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その他・外国語教育センター
趙 偵宇
職名 | 講師 |
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専攻分野 | 中国清末民初文学、台湾植民地期文学 |
主要著書・論文 | 『觀念、分類與文類源流──日治時期的臺灣現代散文』(単著、秀威資訊出版、2016年)、「黄遵憲『日本雜事詩』の改訂をめぐって」(単著、『中國文學報』、第93冊、京都大学、2020年) |
将来的研究分野 | 明治期の日中漢詩文、台湾古典文学 |
担当の授業科目 | 中国語 |
多様な言語、そして言語の多様性
日本の公用語は言うまでもなく日本語ですが、私の出身国である台湾は、台湾語という言語が存在しているにもかかわらず、公用語はなんと中国語です。しかも、台湾の中国語(日本では、「台湾華語」と呼ばれます)もまた、中国で使われる中国語とは違います(イギリス英語とアメリカ英語のような感じで理解してよいと思います)。言語の背後にあるのは、文化であり、政治であり、歴史でもありますから、台湾の公用語が中国語であるということは、まさにその文化、政治、歴史の複雑性を示しています。
台湾では、台湾語以外に、客家語や多種多様な先住民語などが存在します。たとえ同じ台湾語でも、台湾北部の台北、中部の彰化、南部の高雄、東部の宜蘭などの地域で話す台湾語は、それぞれ微妙に違います。そして中国での中国語も同様です。南の上海出身者と北の北京出身者、それぞれ話す中国語は全く同じ、というわけではありません。上海より南の福建省(ウーロン茶の産地)の中国語に至っては、どちらかと言うと、むしろ台湾の中国語に近いです。
イギリス人とアメリカ人は、異なる英語を操りますが、勿論コミュニケーションができますよね。同様に、異なる中国語を操っていても、上海人と北京人、台湾人と中国人達もほとんど問題なくコミュニケーションができます。互いの独自性を保ちながら、共通性によって交流することができる、そこが、私が言語に非常に魅力を感じる部分です。独自性と共通性のバランスを調節することは、まさに「コミュニケーション」そのものだと思います。
そういえば、中国語が台湾の公用語になったのは1949年なので、まだたった七十年程度の歴史です。それ以前、例えば1895~1945年の五十年間、台湾は日本の植民地だったため、当時の日本教育を受けた台湾人は、日本語が彼らのメイン言語のひとつでした。私のおじいさんは、日本の学校教育が行き渡っていなかった農村の出身ですが、いまだに日本語で数字の1から10までを言うことができます。
植民地期の台湾文学も非常に魅力的です。なぜなら、台湾語や日本語の他に、中国明代・清代の文化を受けて、台湾人の基本教養となった古典漢文も当時作家たちが使う言語のひとつであったからです。調べてみると、日本の政治家が漢詩文を使い、台湾の知識人を懐柔したとか、台湾を訪れた日本の漢詩人は漢詩で台湾人との交流を図ったという話が多々見られます。その上、植民地時代にも中国との関係は途切れていなかったため、現代中国語を使って創作する作家もいました。なので、当時の台湾文学を全面的に把握するためには、少なくとも①日本語、②古典漢文、③台湾語、④現代中国語の知識を身につける必要があります。
話は少し変わりますが、漢詩文でコミュニケーションを図る現象は、中国の清末民初期、つまり日本の明治初期においても見られます。現在の感覚だと少し不思議に感じるかもしれませんが、明治初期の駐日清国公使たちは外交官でありながら、日本語を話せないのです。にもかかわらず、頻繁に清・日交流会を開き、明治期の日本漢詩文の隆盛をもたらしたと言われています。では、共通言語のないはずの彼らはどうやって交流したのでしょうか。そこで出てくるのが漢詩文です。勿論通訳もいましたが、当時の交流会では、清・日知識人は、漢詩唱和や漢文での筆談というような方法で円滑なコミュニケーションが可能でした。その結果、与えあった刺激が、互いの作詩作文の更なる研鑽への一助となりました。まさに言語の独自性と共通性のバランスをうまく調節した好例だと言えます。
「純粋」たる言語はおそらくどこにも存在しないでしょう。だからこそ、言語は面白いです。