南山の先生

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国際教養学部・国際教養学科

北村 雅則

職名 教授
専攻分野 文章表現教育、異文化コミュニケーション、日本語学
主要著書・論文 著書:『挑戦者たちが向き合った世界と言葉-ここではないどこかでサッカーを
するということ-』(共著、2022) 『「評価」を持って街に出よう-「教えた
こと・学んだことの評価」という発想を超えて』(共著、2015) 『日本語学最
前線』(共著、2010)
論文:「モノダ文の解釈を決める諸要因」『名古屋大学国語国文学』95
将来的研究分野 ピアレビューにおける効果的な支援手法の構築
サッカーにおける声がけの諸相と効果
担当の授業科目 PBL演習、GLSアカデミック・ジャパニーズⅠ・Ⅱ・Ⅲ、卒業論文研究Ⅰ・Ⅱ

当たり前のことに対して不思議を感じる大切さ

学生時代、私は日本語学を専攻しました。日本語学というと、みなさんにとってはなじみのない分野かもしれませんが、日本語とはどのような言語で、どういうしくみで様々な表現が使われているのかを探究する学問分野です。

一つ簡単な例を挙げましょう。「~ば」「~と」「~たら」は条件表現と呼ばれ、以下のように似たような意味を表します。

  • 努力すれば、報われる。
  • 努力すると、報われる。
  • 努力したら、報われる。

この3つの文は何となく違う意味を表すような気がしますが、「努力」をした後に「報われる」という点では同じような意味を表していると考えられます。しかし、「~ば」「~と」「~たら」は、すべてが同じように使えるわけではありません。

  • ×集合場所に着けば、クラスごとに並んでください。
  • ×集合場所に着くと、クラスごとに並んでください。
  • ○集合場所に着いたら、クラスごとに並んでください。

上の文では、「~たら」を使えば問題ないのですが、「~ば」「~と」を使うとおかしな文になってしまいます。これはなぜなのでしょうか(答えは自分で考えてみてくださいね)。こうした疑問は、自分の母語である日本語を一度自分から切り離し、外国語のようなつもりで、一言語として見つめ直すことで生まれます。このように、当たり前のことを当たり前のことと思わないようにしてみると、世の中は不思議だらけであることに気づきます。

学生時代は、日本語の不思議だけを見つめていましたが、教員になると他のことにも興味が沸きました。それは、コミュニケーションとはどうやって成立するものなのだろうかということです。コミュニケーションは、一般に言葉を通して行うものであると考えられます。しかし、コミュニケーションが完全に言葉に依存するものであるとしたら、日本語の母語話者である私たちは、日本語を用いたコミュニケーションにまったく不自由を感じないはずですが、実際には、コミュニケーションをどう取ればよいのか悩む人は多いのではないでしょうか。ここに言葉だけには留まらないコミュニケーションのあり方が見えてきます。

一方で、海外でのコミュニケーションを考えてみると、みなさんは語学力を高めることを第一に考えがちです。これについては、否定的な意見を言うつもりはありません。やはり、海外での、異文化においてコミュニケーションをとろうとすれば、語学力がないよりはあった方がよいことは言うまでもありません。

しかし、日本語の母語話者であっても、日本でのコミュニケーションに困ることがあることを思い出してほしいのです。日本語の母語話者は、日本語をほぼ誤りなく使用することができます。これは、母語話者の優位な点です。しかし、外国語となると、言葉遣いの正しさや表現の適切性の点で、母語話者に及ぶことは困難です。にもかかわらず、外国語を学習する際には、正しさを追求することに陥りがちです。

正しく、適切な言葉を用いることができる人でもコミュニケーションが取れないことがあり、逆に、言葉を用いることができないからコミュニケーションが取れず、そのために、正しい言葉遣いを学ぼうとする、全く逆の現実があることを考えると、そもそも、言葉を正しく運用するという、さも当たり前のように語られることがどういうことなのかを考え直すべきでしょう。また、言葉を適切に運用できさえすれば、コミュニケーションが成立するわけではないことをふまえると、コミュニケーションを取るための方法や工夫を知る必要があります。

言葉とコミュニケーションの関係は、切っても切れないものです。しかし、私たちにとって、身近な事象であるがゆえに、言葉とコミュニケーションの関係を、固定的に捉えがちです。大学というところは、自分で立てた問いを探究する場です。当たり前のことを当たり前と思わない姿勢で、いっしょに学問の扉を開きましょう。