南山の先生

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経営学部・経営学科

髙田 一樹

職名 准教授
専攻分野 経営倫理学、企業の社会的責任論
主要著書・論文 髙田一樹(2019)「経営する知徳としてのフロネーシス―持続可能な開発目標(SDGs)の達成に寄与する民間企業の倫理的思考」,単著,『日本経営倫理学会誌』,27,251-265.
将来的研究分野 企業が社会的な責任を果たす条件に関する理論と規範の研究
責任ある経営教育を実践するための諸制度に関する研究
担当の授業科目 卒業研究A・B・C・D、経営学演習A・B・C・D、プレゼミA・B、基礎演
習C・D、経営倫理、政治・経済と人間の尊厳5、職業指導、職業指導論

自問自答の道場へようこそ

ものごころがつくころから学校に通っています。幼いころにふと思い立ち、いまだに覚えているのは通学への疑問でした。同世代の子どもが平日の朝からおなじ建物に集まって顔をあわせ、親でもない大人たちからあれこれ教わったり、褒められたり、小言を言われたりする毎日が、どこか可笑しげで不思議に思えたものです。私のばあい、いまも通学しつづけているのですが、学校がどういう場なのかをはっきりとは理解できないうちに、もうすぐ中年を迎えます。

正確に答えられるようになったのはずっとあとのことでしたが、高校と大学のちがいに気づかせてくれたのは、高校のある授業でした。たしかウェゲナーの大陸移動説だったと思うのですが、地学教諭Nの脱線話に衝撃を受けました。「ボクがキミたちぐらいのときにこんな説は教科書に載っていなかったし、当時は笑いばなしでしかなかった。時代によって教科書の内容は変わる。いま教わっていることもそのうち変わるかもしれないよ」。

大学に進学してから、なぜか倫理学に惹かれました。どうすることが善いことで、それはなぜなのかがよく分からなかったので、この学問に興味を持ったのだと思います。学部の講義は面白かったのですが、もの足りなさも感じました。その講義では、働くこと、経営することの善さについてほとんど触れることがなかったためです。大学生の大半は学び舎を巣立ってから学校とは違った組織で働きます。寝食とプライベートをのぞけば、仕事に明け暮れる人生を送るのが現代です。にもかかわらず、なせ倫理学は、善く働くことや善く営むことを積極的に論じないのか。そのころの私にはよく分かりませんでしたが、たぶんこのテーマは大切だろうし、面白くもありそうだ。そういう直観をこれまでずっと引きずってきたような気がします。

まえおきが長くなりましたが、私はビジネス・エシックス(経営倫理・企業倫理)を研究しています。勉強を進めるうちに、この分野では企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility: CSR)という考えがカギを握ることに気がつきました。けれども調べてみたかぎり、社会的な責任が企業にあるのはなぜなのかという疑問に、私が心から賛同できる答えを見つけることができませんでした。不思議に思えるのですが、これまで多くの人たちが企業には社会的な責任があることを所与(議論の前提)として、従業員の面倒を見ること、お客によりよい製品やサービスを売ること、自然環境や生態系を守ること、芸術活動やスポーツを支援することを語ってきたようでした。けれどもおおっぴらに口に出すことはなくとも、配当と株価を高めることこそが企業の責任だと考える人たちもいます。そう考えるのなら、経営にとって社会的な責任はあまり重要ではないはずです。法律を守り、税金を納めることに法律上の責任があるとしても、働きやすい環境をつくることやより良い商品をより安く提供すること、そのほか社会のさまざまな課題に取り組むことが企業の責任だという考えかたは、ナンセンス(無意味)ではないでしょうか。責任の理由を知りたい私にとって、そもそも企業に社会的な責任があると自明視する態度は、結論を先取りしているように思えます。

まったく議論がなかったわけではありません。よく見聞きするのは、長い目でみると企業にとって利益があるとか、収益が増えたり、事業が安定したりするから責任があるという考えかたです。あるいは企業の評判やブランド・イメージを高めると考える人もいます。少なからぬ人たちがこうした考えかたを信じてきました。いつでも、どこでも、どの企業にもそういえるのなら、それに越したことはありません。けれどもそうした条件が成り立たないばあい、その人たちは責任の理由をどのように説明するのでしょうか。利益やイメージの向上のないところに企業の責任はないのだと暗にほのめかしているのでしょうか。それでもなお企業に社会的な責任があると主張したいのなら、長期的な利益やイメージとは別の理由で説明する必要が出てくるはずです。

企業が社会的な責任を果たす条件や場合分けについて、これまで突き詰めて考えられてこなかったことは、私にとって驚きでした。大学院でこのテーマについて考えましたが、まだ考えが足りないのでしばらく向き合ってみたいと思っています。

高校の地学教諭Nが放った言葉の重みは、大学院を出てからぼんやりと分かってきたような気がします。高校までの勉強には、正しい答えを1つにしぼるという特徴があります(そもそもテストの正答を1つに定めなければ、入試を採点できません)。けれども大学では、共通のテーマや問題関心について、いろいろな見かたや答えかたがありえることをみなさんは学ぶでしょう。むしろ(ちゃんと勉強した成果として)前人未到の「正解」を見つける研究が、優れた知を創り出すのです。そして大学では、自明視されてきたことに立ち止まって考える時間と空間が与えられています。(ハメをはずさないかぎり)常識という名の知の体系に疑いのまなざしを向け、そこに自分自身の問いを立て、試行錯誤のなかからオリジナルな答えを見つけだす研さんの場が大学なのだろうと私は信じています。自問自答の道場へようこそ。