ぶつぶつ(2004年〜2007年)

…単なる独り言…

■ ぶつぶつ2/14/2007
 いつの間にか新年を迎え,やっと入試の山を越え,もう少しで定期試験の採点を終え,という例年通りの1,2月です。違うところといえば,妙に暖かいことでしょうか。確かに異常ですね。

 さて,授業のレポートに出した,「人生で大切な3つのことをインタビューしてまとめなさい」という課題は,出した本人も興味深く読ませてもらっています。だから採点も良くなるかというと,これは別ですが。

 ちょっと自分でも考えてみたのですが,「人生で大切なことを3つあげてください」と問われたら,何をあげるかな…。おそらく来週になればまた別のことを言っているような気がするけど,今日考えたところでは,「喜ぶこと」「悲しむこと」「考えること」が出てきました。考え方としては単純で,人間としての深みが重要だと思ったので,そこにたどり着くには…と考えて出てきたものです。本気で喜んだり,悲しんだりすること,そこから考えて次へと進んでいくこと,これがちゃんとできるようになりたいと思います。後何年かかることやら…

 レポートを読んでいると,「家族」「健康」「お金」などはよく出てきます。もちろんそれが大切でないとは言いませんが,たぶん私の場合であれば,ベスト3には入らないですね。とりあえず現在困っているものではないからかもしれません。

■ ぶつぶつ12/12/2006
 ものすごく久しぶりに書いています。とりあえず,うらかみは生きています。

 まったくぶつぶつ言いたいことではなく,新しく本を書きましたという,あからさまなCMです。トップページにも載せていますが,「“学生”になる! −進学が決まった時に読む本−」という本を,北大路書房から出版しました。はじめての,自分が書きたいと思ったことを自分だけで書いたものです。私を知っている人が読むと,「らしさ」がよくわかるのではないでしょうか。

 これもまた,ここまで来るのに1年以上かかってしまったという,何ともスローペースな仕事の成果なのですが,結構満足できるところまで仕上がりました。まあ,授業などでいろいろと言っていること,つまりお説教モード全開で書けたということです。お説教というと,「こうしなければいけない」「こうすべき」というイメージがあるかもしれませんが,私の場合はもっとヘラヘラしているので,お説教といっても「こんなことを考えておく方がいいんじゃない」という感じです。「私の人生じゃないから強制はしないけど,その責任は自分でとろうね」というスタンスです。私のいつものスタンスといえばそれまでですが。

 これを世の中の高校生が手に取るか?… 金を払うか?… かなり難しいかもしれない… ということで,かれらに強制的に推薦してください(嘘ですが…)。

 感想など,愛読者カードなどを通して教えいただけるとありがたいです。

■ ぶつぶつ6/13/2006
 特権階級は,1000万円を村●ファンドに投資し,3年間で200万円の利益を得ました。しかし庶民は,10万円を投資し,3年間で2万円の利益しか得られません。やはり,庶民は不利です。 特権階級は,1000万円を村●ファンドに投資し,3年間で200万円の利益を得ました。しかし庶民は,10万円を投資し,3年間で2万円の利益しか得られません。やはり,庶民は不利です。

 特権階級は,1000万円を村●ファンドに投資し,3年間で200万円の利益を得ました。しかし庶民は,10万円を定期預金にし,3年間で数円の利益しか得られません。やはり,庶民は不利です。

 なんだか,日銀総裁の問題やなんやらの報道を見聞きしていると,こんな論調のような気がします(立場の問題は置いておきますが)。それらをみていて,「庶民をバカにすんなよ!」と,メディアにかみついてみたい気持ちになるのは私だけでしょうか? 「庶民には利率とか,リスクなんて分かんないですもんね」と暗に言われているような気がしてくるのです。

 とりあえず,これくらいならわかるぞ。1000万の200万も,10万の2万も同じだし,それが年率で8%くらいだってことはわかる。年率8%くらいなら,村●ファンドじゃなくても他にもあるし。定期預金は利率が低いってことも知っている。ついでに,銀行がその間にものすごく利益をあげたってことも知ってる。リスクをとらないとリターンが少ないってことも知っている。インサイダー情報は知らないけど,これくらいは庶民でも知ってるぞ。

 だから,庶民だって「1000万円を村●ファンドに投資し,3年間で200万円の利益を得た」ことに対しては,その利回りの悪さに驚くぞ。こっちだって,年利6%の定期預金金利を知ってる世代だぞ。庶民的であることは,庶民のレベルを低くみることではない,っていうセンスがほしいなあ。

■ ぶつぶつ6/13/2006
 先日,テレビで「もったいない(MOTTAINAI)」ブランド?(キャンペーン?)について知りました。なかなかいいじゃない,などと思いながら見ていたのですが,先日身近な問題として出現しました。

 もったいないという言葉は,私にはばあちゃんの言葉として残っているのですが,結構物持ちはよいです。10年以上前から使っているものも結構あります。家電とか小物とか,そして服とか靴まで。昔の写真を見ていて,「この服まだ現役じゃない」ということもしばしば…。ちなみに靴は,靴底を何回も替えていますがね。

 また話がすっ飛んでいったのですが,問題として浮上したのはスピーカーでした。ここ数年押し入れの肥しになっていたものを引っ張り出してみました。つなげてみると音は出るので,掃除をしようとネットを外したら…。 コーンと枠をつなぐ柔らかいところ(なんて呼ぶのかわからないけど)にひび割れが。そっと触ってみると,もろくも形を失っていく…。 経年劣化…

 こりゃダメだ… 大学に入学した年(ほんの20年ほど前)に買ったヤツだからな… などと思っていたのですが,ちょっと気を取り直してメーカーのWebを見てみると,修理可能。だけど修理費と工賃を合わせると,買い直すより数千円安いだけ…。送料を考えると… さあ,どうする!

 これを捨てて買い直す → 世の中に不燃ゴミが増えるだけ
 修理する → ゴミの量は少なくてすむ… けど…

 さて,どっちが私のため,社会のためになるのか?
 どっちが気持ちいいのか?

■ ぶつぶつ6/5/2006
 久々に書きます。なぜ書かなかったのかというと,書こうという気にならなかっただけです。それ以外に特に理由はないです。

 最近,本を何冊か読みました。私の読書には,相当に波があるようで,読む時は1日に1冊とかそれ以上とか,そんなペースで読むし,読まない時は数ヶ月間,1冊も読まないということもあります。ただし,ぺらぺらとページをめくるのは毎日です。これでも,とりあえず仕事はしているので。私の場合の本を読むというのは,1章とか1冊とか,ある程度まとまったものを読破するというということです。

 前置きが長くなりました…。書きたかったのは,至福の時間ということだったのですが…

 何も予定のない日の午後(できれば天気がいい方が…),家で何を考えるでもなくボーとしている。ちょっと本を見て,テレビを見て,パソコンをたたいて。真剣に聞くわけではないけど,気持ちの良い音楽が流れていて。そのうち日が傾いて,夕刻に近づいていく。ささやかな,私にとっての至福の時間。極めて非生産的で,無駄の極みのような時間。

 どうも私は,何事も一つに集中してやるのは性に合わないようです。「ながら族」の代表のような感じです。だから,好きに「ながら」ができる時間が好き。

 まあ,いろいろと人の本を読んでいて,そこに現れる(紹介されている)人たちの私の想像を越えるリジットな時間管理には驚嘆します。いかに時間をうまく使うかなんてことを真剣に考えている…。なんだか自分がとてもダメ人間に思えてきます。でも根がポジティブなので(自分ではそこまでとは思わないのですが),そんな立派な人の足元をはらってみたくなります。そんなことして,何が楽しいのですか?

 足払いがうまくいかなくて,自分がこけてしまいそうな質問だなあと思います。でも,こんな無駄なことを考えている時間が好きなんだからしょうがないか…

■ ぶつぶつ12/22/2005
 外は雪です 。 名古屋に来て,岡山や神戸よりも雪のよく降るところだとは思っていたのですが,今年はやっぱり異常気象なのでしょうか。

 雪は嫌いではないし,雪道を走るのも特に嫌ではありません。そいえば,去年はあまり雪が降らなかったので,ちょっと積もったときに万博会場(当時は建築中)あたりまで行って,雪道の感触を楽しんだこともありました(一昨年だったかな…?)。結局は,暖かな(雪の降らない)土地で育ったためか,雪が降るとはしゃぎたくなるというわけです。

 しかし,台風が来るとか,大雨だとか,大雪だとか,そうなると落ち着いていられなくなるというのは私だけでしょうか? そわそわとして,氾濫しそうな川の状況を確認したくなったり,雪の中出歩きたくなったり。テンションが上がるようです。本能的に危険を察知して覚醒の度合いが上がっているのか?

 でも,そんな時は安全第一がいいのでしょうね。怒られたり,車を1台つぶしたりもしましたが,あまり懲りていないような自分がいます。スタッドレスに替えたからもうちょっと積もってから帰ろうか,なんて思っている自分がいたりします。明日の朝も,ちょっと早めに目が覚めることでしょう…

■ ぶつぶつ11/10/2005

 そうそう。散髪しました。相当に私信です。

 さて,先日の学会の折りに,といっても夜の飲み会の時ですが,中途半端に話していたことをまとめてみようと思います。研究からしばらく離れていると,論文を書くことが怖くなるということです。「研究すること」とか,「研究にコメントをすること」ではなく,「論文を書くこと」が,何だか怖くなってくる感じがします。さらに,たぶんですが,これには年齢(経験年数)も関係すると思います。

 これは,他者評価が気になってくるからということで,大部分が説明できそうな気がします。院生の頃なんて,ほとんど怖いものなしの状態でした(私だけかもしれませんが)。堂々と「知らない」と言えるし,そう見られているし,失うものなんてないし,どんな研究だって発表できた。何にしろやっていることで他者評価が高まると実感していたからでした。

 それが,ちょっと研究から離れていると,その間に相応の歳をとり,相応のポジションなんかがくっついてきて,歳相応のものが期待されるようになってくる。というのは,単なる思い込みの話しかもしれませんが,そんな気になってくる。そうなると,ついつい人の目を気にしながら論文を書くようになってくる。そんなことが面白いわけもなく,何だか不自由な感じがしてきて,書くことが嫌になってきたりするのです。

 もちろん,併せて自己評価の問題も顔を出します。何もせず,ボーと年月を重ねているわけではないので,それだけ知識が増えてくる。そうなると,自分がやろうとしていることが,何だか小さい,つまらないものに見えてきたりします。それだけしかできない自分が恥ずかしく,やはり書いて公のものにすることが怖くなってくというわけです。

 このような他者評価に対する懸念と,自己評価の低さがあいまって,まんじゅうこわい,ではなく,書くことが怖いと感じてしまう。我ながら,おとなになったなあと思います(?)。最後に学会誌に論文を書いてから,いつの間にか10年ほどが過ぎようとしています(その間に,実は投稿したものの,取り下げたというものがあったりしますが)。復帰したいものだと思いつつ,何だかわからない怖さを何とかしないとねぇ。

■ ぶつぶつ8/12/2005
 採点に追われる日々… 学期の終わりはうれしいのだけど,これがやっかい。これさえなければ,授業をやることってもっと楽しくなるのだけど。学生にしても同じだろうなぁ。試験がなければ,大学はますます天国。

 しかし今回の評価で,はっきりとわかったことがひとつ。9年目にしてやっとか,と言われるかもしれないが,やっとなんです。ただし,学生の質が変化してきたからかもしれないのですが。

 「今回の試験の難しさはフツウです。並です。」と言ってはいけない。ある授業で,まあ,フツウに勉強してくれば大丈夫だと思うよ,なんてことを言ってしまった。結果,蓋を開けたら悲惨な成績が…。大体いつも同じくらいの難度の試験をやっているのだけど,こんなに悪いのは2度目。数年前にも1度あったのだけど,このときも同じようなことを言ったような記憶がよみがえってきた。多分あの時も,同じようなことを言ったような…

 私の感覚では,教員が「フツウの難しさ」なんて言ったら,はなっから疑ってかかるのだけど,案外学生は素直にとるのかな? 教員の言葉を素直に信じないのは私だけ? 結構信用できない物言いをする人種なんだけどな…。次回は「めちゃめちゃ難しいです」って言ってみよう。これで学生が勉強するならしめたものなのだが。

■ ぶつぶつ7/8/2005
 少々話題としては古いのかもしれないが,ディープ・インパクトについて。誰かがどこかで,経費について「壮大な無駄遣い」と言っていたような記憶があるのだが,同感。

 もっと気になったのは,この計画についてだれも「そんなことやっていいの?」という疑問を投げ掛けなかったのかどうかということ。倫理という言葉が適切なのかどうかはわからないけど,個人的には「そんなことやっちゃまずいでしょ。人として」という感じがとても強い。確かに誰も住んでいないし(おそらく),それによって科学的理解が進むかもしれないが,「それがどうした」という気がしないでもない。それより先にやることがあるだろうという気がしないでもない。金のかかった,アメリカという国の国力宣伝と国民意識高揚用のCMという気もしないでもない。

 おもしろかったのは,国立天文台のHP。そこに,

「なにしろ,人類にとっても最初の試みですから,何が起こるのか予想ができない,というのが正直なところです。
 注意していただきたいのは,何が起こるにしても,地球や地球上の生命を脅かすようなことは決して起こらないということです。インパクターがテンペル彗星に衝突するのは地球から1億km以上も離れた場所です。もし仮に,彗星がバラバラに砕けるようなことになったとしても,地球にはなんの影響もありません。」

という文章がありました。どう考えても科学者らしくない表現で,何が起きるか予想できないのに地球には影響がないと断言している。もし宇宙人の基地が中にあって,攻撃と勘違いされて地球が攻められたらどうする! (限りなく100%に近い冗談ですが)

 いずれにしても,何だか人間の人間らしい悲しいところかなと感じます。そのうち,地球上には不要だから,地球には(おそらく)影響がないからという理由で,宇宙にゴミを捨てに行く時代がくるのでしょう。

■ ぶつぶつ6/13/2005
 先日タバコを買ったら,また当りだった!! やはりパッケージが変更されたよう。それに,依存や脳卒中だけでなく,肺気腫や肺ガン,出産に関わる問題などいろいろなバージョンがあることがわかった。なので,修正と訂正まで。

 どれが一番グサッとくるかなと自虐的感覚で眺めていたのだが,何か今一つ迫力がない。というよりか,既知のことばかりなので,今更言われてもなあという感じ。知っていて吸っているのだから,これを止めさせるには相当にどぎついものが必要かもしれない。私は個人的に血を見るのが嫌いなので,手術シーンなんかが印刷してあると相当にこたえるかもしれない。たぶん,持ち歩きたくないと思うだろう。

 そうなったらシガレットケースに入れ替えるか,と考えてしまうところが問題か。

■ ぶつぶつ6/6/2005
 先日タバコを買ったら当りだった!! いつもと違う箱。「喫煙は,あなたにとって脳卒中の危険性を高めます。」「人により程度は異なりますが,ニコチンにより喫煙への異存が生じます。」なんてことが書いてある箱。パッケージが変更されたのかな?

 自分が,未だにタバコをやめられないおバカだということは重々承知している。タバコが堂々と吸えるような時期は二度と来ないと思うし,来なくてもいい。学生には,早めにやめた方がいいと言うし,健康以外のデメリットについても話をしたりもする。やたらと矛盾しているのが現状。

 中途半端といえば,それよりも気になるのがJTの中途半端さ。これって何を意図したパッケージなんだろう? 一番大きな文字で書かれていたのは商品名なんだけど,「人により程度は異なりますが,ニコチンにより喫煙への依存が生じます。」というのも他に比べると大きい。「人により程度は異なりますが」って何よ。「喫煙は,あなたにとって脳卒中の危険性を高めます」って,一般的な感覚からしたら,ガンになりますってことの方が知られているんじゃないかな。その意味では,刺激は少ないか。

 タバコが売れなくなるとJTは困るだろうし,税金が入る自治体も困るだろう。昔は「タバコは町内で買いましょう」なんてプリントされた使い捨てライターがあったし。私と同じくらい矛盾しているのだろうなあ。時代はどう流れていくのか…

■ ぶつぶつ5/23/2005
 シーズンまっただ中である。別に野球のことではない。F1とWRCである。FIAの回し者のような感じであるが,この時期は毎週のようにどちらかのイベントが開催されている。F1は誰でもわかると思うが,WRCはどうだろう? 昨年から日本でも開催されているWorld Rally Championshipであるが,知名度は今一つかな。公道を市販車に(姿だけ)近い車がすっ飛んでいく,早い者勝ちのレースである。

 FIA(国際自動車連盟)が公認する2つのレースなのだが,これが妙な違いを持っていておもしろい。公平性というか,強いものと弱いものの扱いの差というか,そのあたりにかなり大きな違いがある。F1は予選を行って,早いものが前からスタートする。その予選も,シリーズポイントのリーダーがちょっと得をするような出走順になっている。

 ところがWRCは,ちょっと様子が違う。1戦あたり3日間のタイムの合計で競う(みんなでヨーイ,ドンではなく,1台ずつ少しの間隔を空けてスタートする)のであるが,その初日はシリーズポイントのリーダーから出走する。舗装路のレースも未舗装路のレースもあるのだが,未舗装路の場合,最初の方にスタートすると道の掃除役になってしまい,速く走れないことが多い。つまり,シリーズポイントのリーダーがちょっと損をすることが往々にしてあるのである。

 さらにおもしろいのは,日本をメインに行われているスーパーGT。優勝したりしてしまうと,次から50Kgの重りを積んで走らなければならない。逆に順位が悪ければ,軽くすることができるというルール。

 一体どのやり方が一番公平なルールなんだろう? まあ,ルールの元にしか公平は存在しないのかもしれないが…

 

 補足(蛇足)的に… シリーズ・レースの不思議なところを言わせてもらうと,なぜタイムという比率尺度水準のデータがあるにもかかわらず,順位水準に落として,さらには無理やり間隔に上げて合計するんだろう? リタイアとかの処理が難しいからかな…

■ ぶつぶつ5/10/2005
 本の話題続きでちょっと恐縮。ある冊子に次のような書店の方のコメントがついていた。

 ある版元の営業さんが,営業努力で安く出版することができたというウリで本を持ってきたという。これに対しておかんむりということだ。この本はすごくおもしろいから自信を持って2000円にします,くらいの啖呵をきれ,そんなことで本屋(文中では書肆)なんていえるか,という内容。

 ふむむ。わからないことではないけれど,とても手前みそな言い方だなあというのが正直なところ。どこにも消費者の視点がない。何で努力して安い本を作ったことに対して怒りの矛先を向けなければならないのか? 本を書く側も,できるだけいいものを,できるだけ安く出したいというのが希望なのだが。いいものは高くてもよいというのは,「おごり」ではないか?? そんな価値判断は市場にまかせておけばいい。

 こんな話になると,どうしても再販制度に立ち入らなければならなくなるのだが,個人的にはどうなっても,メリット,デメリットの両方があるので,どちらでもよい。本を書きたい人,本を読みたい人が存在する限り,何らかの形態でそこにギブ・アンド・テイクが存在するはずである。それが今のような形態かどうかはわからないところが,特に流通・販売に関わる人を不安にさせているのだろう。すべての本がインターネットからのダウンロードになってしまうと,流通業,書店なんてものは存在しなくてよいのだから。

 いろんな形態があっていいと個人的には思う。安いもの,高いもの,店に行かなければ買えないもの,インターネットのみで買えるもの,中古品,新品。本屋ももっともっと多様化して,魅力的でおもしろいところになっていけばいいと思う。本好きと時間潰しの暇人しか集まらないところでは,先は見えていると思うのだが。

■ ぶつぶつ4/23/2005
 このページで2年ほど前に決意表明(?)をしておいた本ができました。タイトルは,「心理学 Introduction to Psychology」。「どこかのパクリか」と感じられる方もおられるでしょうが,その通りです。まったく否定するつもりはありませんし,「Introduction to Psychology」のように育てていけたらいいなあと思っています。

 今回教科書作りに挑戦してみて,改めてその難しさを痛感しました。一定の紙幅の中に入れられるものは限られているので,その取捨選択をし,さらに著者とも交渉し,全体的な統一性の中にまとめていく。また教科書なので,どうすれば教えやすいか,また学習者は使いやすいかを考える。これが結構難しくて,教えやすいものにすれば,読むだけではわからなくなるし,学びやすいものを追求すれば授業で使いにくくなるのです。まあ,ある程度気づいていたことではあったのですが…

 まだまだ100%満足とはいきませんが,一つ胸を張れるとしたら,そのほとんどを本学関係者で書けたところでしょう。後輩でもある小塩,小川両氏にも手伝ってもらいましたが,偏りなく専門家がそろっているのだということを確認できました。また,企画を説明し執筆をお願いしたときに,誰も断らなかったということも振り返ってみてすごいことだと思います。某著者から,出版にこぎ着けることができたのは,ひとえに私のしつこい督促と原稿取り立ての賜物だという“おほめの”言葉をいただきましたが,よくもまあ若輩者に付き合っていただけたと思います。原稿の書き直しや修正に快く(?)応じていただいた先輩方の,寛大な精神に敬意を表したいと思います。(と,これだけ書いておけばきっと次も…)

 これは育てていきたい本なので,ぜひ読まれた方,お使いになった先生方からの批評をいただければありがたいです。ナカニシヤ出版さん,もしくは私の方までお願いいたします。

■ ぶつぶつ3/25/2005
 ずーっと,ちょっと意図的に書いていませんでした。でも,何とか生きています。何で書いていなかったかというと,特に理由もないのですが,あまり書きたいと思わなかったから,ですかね。なので,ここで再開宣言をするつもりもありませんが,終了宣言もしません,よ。

 世の中,ホリエモンとボス猿の戦いが華やかに行われていますが,何だかとてつもなく遠い世界の出来事のような気がします。ただ,某ラジオ局がどうなろうと,某サイトがどうなろうと,某テレビ局がどうなろうと,今の私にはまったく影響がない(ただ,某テレビ局がケーブルなどでやっている有料チャンネルの価格を上げると通知してきたことがこれに関係しているのなら,多少巻き添えを食ったのかもしれないが)。どさくさ紛れに株で儲けようともしていないので,この意味でもどうでもよい。野心と保身,新と旧,同盟と裏切りみたいな,戦国的下克上の番組と見れば,それなりに面白い気もするが。

 ただ,当の会社の社員さんは気が気じゃないだろうなと思う。でも,株主をトップとするヒエラルキーの中では,それも当然のことかなとも思うし。ここは難しい。

 いや,今回はこんなことを書こうとしたわけではなかったのだ。この番組に関係して,テレビや新聞などのマスコミが,ちょろっと,さらっと出してくるきな臭い動きが妙に気になるということを書きたかったのだ。

 それはホリエモンが「情報は垂れ流しでいい」と言ったとか言わなかったとかに関係して,「それはダメだろ,無責任だろ」みたいな言い様である。「中立性」だとか「公共性」だとかといった表現で語られるのだが,今どきマスコミに「中立性」や「公共性」を認めている国民がいるのだろうか? 取捨選択が入り,作られた記事,作られた番組に,「中立性」や「公共性」,ましてや「真実」が存在するなら,それは書いた人,作った人の考える「中立性」や「公共性」,「真実」であり,一般的に言われる「中立性」や「公共性」,「真実」であるかどうかは明らかでない。少なくとも,このドタバタの中で,当事者を番組から外すという判断は,「中立」や「公共」「真実」の追求とはかけ離れたものだろう。そんなマスコミを誰が頭から信じる? 神にはなれないよ。

 どさくさにまぎれて,変なことをいうマスコミに,それを外に向けて表現する前に,自分の足下を見てよと言いたくなるのは私だけだろうか。

■ ぶつぶつ9/15/2004
 またまたずいぶん長い間書いていませんでしたが,何とか生きております。モチベーションが上がってこないので,開き直っています。
 そんなところなのですが,先日は学会に行ってきました。指定討論者ということで少し話をさせてもらったのですが,内容はやはりというか,それしかないのですがキャリアについてでした。学生の抱えている問題について色々と事例や意見が交換され,役付きでなく,一参加者として聞いていられたらもっと気楽に聞けて,面白かったのになあと思いつつ。
 そんなセッションを終えて,新幹線で名古屋へ戻ってきたのですが,その車両の中に酔っぱらいサラリーマンが二人。ここは居酒屋じゃねえぞと思いつつ。聞きたくもないのに大声で喋るので内容が聞こえてきました。そしたら,どうもその一人はお偉いさんらしく,常務か専務かと呼ばれていました。それなりのキャリアを積んできた人のようでした。ついさっきまで話をしていたキャリア支援は,こんなヤツになるような基礎をつくりだすものなのか? もちろん酔っちゃあいけないといってるわけではなくて,場所を考えたら,人として,肩書き付きの人としてそれでいいの?ということです。
 自分もそうだけど(肩書きつきで呼ばれるようになってきたので),肩書きを持っている人が人格も優れているとはさらさら思っていない。新聞社のトップが,耳をふさぎたくなるような失言を繰り返すような世の中なんだから。でも,そう信じ込んでいる人は少なくないようにも思う。そんな人のためにも,肩書きを持っている人は人格も優れていてほしいという期待はある。だけど人格の涵養をキャリア支援とはいわないだろうね。
 理論と現状というか,理想と現実のあっちとこっちを思いっきり見せられたような一日でした。

■ ぶつぶつ6/22/2004
 ずいぶん長い間書いていませんでした。各所から「まだ?」という言葉をいただいてはいたのですが… 単純な話,スランプです。はい。
 今回は,自分でもちょっとひどいなと思います。こんな文章だけ(?)に影響が留まっていればいいのですが,今回は商売道具の口はもとより体調にもきているし,メンタルな部分でもよろしくないです。とはいいつつも,こんな文章を書いているのだから,それなりに回復傾向にはあるように思います。でももう少しの間,無理やりでも自重しておこうと思って,いや,願っています。どうぞ,災難がふりかかりませんように!
 でも,嫌なのは,何でこうなったのかがわからないことです。原因がわかれば,何となく気持ちも落ち着くのですがね。めちゃくちゃハードな仕事があったわけでもないし,奈落の底へ突き落とされるような出来事もなかったし,どちらかといえばポジティブな話題の方が多かったのですが…

 何だろう…。 えーい,歳のせいにしておこう!?

■ ぶつぶつ3/31/2004
 学内の桜がきれいです。気持ちのいい季節なのですが,また授業が始まるのかと思うと少し憂うつです。正直なところ。そして毎年の事ながら,始まってしまえばそれなりに楽しんでやっているのですがね。
 先日テレビを見ていて,ほほ笑ましいというか何というか,何とも表現できない面白い光景に出会いました。それは東大の卒業式の風景。今年から数百着のガウンを用意し,有料でレンタルをはじめたとのこと。国立もカラーを出すために一生懸命なのねと思ってみていたのですが,何とガウンにあの銀杏がついているのを発見。“背中の銀杏が…”は古いかもしれませんが(もちろん1968年当時,私は1つなので後で知った話ですが),ちょっと苦笑。東大卒の同僚には悪いのですが,らしいと言えば,らしいのかもしれない…
 ガウンというのは,バカボンのパパ(これも古いな…)が着ていたような,マントと角帽(でいいのかな? 博士の帽子と言ったほうがわかりやすいかも)のセットです。南山では全員着用です(もちろんレンタルですが)。教員と博士号を受ける学生は,これにフードがつきます。ちなみに校章は入っていません。カラスみたい,と言ってしまえばそれまでなのですが…
 でも確かにこれを着ると,それなりに気が引き締まるような気がします。セレモニーの名わき役とでも言えばいいのか,雰囲気があるんですよね。個人的に好きです。問題は,帽子のかぶり心地があんまり良くないことかな。

■ ぶつぶつ3/24/2004
 何だか,いつの間にか3月もあと少し…。今月はインフルエンザにもかかったし(多分鳥のやつではないはず),おかげで温泉に行ったのに温泉に入れず,豪華な夕食も食べられず,そのかわりポカリスエットを4本くらい飲んで…。結局,今シーズンはスキーにも行けなかったし。散々だ。
 そんな昨年にもまして悲惨な1−3月期を過ごし,何か生活の一部を変えたいという気持ちがふつふつと沸き上がって,お風呂場快適計画を実行しました。基本的にお風呂は好きなのですが,好きなのは公衆浴場や温泉などの大きなお風呂か,露天のお風呂なのです。景色を見られる窓もない,中途半端に手足をのばせる程度の家の風呂では物足りない。そこで音楽でも聞けるようになると,ちょっといいかな…
 でもって,考えついたのはお風呂でも使えるCDラジオを購入すること。でも,結構高い。電池の消費も結構なよう。今一つ満足度が満たされない。そんな時にネット上で見つけたのが,FMトランスミッターとラジオの組み合わせ。FMトランスミッターというのはイヤホンジャックなどに挿し込んで,音を弱いFM電波に変えて送信できるもの。車などで,スピーカーのついていない携帯用のMDプレーヤーやMP3プレーヤーに差し込み,その電波をカーラジオでひろってスピーカーから聞くというような使い方をする製品があるのです。これならどんな音源でもお風呂に置いたラジオで聞けるというシステムができる! これで決まり。
 早速ブツを購入してシステムを作ってみると,これがなかなかいい。両方を買っても,CDラジオよりはるかに安いし。結局,パソコンにトランスミッターを挿し込んで,インターネットラジオのJAZZを聞くというスタイルに落ち着いています。これの良かった点は安上がりというだけでなく,パソコンについているイコライザが使えること(私はMacなのでiTunesを使っていますが)。お風呂って妙な空間だし,ラジオもいいやつではないから,これでいじってやることで好きな音に近づけることができるのです。おかげでお風呂の時間が少し長くなりました。
 でも,温泉に入りたかったなあ…

■ ぶつぶつ2/27/2004
 またまた例年通り,のような感じですが,マスコミは大学の入試問題の問題がお好きなようです。そんなに社会的な関心が高い問題なのかなと疑問に思ったりしますが,何を伝え,何を伝えないのかという判断をしている人がそのように判断しているのだから,少なくともその人の中では報道すべき問題なのでしょうね。
 いろいろな出題ミスがありますが,ちょっと笑った,というか釈然としなかったもののひとつが新潟のものでした。問題文中の「問題」という漢字が「間題」と誤植されていたというやつです。そのため約400人の受験者全員を正答あつかいにするそうです。報道だと,受験者から質問は出なかったようで,監督者が気づいたということらしいのですが,それはつまり受験者は誤植だということがわかっていたのだと思います。問題を読んでいてそれに気づき,ニヤッとしていた受験者も多かったことでしょう。
 学生を受け入れた後につきあいが始まる側から言うと,間題が問題の誤植だということに気づいたような学生がほしいなと思ったりします。誤植かどうか判断に迷ったら,それを聞きただすような姿勢の学生がほしいなと思います。そんな学生だったら,平気で誤字のあるレポートなんかを出してこないだろうと思ったり…
 身内をかばうつもりはないのですが,ホントの問題はどこにあるんだろうなあと思います。ホントの学力とか知力というものは,どのようなものなんだろうと思います。ウソや間違い,うわさなんてものが氾濫しているこの世の中なのに,試験だけは無菌室で行われなければならないの?
 問題のすり替えをしているし,センシティブになっている受験生には申し訳ないけど。

■ ぶつぶつ2/9/2004
 何だか先日書いたものがうまく消化できていないくて,引っ掛かっていていたので,もう少し調べてみました。何で研究者は守られやすくて,企画などの担当者のアイデアは守られにくいのかということです。(守られるという発想自体が腑に落ちないのかもしれませんが)
 まずは,特許というところから引っ掛かってしまいました。特許って何? 便利な世の中になったもので,特許庁が目の前まで来て教えてくれるのです。それを見ると,自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度なものが特許で保護される対象なのだそうです。しかし人為的な取り決めや計算方法・暗号など自然法則の利用がないもの,発見そのものは保護の対象とはならないということでした。ふむふむ。こうなると,特許として保護されるだけのものを見つけられるのは,結果的に(というか科学が発展したおかげで)いわゆる自然科学系(それも基礎系ではない感じ)の研究者だけということになるのかな。
 他にもHPには知的財産権の対象となるものがリストされていたのですが,もちろん著作権はありましたが,企画担当者のアイデアを守るようなものは実用新案権とかなのかな,くらいしか理解できませんでした。新しいサービスのアイデア自体は守られる権利としてないのか? うーん,わからん。結論は,何だかよくわからないのだけど,同じようにサラリーマンをしていて,同じようにアイデアを形にして利益をもたらしたとしても,その利益に対して自分の取り分を主張的できそうなものと,できそうにないものがある,ような気がする。もちろん権利というものを使っての話だけど。
 こうなると,あの判決は研究者のためになるというのは拡大しすぎで,一部の研究者のためにのみなるといった方が適当なのだと思います。少なくとも,私みたいな構成概念をいじって遊んでいる兼業人文系研究者もどき(長い…)にはまったく関係ない。このあたりと,権利を主張しないと妥当な見返りが得られなかったことが,何となく悲しい感じを生みだした原因なのかもしれない。

■ ぶつぶつ2/2/2004
 うーん。200億か。宝くじに何回当たれば?なんて考えてました。もちろん,先日から新聞紙上をにぎわしている,あの判決です。うらやましいような,ちょっと悲しいような,でも研究者のためになるような…難しい判断ですね。
 難しいのは,企業に在籍して,給料やその他の支援をその企業に全面的に依存しているからだと思います。組織に属し,「その組織のために」仕事をしていること自体が研究になっているから。この枠組みを外してしまうとやっかいなことになりそうです。組織からお金をもらいながら,組織のため以外の研究をするというのは変だと思います。それならば,受託研究みたいに組織外に発注すればいいことになるので。
 でもって「組織のために」仕事をして,その結果大発明(というか大きな利益をもたらした発明/もたらすきっかけとなった発明,なのかな)をした場合,その利益は誰が得るのだ?というのが問題なのでしょう。これを特許などが関係する研究者に限って議論すると,また変なことがおきそうです。
 以前「そばめし」がブームになりましたが,これは発明でも何でもなく,企画の勝負だったと思います。しかしこれも研究者と同じように考えるべきでしょう。企業に雇われている同じサラリーマンなんだから。でも,「そばめし」のアイデアを出した人が同じように裁判をおこしても,同じような結果にはならないような気がします。「たまごっち」なんかも同じではないでしょうか。
 何だか,「研究者」という看板が特殊性を生み出しているような気がしてなりません。でも私は嫌い。研究者として身を立てるとは,自分で「研究所」を作って,研究を請け負ってとか,成果を売って生計を立てている人のことだと思います。大学の教員はあくまでも教員,企業の研究者はあくまでもサラリーマンであって,純粋な研究者ではないというのが私の見解です。あくまでも兼業研究者だと思います。研究者という看板が変に影響しているような気がしたりして…

■ ぶつぶつ1/8/2004
 あけましておめでとうございます
 今年も,私が言葉にしたいものを書いていきます。それが皆さまの暇つぶしにでもなれば幸いです。

 正月早々から詰まってます。頭の中が,未だに寝正月モードのままだからというのもあるのですが…。以前に教科書を作るっていう話を書いたのですが,自分の担当する発達の部分が書けません。発達心理学を担当している人間が書けないって言いながら,一方で平気で学生のレポートを採点しているのだから面白い,何て言っている場合ではないのですが。
 思い起こしてみると,私は発達心理学と相性が悪いのです。大学の時には,確か5回ほど受講した記憶があります。不可と放棄の連続で,4年の後期でやっと単位がとれたのではなかったかな。コンパか何かの時に,先生になぜなんでしょうとたずねたら,「合わないんじゃないの」と軽く言われてしまったことを覚えています。うーん,確かに相性はよくないような。
 そんなことを思い出していると,人生って不思議な巡り合わせに満ちていると思ってしまいます。大学時代に,さして好きではなかった,もちろんできも良くなかった発達心理学を,現在は教員として担当しているなんて。キャリアの方の社会的学習理論で説明しようとすると,絶対に説明できないキャリアだなあ。理論的にいくと,得意なものに進み,不得意な方は避けるというのが常道なんだけど。
 そして,不思議な巡り合わせは私を教科書の執筆へ向かわせたのでした… なんて書いている場合ではない。でも,まだ時間はたっぷりとある。いつかはきっとアイデアの神様が降りてきて… 現実逃避