに対して、異なる学問分野では「資料」などの別の表現を使うことがあるからです。したがって、先の定義は、「歴史学の視点からは、人間の活動の痕跡を示すすべてが史料である」とすることが、より適切ではないかと思います。

しかし、史料は、初めから史料として存在するものではありません。オリジナルの史料は、固有の目的があって作成されたものです。それが、いくつかの偶然的または必然的な事情を経て、現在の私たちの目の前に存在することによって、史料として利用できる機会が発生するのです。必然的な事情とは、残そうとする意思によるということができるでしょう。しかし、残さなければならない理由は、多様です。それを持つことによって、現実に効力を発揮するから持ち続け、今日に至っているというものは、残そうとする努力によって残されたもののすべてではないのです。

偶然残ったものの中には、皮肉なことに、廃棄され、地中に埋まり、それが掘り出されたため、史料として利用可能になったものもあります。そのものを残す意思はなくても、二次的な利用、たとえばリサイクル利用されたものが残されたため、廃棄されるはずのものが残ることもあります。固有の目的を持って作成されたものが、その目的に即して利用され、さまざまな理由の積み重ねの上に、私たちの目の前に存在し、それを史料として利用できるのです。したがって、史料を分析する際には、それが本来どのような目的のために作成され、どのように利用され、さらにどのような事情を経て今日に至っているかを理解しなければ、史料として利用されるものの本来の性格を理解することはできません。同じ史料であっても、残そうとする目的は時代によって異なります。そのような過程を的確に把握しないと、どこかで落とし穴が待っています。

初めてオリジナルの史料に触れたとき、人は何らかの感動を覚えるようです。私にも、そのような体験の記憶があります。史料が、今、自分の目の前にあるという単純な事実が成り立つため、その史料もまた多くの「体験」を経ているのです。その「体験」の重みが、このような感動の源になっているのかもしれません。

史料学は、そのような感動の源からも情報を読み取り、史料の理解に努めるもので、今なお、方法の探究が行なわれています。そして、新たな情報の解読が可能となり、史料の理解が一新されるとき、別の感動があなたを待っているのです。