南山の先生

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経済学部・経済学科

林 順子

職名 教授
専攻分野 日本経済史
主要著書・論文 『尾張藩水上交通史の研究』、清文堂、2000年.
『新修 名古屋市史』資料編近世一(共著)、名古屋市、2007年.
「近世前期の名古屋材木商犬山屋神戸家の経営」『犬山城白帝文庫研究紀要』(犬山城白帝文庫)、第2号、2008年3月.
将来的研究分野 近世における名古屋の経済成長と商人の関係
担当の授業科目 日本経済史、経済史入門B、演習

双六にみる名古屋の風景(1)

誰でも、子どものころに一度は双六遊びをしたことがあるだろう。サイコロを振ってその数のマスだけ自分のコマを進める遊びであるが、マスの絵には何かしらのテーマが設けられ、絵本のように絵の並びでストーリーが紡がれていることもある。江戸時代後期に民衆のための出版と旅行ブームが起きると、全国各地で、その土地の名所巡りを疑似体験できる、名所双六がつくられるようになった。

江戸時代の名古屋の名所双六は、私の知る限りでは二種類は存在する。今回は、そのひとつ「新板尾陽名所飛廻双六」を紹介したい。

これは、安永期から天保期まで名古屋本町十丁目にあった本屋、松屋善兵衛が出版したものである。ふりだしは、画面右下の枇杷島橋で、岐阜などから来る人にとっては、このあたりが名古屋城下町の入り口になる。つぎのマスは阿波手の森。平安時代から歌枕になっている地名で、江戸時代には萱津のあたりのことと言われているが、正確なところはわからない。マスは、清洲、甚目寺、津島、荒子、佐屋道と続き、左上のあたり、江戸時代には熱田神宮一の鳥居の西にあって名古屋三景と呼ばれた沢観音妙安寺に至る。その後、マスの絵は、その高蔵の近辺の古渡、熱田、七里渡し、笠寺と、城下町の南部郊外をまわるように配置されている。つぎのマスに描かれるのは、現在の江南市、式内社の稲木神社のある寄木である。つまり一旦北に飛び、そこからまた城下町郊外の東を南下し、龍泉寺、五百羅漢、地蔵、東掛所、稲荷、七ツ寺、そして北上して若宮、広小路をめぐり、上がりにいたる。およそ、マスの位置とそこに描かれた名所の地理的な配置が、同じになるような配慮がみられる。

さて、ここまでこの双六で取り上げられた名所をみると、枇杷島橋、佐屋道、七里渡し、広小路といった、人々が行き交う交通路や交通拠点の他は、全て、寺社であることがわかる。江戸時代後期の名古屋に関する多くの記録を残し、名古屋の文化に貢献した高力種信(猿猴庵)は、やはり尾張の名所をまとめた『尾張名陽図会』の冒頭で、"字が読めない人々にもこの地域の歴史を知って欲しい"と記している。名所双六で、寺社が多く描かれているのは、単に寺社巡りが流行していたからだけでなく、この双六の制作者が種信の影響下にあったためとも、考えられる。

さて、最後に、双六の中央の、上がりのマスをみてみよう。手前の商家の店先には、「大」の字を染め抜いたのれんがかかっている。この商家は、碁盤割の南北のメインストリートである本町通り西側にあった呉服商の大丸屋と考えられ、この双六の制作に大丸屋が関わっていた可能性が高い。その向こう、たなびく雲の切れ間からのぞくのは、石垣と櫓、松林である。これほどの石垣や櫓のある建造物は、名古屋城以外にはなく、雲が晴れれば、そこには天守の金鯱が輝いているはずである。それが描かれなかったのは、徳川政権への配慮からであろう。遠い天守を小さく、近くの大丸屋を大きく描けば、大丸屋の力が徳川政権に勝っているような印象を、見た人に与えかねない。そのために"城にみえるが城でないかもしれない"ような描き方をしたのではないか。

以上のように、たった一枚の双六からも、読み取れる情報は多い。今回はこの一枚しか紹介できなかったが、今後機会があれば、他の名所双六も紹介していきたい。