短いレポートの書き方

 

 私は(も?),レポートを評価対象とする場合が少なくありません。それを読んでいて思うのは,はっきり言ってへたくそなものがとても多いということです。でも,へたくそだと評価しておいて何も手を打たないのでは,高校までの教育と同じになってしまうので(高校までの先生に対して挑戦的ですね。ある意味,挑戦しているのですが。),ここでは私の考える(つまり我流ですね)短いレポートの書き方を紹介してみようと思います。でも,必ずしもこれがベストだというつもりはありません。学問領域によって違うでしょうし,評価者の視点・観点によっても変わってくるでしょう。あくまでも私の書き方,と認識しておいてください(でも当然,私はこのような視点から評価をしています)。

■ わけのわからないレポート

 問題外のレポートです。内容的には3種類あるように思います。
 まずは,これこそ問題外である,出題の条件から逸脱したもの…。たぶん,出題時に欠席していて,知人から中途半端な情報を又聞きして書いたのかな…というようなもの。
 次に,何が言いたいのか,何を伝えようとしているのかがわからないものです。これはおそらく,書いているほうも何を書いているのかわかっていないのだと思われます。レポートは何を書くか決めてから書く,ということに注意すれば解決するのではないかと思います。
 そして最後に,文章としての日本語に問題がある場合です。主語が無い,指示語ばっかり,時制が統一されていない,などなど。書いてあるものは,文字だけが頼りで,疑問があっても質問できず,さらに文頭から文末に向かってのみ読んでいくのです。このような基本的なルールに従っていたら読めないようなものは,どうしようもありません。“わからん”といって投げ出されるのみです。“文章で”表現する練習あるのみでしょう。
 これらは出さないよりマシ(0点では無い,という意味で)ですが,提出したとしても当然合格レベルの評価にはなりません。

■ 味気ないレポート

 レポートを単なる報告書と考えているのかどうかはわかりませんが,本当に報告書のようなものが出てくることがあります。調べたことの羅列で終っているのです。これに対してもなぜいけないのか!という人がいることでしょう。これは私の考え方かもしれませんが,私はレポートは資料を“踏まえて”成り立つものと考えています。踏まえると羅列は違います。つまり,資料をどう読み,そこに何を見つけ,何を提言できるのかといったことを書いて欲しいと思っているのです。単に資料の羅列であるなら,出典だけ書いてもらえばいいわけですし,情報検索の力を誇示するのならば,コンピュータをしのぐだけのものを提出しなければなりません。人として情報に対して何ができるのかという点から考えると,その加工やそれを踏まえたアイデアの創出だと思います。これがないと,味気ないレポートに感じられてしまうのです。特に字数が制限されていると,資料の集約・加工能力が問われます。これは資料を自分のものにしておかないと難しい作業になります。
 甘いような気もしていますが,私の場合このあたりが合格の最低基準になります。

■ こんなものかなと思うレポート

 もっとも平均的かなと思うもので,味気ないレポートの内容の前に,“ちょっとだけ”自分の視点が書いてあって,後ろに“ちょっとだけ”総括的な内容や,自分の考えが書いてあるものです。レポートの形式としてはこれでいいのですが,もう一つの特徴として,集約された資料の前後にある筆者なりの考えが,間にある資料とフィットしてないということがあります。読んでいて,「この資料を使うなら,前と後ろをもう少し変えればいいのに」とか,「こう考えるのなら,使う資料を違うものにすればいいのに」と思うのです。ここが大きな壁になっているような感じがします。これをクリアできるかどうかで,平均的なものになるか,「いいなあ」と思わせるものになるかが決まるような感じがします。
 ちなみに私は,大抵の場合で,このレベルを2段階くらいに分けて評価します。引用・参照してある資料の量や質,それを踏まえて論じている部分(たいていはレポートの最後)の量や質を見ます。

■ いいなあと思うレポート

 はっきり言って,めったにお目にかかれません。全体の1割には満たないでしょう。どのようなものかは,先に書いた内容がクリアされているもので,筆者の考えと使われている資料がフィットしていて,自然な流れで結論につながっているものです。筆者が書くという作業の中で,資料という部品をうまくつかっているなあと感じられるものです。さらに,+αが感じられるもの。この+αについてはうまく説明できないのです。「ああ,上手に書いてあるな」と思っても何か足りないと感じることもあります。著者のオリジナリティといえるであろうインパクトというかスパイスというか…。これがうまく説明できるようになれば,書き加えてみたいと思います。
 なお,時にこんなことを書いたら評価してもらえないのではないだろうかと不安になる人がいるようです。私は,結論についての評価はほとんどしません。そこに至るプロセスを重視していますので,妥当な理論展開を踏まえていれば,受け入れ難い結論であっても理解はしますし,評価もします。結論がいいか悪いかという議論は,そこから先の話しになります。例えば,「いじめ」についてのレポートを求めたとしましょう。結論として,「いじめ」は良くないとなっても,良いとなっても,その過程が妥当なものであれば同等に認めるということです。その結論を,私が情的に認めるかどうかという点は,レポートの評価とは関係ありません。まあ,このような個人的感情をレポート評価に入れるような教員はいないと思いますので,心配にはおよばないと思います。

■ レポートを書くことは難しいのか

 よく,「レポートを書くのは難しい」と言われます。はたしてそうなのでしょうか。私に言わせれば,難しく考えすぎという感じがします。
 私は授業中に,これについてどう思うかとたずねることがあります。いいとか悪いとか,好きとか嫌いとか,まあ答えは様々ですが,何かかえってきます。レポートにしてもこのような質問にしても,こちらが欲しいのは,「問い」から「答え」の間にあるものなのです。「問い」から「答え」までの過程をどのようにたどったのかということです。時に,「そう思うのはどうして?」と追加の質問をすると,「だって……」ととまどってしまう学生もいます。それでも待っていると「わかりません」となってしまうこともあります。
 ここでとまどったり,わからないと言ったりするのは,「問い」から「答え」までの過程をどのようにたどったのか,その本人もわかっていないということです。でも,いいとか悪いとかという反応は返ってくるので,「問い」から「答え」までの過程をたどっていることは確かなのです。ここから先は訓練です。自分が何をどのように考えて,その答えにたどり着いたのか,ということを自覚する訓練が必要でしょう。ここでは,考える力は必要ありません。よく「考えられないんです」とか「考えていないんです」という人がいますが,それは間違っています。好きだったり,嫌いだったり,変だなと思ったり,腹が立ったりするのは,何かを考えているからです(少なくともこのよう考えなければ,何かを論じることは言葉の遊びになってしまいます)。
 つまり難しいのは,考えたり書いたりすることではなく,思考過程をたどることなのです。レポートは,問題があって,それに対する個人的な回答(結論)があるというのが基本です。そしてその回答に至るプロセスを間に書く。でもそのプロセスは独断的・独善的なものになりがちなので,いかにそれが一般的で妥当な思考プロセスなのかを示すために資料を使うということになります。
 このように書けば,「なぜ書きながら考えることがいけないのか」ということがわかってくるでしょう(下書きとしては必要ですが)。普通(少なくとも私は),考えるときに論理的整合性をもって考えているわけではありません。あれを考えて,これを考えて,変であったら前に戻って,とバラバラにいろんなところから考えていきます。だから,考えていることを時間にそって順番に書いていくと支離滅裂,ボロボロ・バラバラになってしまいがちです。もう一度,それを理論的整合性を持ったものにまとめ直す必要があるのです。
 あまり,難しく考える必要はありません。あなたは,ちゃんと考えているはずです。その考えている自分を,少し客観的に眺めてみれば,レポートを書くことはそれほど難しいものではなくなるでしょう(たぶん)。

■ 書くときの注意点

 最後に,レポートを書くときにどのような点に注意すればよいのかを書いておきましょう。これは発達心理学で求めているレポートを見て感じたことをまとめてあります。参考にしてください。

●目的をはっきりと  レポートの構成を考えるためには,何を伝えるための文章なのかという点を考える必要があります。結論は書く以前にあると言っても過言ではないでしょう。この目的があいまいだと,文章もあいまいになりますし,構成を考えることもできません。読んでいて「よくわからないな」という感じを持たせるレポートはここに問題があるものが多いです。

●レポートは思考をまとめるためのものではない  レポートを自分の考えをまとめるための“方法”と考えているようなものが目に付きます。レポートはまとめた考え,すなわち思考の“結果”です。始めに問い,終りに結論があるようなものでも,その間のプロセスは,「このように考えたら,このようになった」という思考プロセスを明示したものであって,書きながら考えたものではありません。レポートは,一つの創造的な作品です。製作途中のようなものではダメ。

●構成や段落  ただ決められた字数を書けばよいとは思っていないでしょう(少なくとも良い評価を求めたり,うまく書けるようになりたいと思っていれば…ですが)。でも,そうとしか思えないものもあります。何を言いたいがための文章なのか,自分はどこを強調したいのかといった点を明確にすると,そのための方法,つまり文章の構成がはっきりすると思います。段落は構成するためのブロックになるので,積み上げ,壊しながら試行錯誤してみてください。1文1段落や,全体で1段落といった構成は問題外です。

●参考資料の活用方法  参考資料を活用するとき,特に引用の場合には,その出典を明らかにしておいてください。引用部分は,必ずかっこ付きで明示し,その後に,(○○(執筆者の姓),1995)というように書いておくのが一般的でしょう(心理学の分野で)。さらに,本文とは別に,付記として執筆者氏名,出版年,タイトル名,出版者名を書き加えておいてください。

●接続詞の使い方  構成をうまく表現するためには,どうしても接続詞が重要になります。特に段落をどういう形ではじめるか,その表現次第で,その段落の位置や前とのつながりがわかりやすくなったり難しくなったりします。順接(だから),逆接(しかし),並列(また),選択(あるいは),要約(すなわち),例示(例えば),転換(ところで)など,上手に使い分けてください。

●指示語に注意  「これ」,「それ」,「あれ」といった言葉ですが,これらの指し示す先がわからないことが多いのです。当然,書いている本人はわかっているのですが。「このこと」ってどのことと突っ込みを入れたくなるようなものが多々見られます。一つの解決方法は,指示される内容と指示語の距離を近付けることでしょう。

●誤脱字,ワープロの変換ミス  ワープロの変換ミスが目に付きます。また,手書きの人の中にも,誤字が見受けられました。これは完全に書いた人の不注意に他なりません。日頃から,見直す癖をつけるなどして注意しておいてください。

●適切な日本語  日本語で育ってきた人は,英語を書くときは,こっちの単語がいいのか,あっちのほうがいいのかと,辞書をひきながら考えるのだと思いますが,日本語の時は言葉を慎重に選ぶなどということはめったに無いと思います。でも,もうちょっと慎重でもいいのではないかと思うときがたくさんあります。いくつか気になっている点があるので,書いておきます。

○「わかった」  この表現を,レポートの最後の考察部分で使っているケースがよくあるのですが,ほとんどの場合で使い方が違っていると感じます。また短いレポートなどのレベルで,「わかった」という表現を使えることは極めてまれでしょう…。
 たとえば,文献にあたって,「A」「B」「C」という知見があることを知った。そのことを,「○○については「A」「B」「C」であることがわかった」と表現している…。これをおかしいと思わない人もいるかもしれませんが,少なくとも私はおかしいと判断します。なぜなら,先の文意は「○○については「A」「B」「C」であることを私が知った」という意味だからです。もう少し表現を変えれば,「○○については「A」「B」「C」であると文献に書いてあった」でも同じでしょう。レポートや論文は,日記や作文ではないので,このような意味で「わかった」という表現は使いません。

○「正しい」  レポートには,正しい知識,正しい意識,正しい行為など,「正しい」という表現を使ったものがよく見受けられます。「正しい知識」の「正しい」は,「正確な」という意味でしょう。一方「正しい意識」,「正しい行為」などの「正しい」は,「正確な」という意味の場合もありますが,「道理にかなった」という意味で使われることが多いと思います。このような,複数の意味を持つ言葉は他にもたくさんあります。紛らわしいので,一つのレポートの中で,一つの言葉は一つの意味で使うほうがわかりやすいと思います。時には,矛盾を引き起こしているともとられるのでので注意してください。

○意図的と非意図的  特に人についてのレポートを書くとき,その様相の出現が意図的なのか非意図的なのか,偶然なのか必然なのか,などといったことを明示しなければならない場面で遭遇します。例えば,価値観は「形成していく」ものなのか,形成されるものなのかといった表現の選択です。もし「形成していく」と書いた場合には,個人の積極的な意図を示していると読みますし,「形成される」と書いているなら,外部要因の影響が大きいんだな,と読みます。これらの表現が一つのレポートの中に,何の断りもなく混在していると,「結局こいつはどう考えているのだ?」ということになります。