学部別インデックス
その他・外国語教育センター
中田 晶子
職名 | 教授 |
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専攻分野 | 英米文学、アメリカ文化 |
主要著書・論文 | 著書 Vladimir Nabokov and the Fictions of Memory (共著、2019) 『境界線上の文学』(共編著、2013)『書きなおすナボコフ、読みなおすナボコフ』(共著、2011) Ivy Never Sere (共著、2009) ウラジーミル・ナボコフ『透明な対象』(共訳、2002) 論文 “The Last Muse Escapes the Text” (2012) “A Failed Reader Redeemed: ‘Spring in Fialta’ and The Real Life of Sebastian Knight” Nabokov Studies 11 (2009) 「見えないユダヤ人―半世紀後に読むLolita」(2009)「死と隠蔽―Transparent Thingsを中心に」(1999) |
将来的研究分野 | 祖国喪失作家の主体形成、ウラジーミル・ナボコフ作品に隠された分析哲学者 |
担当の授業科目 | 「異文化の理解」「英語翻訳」「Literacy in English」他 |
作家ナボコフと言語の越境について
私の研究分野は20世紀英米文学とアメリカ文化ですが、ロシア生まれのアメリカの作家ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)を中心に研究しています。ナボコフはロシア貴族の長男として19世紀の終わりに当時の首都ペテルブルグに生まれ、首都の邸宅と近郊にある領地の別荘で豊かで牧歌的な子供時代を過ごします。ロシア革命に追われて、19歳で家族と共に祖国を離れた後は、ケンブリッジ大学で学び、ベルリン、パリの亡命者社会でロシア語作家として頭角を現します。1940年にナチスから逃れてユダヤ系の妻子と共にアメリカへ移住し、以後は英語で作品を発表します。問題作『ロリータ』(「ロリコン」こと「ロリータ・コンプレックス」の語源となった作品です)の成功によって国際作家となり、1960年代以降はスイスのリゾートホテルに住み、死の直前まで精力的に執筆活動を続けました。バイリンガルの作家は他にも存在しますが、ナボコフの場合、半世紀に及ぶ作家としてのキャリアのちょうど中間の時点で創作の言語をロシア語から英語に完全に切り替えている点、ロシア語作品群と英語作品群が重要度において甲乙つけがたい点、、自らの作品をロシア語⇔英語に自己翻訳していたという点において特異な存在です。
彼は子供時代からロシア語・英語・フランス語の三言語で生活しており、初めて話せるようになった言語はロシア語、読めるようになった言語は英語だったそうです。帝政ロシア時代の貴族階級の使用言語は主としてフランス語であり、高い教育を受けたにもかかわらず、母国語であるロシア語は話せても書くことが難しい人がかなりいたという特殊な言語状況にありました。ナボコフ家は、政治家であった父親がイギリス贔屓だったため、フランス語に加えて英語も使っていました。英語とフランス語は、住み込みのネイティブスピーカーの女性家庭教師(兼乳母)にそれぞれ習い、ロシア語は男性家庭教師が担当しました。もちろん両親も三言語話者ですから、物心ついた時には三言語が自然にできるようになっていたという、外国語習得に苦労する日本人にはなんとも羨ましい言語環境でした。
ナボコフの生涯は、貴族階級が存在し、国家や国境が堅固なものであった時代を背景としています。赤貧の生活も身分保障がない祖国喪失者の悲哀も体験していますが、民族紛争や経済問題のために多くの難民が生まれている現在から見ると、ナボコフは国境も言語の境界も越えて、激動の二十世紀を生き抜いた特権的な成功者に見えます。祖国喪失の体験は彼の創作活動の源泉となっていますし、創作の言語をロシア語から英語に切り替えたことが、作家としての力量を伸ばし、作品世界を豊かにしたことは否定できません。ナボコフという人間は一人であり、何語を使っていても同一人物であることには変わりありませんが、使用する言語が彼の思考やイメージに影響を与えていたことを私達は彼の作品と翻訳からある程度窺い知ることができます。
最近は機械翻訳の精度が高くなり、日常的なコミュニケーションであれば、相当なところまでスマホの翻訳アプリに任せることが可能になりつつあります。ドラえもんの「ほんやくコンニャク」がほとんど現実になったとも言えるでしょう。それでも高度な内容や表現に関しては、まだまだアプリには頼れませんし、この先も自ら外国語を学び、その言語を生み出すと共にその言語によって構築された社会、歴史、文化を知ることによりその言語を深く知り、自分自身の一部も再構築(浸食?)されるという体験の貴重さが消えることはないでしょう。学生のみなさんにもぜひ体験して欲しいと思っています。その体験により、日本や日本語をもより深く知ることができると私は考えています。