ぶつぶつ(2003年)

…単なる独り言…

■ ぶつぶつ12/29/2003
 今日は個人的な仕事納めです。今年もよく働きました(?)。そして,何とか乗り切りました。ささやかなことですが,よかった,よかった。
 今月,私の家の近くから大学の近くまで地下鉄が開業しました。これで多少雪が降っても大丈夫。ラッシュの時間に学校に来なきゃいけないとき,一杯飲んで帰るときなどは,結構便利になるのだろうと思っています。タクシー代に比べたら,やっぱりかなりお安い。
 これに合わせてでしょうが,ある駅の近くで市が再開発をやっています。古い長屋づくりの家を取り壊して,結構な規模のマンション建設が進んでいます。もちろん,その意図はわからないでもないのですが,これから人口が減ろうとしている時に,何でマンションなの? それも,結構な混雑具合で建てられています。里山みたいになっていたところも造成されてしまいました。何で? 戸建てや,もっと面白い(工夫を凝らした)集合住宅っていう手もあったのではないかな…
 おそらく完成予想図はあると思います。でも,未来予想図は無いんだろうなあ。昔につくられた各地のニュータウンでいろんな問題がおこり,改革が進められているということは耳にしますが,これらがどのように反映されているのだろう。100年先とまでは言いませんが,30年から50年先の予想図くらいはあってもよいと思うのですが,難しいのでしょうかね。
 少なくとも,エレベータを使わなければバリアフリーの部屋に行けない,というのは妙な矛盾だと思うのですが…

 よい年末年始をお過ごしください。 

■ ぶつぶつ12/12/2003
 今回の授業も,来週で終わり。私は,何のために授業をしているのか? もちろん,それが仕事の一部だからなのだけど,単にそれだけというものでもない。こう見えても,それなりの理想はあるし,思い入れだってあるのである! 単に学生をいじめてストレス発散をしているだけではないのである!?
 しかし,これが言葉にならない。発達心理学なんて,すごく範囲が広くて,ある視点から見れば生き方指導みたいにもなるし,社会適応能力の指導とも見ることができるし,もちろん教育とは切っても切れないものだし,極めてシンプルに発達心理学の知見を伝えるだけという手でも全く問題ない。発達心理学で,意思決定理論や職場適応の理論の話をしているケースは,私くらいかもしれない。何年か前には,401kでレポートを書かせたこともあるし。
 話がそれてしまった。こんなにバリエーションがあるので,私にとっては発達心理学が最も授業を作りにくいものであるし,同時に私らしさが最も出ているとも言える(と思う)。こうなってくると,発達心理学という授業が,私の伝えたいことを伝えるための手段になってしまって,発達心理学を教授するという本来の授業のあり方からズレてしまうような気がしてくるのである。このあたりは,私の生真面目さである(と信じたい)。
 結局,授業って何なんだろう? こんなときだけは,指導要領のある高校までの先生たちがうらやましくなる。何を教えても(もちろん本当に何でもいいというわけではないが)ルール違反にならない大学での授業は,ここが辛い。だから面白いのだが。あと10年くらいたったら,少しは何かが見えてくるのだろうか。

■ ぶつぶつ12/8/2003
 とんでもなくバタバタした11月が,すでにずいぶん前に終わってしまいました。こんなにも何だかわけのわからないまま過ぎた月も珍しいなあと思います。やはり今年も,あっという間に過ぎていきつつあります。大学の教員になろうと思っている人は,雑用処理能力を高めておくことが必須です。そうしないと,誰かに迷惑をかけることになるし,研究者というアイデンティティが吹っ飛びますよ。
 今回は,ちょっとメモ替わりに。とりあえずおぼえておきたいので,忘れないために書いておきます。教育の意味(意義,目指すものと言い換えてもいいでしょうが)は,学ぶものが知識を得ること,スキルを身に付けること,経験をすることの3つがあるらしい。多分,これは正しいような気がする。ここで言う経験は,もちろん質の高いもの(教育者側から見て,だろうなあ)で,知識やスキルが集約されるようなもの。
 こんな話を以前聞きました。では,けっこうひんぱんに耳にする「経験から学ぶ」という場合の経験は,先の「経験」と同じだろうか? これはたぶん違うはず。経験から学ぶという場合は,経験は素材になるのだが,先の「経験」は教育の目標,つまり素材ではないということ。教育的関わりにも違いがあって,経験から学ぶ場合は,経験から知識やスキルを導き出すサポートをすることになるし,質の高い経験を目標とした場合の教育的関わりは,そのような経験ができるように万全の準備をすることになるはず。目標か,手段かの違い。
 経験を教育にとりいれることは,どうしても必要なんだろうけど,2種類の経験の使い方があるのは忘れちゃいけないと自戒。でも,単に経験の事前指導か事後指導かということの違いのような気もしてきた。何だか,わけのわからない文章。

■ ぶつぶつ11/4/2003
 秋学期の中休みともいえるこの連休ですが,おもいっきり休んでいました。先月はあまり休みがとれなかったこともあって,ダラダラダラ…としていました。気が向いたら原稿を書いて,気が向いたら資料を作って,そして気が向いたからこんな文を書いています。
 世間で評判のプロジェクトXですが,こんなドキュメンタリーは嫌いではないので,ちょくちょく見ています。そして気づいたことが二つ。一つは,自分が今までには考えられなかったほど涙もろくなっていること。これは自分でもびっくりします。涙もろいほうではなかったので,どうしてテレビを見て泣けるのか不思議に思っていたのですがね。妙に感情が先走る感覚を理解できるようになってきました。
 もう一つは,やっぱり人は,人が努力している姿が好きなのだということ。ちょっと変な想像をしてみたのですが,ものすごく能力があって,先を見越す力や組織を動かす力が抜群な人。どんな困難も涼しい顔で切り抜けていくような人。そんな人はプロジェクトXではあまり取り上げられないのではないか,ということです。そんな人は,スイスイとものごとを運んでいくだろうから,そのプロセスをドキュメンタリーにしても感動も何もないのではないかと思ったわけです。それよりも,いわゆる普通の人が泥臭く,のたうち回ってやっているほうが,見ている人に感動を与えるのかなと。
 こう考えれば,何となく救われたような気持ちになるのですが,抜群の能力を持っている人にとってはちょっとかわいそうな感じもします。頑張ってやっているのに,周りからは当たり前として見られてしまうんだろうなあ。どれくらいの割合でそんな人がいるのか想像もできませんが,一度お話を聞いてみたいと思ったりします。それとも,そんな才能の塊みたいな人は存在しないのだろうか…

■ ぶつぶつ10/15/2003
 ここ数日,せっせと授業の資料作りに励んでいます。調査・測定法という,心理測定のための質問紙調査に関する授業です。これまでに,3つの編をつくっていたのですが,それがなぜか第1部,第2部,第4部だったのです。もちろん,第3部の予定があったので,先に第4部を作っていたのですが,この第3部の作成が遅れに遅れていたのです。
 そんな長い時間を経ていたところに救いの神が登場し,サポートしてくれるということで,やっと日の目をみられそうなところまでこぎ着けました。もう少し正確に言うと,「やってよ」という一言で動いてくれるとてもいいヤツを見つけたので,言いくるめて仕事をさせたということになるのでしょうか(?)。いやあ,言うことを素直に聞いてくれて,かつ仕事が(それなりに)速いというのは本当に有り難い存在です。(これだけ褒めて(おだてて?)おけば,次もきっと働いてくれるだろう!)
 この調査・測定法という授業ですが,私にとっては極めて実験的な色合いの濃いものです。毎年毎年,かなりいろいろな点を変えています。つまりは,確固とした方法論を持っていないということなのですが,これがそれなりに面白かったりもするのです。それが資料の数にも現れているのかもしれません。第3部が完成したら,これらの資料だけでおそらくA4で100ページほどの資料集になりそうです。もちろん,読まされるほうにとっては大変でしょうが。
 測定ということ自体,とても面白いと思っています。私自身が心理学にはまってしまった原因の一つもこれが面白いと思ったからです。質問紙では人のこころはわからない,なんて言う人もいますが,もちろん(ほとんどは)無視します。本気で測定法や統計法を勉強してその結果として言っている人もいますが,多くは好き嫌いのレベルか,誰かの受け売りで言っている場合が多いからです。そんなレベルを相手にしてもしょうがないですし。もちろんそれが全てだとは思っていませんが,人のこころを垣間見ることができるひとつの方法だと思っています。うまく覗けたときには,何とも言えない充実感みたいなものがあるのです。この妙にワクワクする感覚が伝えられたらと思うのですが,現実はキビシー!

■ ぶつぶつ10/7/2003
 気がついてみると,ずいぶん長い間書いてなかったようです。いやいや,書いていなかったです。その間に,いつの間にか夏休みが終わり,秋学期が始まり,そして涼しくなってしまっていました。同じところに留まっていると感じるのは,なぜなんだろう…
 先月末,私が着任したころのゼミ生が2組やってきました。こうやって懐しい顔に会えるのは,教員という仕事の面白さかもしれません。そして先週末は,これから大学へやてくるだろう高校生に会いに金沢まで行ってきました。その年齢差は,約10歳。10代半ば過ぎと20代半ば過ぎを見比べて,うーん… すごく違うかというと,そうでもないような感じがします。では同じかというと,そうともいえないように感じます。もちろん卒業生たち自身に言わせると「変わった」というでしょうし,久しぶりの大学だから昔にタイムスリップして大学生モードになっていると言うかもしれません。それは考慮の上で,という見方をしても,うーんって感じがしました。
 卒業生の一人は子どもを連れてやってきたのですが,そういう意味での変化や,それに伴う変化の方が,10年という月日の流れの影響よりも大きいのかなと思います。当たり前のように母親をしている姿を見て,そう感じました。もちろん連続性を持った変化ですが。他の卒業生たちも,職場などにいる姿を見ることができれば,そのように感じるのかもしれません。
 ということは,自分が変わろうと思ったら… うーん,転職でもしようか!?

■ ぶつぶつ8/29/2003
 先日ある学生に出会い,ちょっと残念な連絡を受けました。慰めるのが下手な私ですから,とりあえず傷口に塩をぬっておきました。その傷口を忘れなければ,もしくは見えていないふりをしなければ,次には一回り大きくなれるのではないかな? 臥薪嘗胆。
 昔,ある人と議論をしたことがあります。壁にぶつかったときにはどうするか? 私の答えは,割れ目がないか,壁の低いところはないかと抜け道を探す,です。その人の答えは,よじ登るなり,ぶち破るなりの正面突破でした。それはなぜか。その人の考え方は,そのような経験をして人間は成長していく。逃げたり,楽を考えてはいけない。私の考え方は,そんなしんどい経験ばかりしていたら人間的に歪んでしまう,というものです。
 飲みながらの話だったので,だいたいの筋ですが,こんなやりとりでした。もちろん議論は平行線のまま。でも,おそらく(いや,確かに)私のような考え方の方がマイナーなんだろうなあと思っています。もしかすると,叩かれるような考え方かもしれません。しかし,七難八苦を越えていけるのは,山中鹿之助のような才能のある人だけだと思っています。私なんかのレベルだと,二難三苦くらいなら何とかなるかもしれないけど,七難八苦もあったら潰れてしまうと思うのです。だから勇気ある撤退という考え方は好きです。なので勇気ある抜け道探しにも賛同するのです。だから臥薪嘗胆という言葉を,無条件に好きなわけではありません。
 ただし,そんな撤退や抜け道探しに責任を持つことは必要だと思っています。自分で決めたことなのだから,人から何と言われようが,やったことの責任は引き受けるということです。高い壁を必死で越えてきた人と,抜け道を通ってきた自分を,結果をもって同等と考えてはいけない。結果は同じ。プロセスは違う。この異同はきちんと押さえておく。そうすれば,それなりに人は成長できると思うのですが,どうなんでしょうね。

■ ぶつぶつ8/20/2003
 うむむ…。もうお盆か…。と思っていたらあっという間にお盆も終わり…速すぎる…。お盆前からの大移動で,岡山,熊本,宮崎,岡山,名古屋,岡山,名古屋と何だか寝床がくるくる変わる生活をしていたのですが,時と空間の変化に身体がついていっていない感じ。その結果,やり残したことが山となるんだよね…。
 先日,久しぶりに散髪に行きました。この前行ったのはいつだったか…。卒業式前だったか…。このペースだと,今年の散髪は3回ほどになるのかな? まあ,あんまり好きではないわけです。首に何かを巻かれるのが息苦しい感じがして,気持ち悪くて嫌,というしょーもない理由なんですがね。
 暑いからバッサリやってくれとお願いし,半分以下の長さになっていく自分の頭を見ていたのですが,当然髪だけでなく自分の顔も見えるわけで,これまた久しぶりに長い時間自分の顔を見ていると,どことなく老けたなあという感じがしてきました(とりあえず髪の話にはふれたくない)。どこがどう変わったのか,いつと比べて変わったのかは自分でもよくわかりませんが,どことなく線がゆるくなったというか,曲線が多くなったというか,たるんでいるというか…。昔は,もっとシャープだった(言い方を変えれば,きつかった)ような…。
 それが嫌かといえば,そうとも言い切れない感じです。いつかも書きましたが,昔からガキの自分は嫌だったので,ガキっぽい顔からそれなりの大人の顔(?)へ変わっていること自体は嫌ではありません。年相応で充分だと思っています。でも,一抹の寂しさみたいなものがあることも確かです。若くなくなっていくことが寂しいのか,変わっていくことが寂しいのか,それともまたちがったところなのかは,自分でもわかりませんが…。若いことに価値がある,なんてつまらない風潮には徹底的に逆らいたい性分なので,変わっていくことが寂しい,ということにしておきたいのですがね。
 高校くらいは自分の顔が嫌いで,大学の時はそれなりで,大学院までのプーの時はきつい顔をしていたと言われ,それ以後はあんまり変わらない顔をしてきました。私の顔は,現在大きなターニングポイントにさしかかっているのかもしれません。どう変わっていくのか,楽しみなような,恐いような…。

■ ぶつぶつ7/28/2003
 春学期の授業も終わり,やっと一息のはずなのですが,現実的には試験とレポートの山と格闘中です。それといくつかの企画モノの進行と…。つまりは,授業のあるときとあまり変わらないということ。いろいろと考えることもあるのですが,多すぎてすぐに忘れてしまう…。
 その中でも,先日学生と話をしていて気になったことがあります。実はその前段階として,とある出来事もあったのですが。謙虚な自信家は存在しうるのだろうか?ということです。謙虚とは,もちろん控えめとか,素直ということ。自信家とは,自分の能力とか正しさを信じている人のことです。自信家で控えめな人はいそうな気がしますが,自信家で素直な人はいるのだろうか?
 間違った指摘にも,正しい指摘にもかみつくのは素直とは言えないでしょう。間違った指摘にも,正しい指摘にも従うのを素直と呼ぶような気もするし,正しい指摘にのみしたがい,間違った指摘にはかみつくような場合も素直と呼んでいいような感じもします。辞書をひいてみると,素直には,人にさからわないこと,従順,といったような意味があり,やはり正しい指摘にのみしたがい,間違った指摘にはかみつくような人は素直とは言わないようです。でも素直には,心の正しいことという意味もあり,そうなると間違った指摘にはかみついても素直と呼べそうな感じもします。
 こうなってくると,言葉遊びの世界になるのかなあと感じます。自信家というのはあまり多義性を持たない言葉のようなのですが,謙虚という言葉はかなりの多義性を持ってしまう。そのため,謙虚をどういう意味にとるかで,謙虚な自信家は存在しうるし,また存在しえないことにもなる。
 こんなふうに考えてしまうこと自体が謙虚でないような気が…

■ ぶつぶつ7/8/2003
 先日,爆弾を発見してしまいました。書類の山をごそごそやっていたら,締め切り間近の原稿依頼を発見。まだ爆発していなかったからいいようなものの,冷や汗をかきながら処理に着手。もうすぐ休みだというのに,なんてこった…
 最近テレビを見ていると,やたらと懐かしいメロディーを耳にします。「異邦人」がCMソングに使われていたのですが,気にしていると,松田聖子(の昔の曲)やオフコース,チューリップなどなど…。さらにSASが25周年,B'zが15周年…。何かとっても時代の流れを感じながら,大学生のころに聞いていたCD(プレーヤーは持っていなかったからLPは無い)を引っ張り出して聞いています。チャゲ&飛鳥,SAS,杉山清貴,スターダストレビュー…
 面白いのですが,そんなものを聞いていると,結構鮮明にその頃を思い出してきます。「そんなこともあったなあ」ではなくて…なんて言ったらいいのかわかりませんが…タイムスリップ的に追体験できたり。例えば,B'zはなぜかスキー。神戸から高速を飛ばして信州までスキーに行っていたのですが,明け方になるとミョーにテンションの高い同乗者がやけに気になる。お願いだから静かに寝てくれ,静かに運転させてくれとお願いした。そんな記憶と重なってくるのです。「異邦人」なんかになってくると,小学生の頃に聞いた経験を,大学の時に懐かしく思い出し,そんなこともあったなあと今思い出す。
 これが歳をとったことの証明なのかもしれません。それを否認したり,否定するつもりもないし。そんな記憶の世界に遊べるのもいいなあと思って,昔のCDを集めてみようか(もちろん中古で)と思ったりもしています。 

■ ぶつぶつ7/2/2003
 今日はいい天気ですが,じめじめとした天気が続いています。暑いよりはまだこの方が私にはいいかな。夜になっても気温が下がらず,寝苦しい日々が続くよりも,まだ雨の方がマシ。地球温暖化は嫌だ。
 さて,時々私は,南山大学のエンブレム入りポロシャツを着て出校しています。昨年,本校のオープンキャンパスに足を運んでいただいた方なら,「ああ,あれか」と思い出されるのではないでしょうか。今年のオープンキャンパスでも,本学関係者の多くは,このポロシャツを着ていることでしょう。でも,普段これを着ていると,「どうしたの?」って反応が結構あったりするんですよね。
 確かに,ラルフローレンやポロなどといったブランドではないです。でも,「UCLA」や「Ohio」なんてロゴの入ったTシャツやパーカーと同じだと思っているのですが…。「UCLA(California州立大学Los Angeles校の略称)」なんて,縁もゆかりもないのに堂々と着ている人も多いと思います。おそらく私が「UCLA」のロゴが入ったTシャツを着ていても,だれも「どうしたの?」とは言わないでしょう。なぜ「UCLA」なら普通で,「NANZAN」なら興味を引くのでしょうか?? 縁もゆかりもないのに,「UCLA」のロゴ入りを着ているほうが奇異な感じがするのですが…
 私がこのロゴ入りポロシャツを着るのは,自分がどこに所属していて,どこから給料をもらっているかを再確認する意味もあります。そうでもしないと,日々の仕事があまりに日常的すぎて,何かを忘れそうになってしまうからです。南山に所属し,南山という学生を含む組織のために責任を持ち,南山から給料をもらっているという事実の確認です。こういうときには,何かシンポルとなるものを身近に置いておくのが手っ取り早いです。強制されるのは好きではありませんが。
 雇われ人って,こんなものなのだろうなあと思います。所属の恩恵にあずかっているところが大きいことはわかっています。所属を持たなくても,自分の名前だけでやっていける自信と能力があれば,所属を持たないでしょう。でも今は,浦上というブランドよりも,南山というブランドの方がはるかにデカイです。そしてそれが,私の生活を支えています。寄生虫は寄生虫らしく,寄生先のありがたみを忘れないように,自戒。

■ ぶつぶつ6/23/2003
 あと少し。やっと終わりが見えてきました。何のことって,もちろん春学期の終わりのことです。タバコが増税されてちょっとしたら,春学期の最後の授業となります。これで一服できる…。とはいうものの,私がタバコを止める条件にまた一歩近づいてしまうのですが…
 先日,現在の人間は一人のEVEの子孫である,っていう番組をやっていました。ふーんと思いながら見ていました。科学番組としては面白かったような気がするのですが,だからといって何も後に残らない,とっても科学番組らしい番組だったような感じを受けました。あんな番組は,下手に説教じみた終わり(例えば,人類皆きょうだい,みたいな)にしない方がいいのだろうなあと,変な解釈をしてみたり…
 それを見ていて,妙に引っ掛かったことがひとつ。いろんなところでDNA採取をし,それを分析することで,という流れなのですが,このDNA採取に同意書(みたいなものだと思うのですが)にサインを求めていました。日本での採取の風景でこれを書いてもらっているのを見て,やっぱりきちんとしているんだなあと思っていたのですが,あるところでこれが急変。ある民族のところでも同じようにやっていたのですが,その民族は文字を持っていないからかどうかはわかりませんが,ある女性はサインをするところに棒線(「−」)を引っ張っていたのです。
 ちょっと待て。サインはその内容をきちんと把握した証明としてなされるはずだよね。あの女性は,本当に内容を把握したのか? 彼女はDNAがわかっているの? 「言っても理解できないだろうから,まあサインするところに適当に印でもつけておいてよ」という世界なら,お年寄りをだましてサインさせる詐欺師まがいと同じではないか? 研究者倫理としてOKなの?
 日本でも,サインよりは印(花押でもいいし,血判でもいいのだけど)であったりするのに,全く文化の違うところへ,どうしてある一部の世界でしか通用しない書式を持っていくかなあ…。そんなセンスに「?」を持ってしまいました。そして,そのような書類を大事にする文化と,笑いながら理由もわからず線をひいている人たちの文化。どっちがスケールの大きな文化なのだろうと,妙にさみしく思ったり。同じ先祖を持つ子孫なのにねえ。

■ ぶつぶつ6/9/2003
 先日,新しい教科書企画のことを書いたのですが,そのために最近少し勉強しています。勉強しているというか,自分の知識をきちんと文章にして伝えるために,その整理をしているという方が正確なのかもしれません。そして,自信のないところ,欠落しているところを補うために,資料をひっくり返しているという状況です。
 こんな作業をしながら,これまでに結構知識を仕入れてきたんだなあと,自分の変わりように少し驚いてしまいました。基本的に,私は知識の少ない研究者です。堂々と言うべきことではないのでしょうが,いろいろな研究者と話をしていると,その事実ははっきりと出てきます。これまでやってきた方針が,多くの知識をもとにするというやり方ではなく,ピンポイントでいいから新しい知識を見つけようというやり方だったからかもしれません。また,何せ(知識を吸収するという意味での)勉強が嫌いだったということもあるのでしょう。
 そんな自己評価をしていたのですが,これが結構知識も入っているのだと感じたのです。基礎の基礎である,科学とは,科学的手法とはということから,心理学という研究のスタイルやその限界まで,特に勉強したわけではないのだけど,何となく自分の中に入っていることに気がつきました。このあたりのことは,きちんと勉強したのではなく,これまでに自分で研究をしながら感覚的に身に付けてきたこと,研究を通して教えられたり考えさせられたりしてきたことの集積のようです。そのような感覚が,あらためて本などを読んでいると,そこに書いてあることと一致しているということもいくつかありました。
 そんな時,「私ってすごいのかも」なんて思ってしまうところが私の良いところなのですが,よーく考えてみると,それは当たり前のことなのかもしれません。それに,こんなことを身に付けるまでに,10年以上もかかっていることを考えれば,単に効率が悪いだけなのかもしれません。でも,こんな知識の身に付け方が自分には合っていたのだろうなあと思います。文字を追いかけつつ,そこに書いてあることをきちんと身に付けていくのは,ホントに性に合わないんです。それが近道だとわかっていても,これからも手間のかかる回り道をするんだろうなあ。

■ ぶつぶつ6/2/2003
 ここ2年ほどバタバタとした生活を送り,この春から静かな普通の生活がもどってきました。自分の自由になる時間が増えたのはいいのですが,それまでやれなかったことをやってみたいという貧乏性が出て,なぜか空いた時間を埋めるように動いている自分が嫌になったりもしています。どうも,時間をゆったり贅沢に使うという性分ではないようです。貧乏暇なし…
 そんな中で,心理学の教科書を作ろうという画策をはじめました。世の中には,くさるほど心理学の教科書があふれているのですが,そんな中でまだ作ろうというのだから酔狂なものです。もちろん,なぜ作ろうとするのかという意図はあります。教員をやったことのない人には,なかなか分かりづらいことかもしれませんが,教科書を選択することはかなり難しいことなのです。大学には検定教科書のようなものはありませんし,指導要領もないのです。つまり授業で何をやるかは,ほとんどの部分が教員の自由裁量にまかされています。そのため教科書先にありきではなく,教えたいことに適した教科書を利用することになるのですが,なかなかしっくりくるものに出会えないんですよね。
 それにほとんどの心理学の入門書的教科書は,ある一人の人が書いている単著ではなく,複数人で書いている共著形式になっています。領域があまりにも多岐にわたり,一人の力ではカバーできないからなのですが,共著の場合は,領域毎のバランスや,文章のトーンの統一などが問題になってきます。今回,企画をするにあたって,いくつかの教科書に目を通してみたのですが,やはりこのあたりの問題が目に付きました。それに,どこかマンガチックな,「レベルを落として作りました」的なものが多いというのも気になっています。
 ということで,領域の偏りが少なく,統一がとれた,ガチガチの正統派教科書という,時代の流れに真っ向から逆らうものを学科メンバーを中心に作ってみようと企画中です。こんな無理を“こころよく!”きいてくれるメンバーに囲まれて,とてもありがたいと心から思っています(と書いておくといいことがあるかもしれない…)。とりあえず,来年の秋から冬の完成を目指しています。ご期待あれ(と書いておくと,自分も投げ出せないだろう…)。

■ ぶつぶつ4/30/2003
 今年は,何だか気の抜けたようなゴールデンウイークですね。他の週よりも少し休みが多いかなという感じで,休みだー!という感じになれないような日程ですが,いろいろと動く人たちも多いのでしょう。とりあえずその間に,今後の授業を組み立てなければ…
 先日,急に「人生ゲーム」が欲しくなり(いろいろと理由はあるのですが),押し入れにでも眠らせていそうな周りの人に声をかけてみたのですがうまく入手できず,体調も良くないのに近くのおもちゃ屋さんに買いに行きました。いろんな種類があるんだなあと見ていたら,これまた定番のモノポリーを発見。このモノポリーも日本版なんぞが発売されていて,えーい!と一緒に買ってしまいました。子どものころに,こんな贅沢なおもちゃの買い方ができたら,さぞかしうれしかっただろうなあと思いつつレジへ。研究費では落とせないだろうなあ(ちょっとは関係しているのだけど)と思ったものの,とりあえず領収書だけはもらって帰宅しました。
 一人で暮らしているので一緒にやる相手もおらず,とりあえず一人数役でゲームを楽しみ(?)ました。そんな一人遊びだったのですが,単純にはまってしまったのはモノポリーでした。昔々に,親戚の家にあって遊んだ記憶が残っていたのですが,今回説明書を読んで,こんなゲームだったのだと発見したことも多くありました。以前は,クルクル回ってお金を稼ぐゲームだと記憶の片隅に残っていたのですが,実は戦略的なボード外での駆け引きが中心のゲームだったのだということが一番の発見。その駆け引きを,一人で複数役を掛け持ちしながらやるのだからさあ大変。どちらかに過度に有利にならないように,などという妙な配慮をしながら,さらに漁夫の利をねらう第三者もやりながら,複数の人間の思考をシミュレートするのは何とも妙な感覚でした。
 最初からモノポリー状態だって!と突っ込みを入れながらやっていたのですが,そんななかで少しわかったことは,2者の間の駆け引き(調整)はまだ何とか一人でできる。あの二人がこんな交換をしたら,こっちはこんな条件を出してみようなどという3人目の思考を考慮しだすと,急に大変なことになる。一人で4人をやったりすると,もうどうしようもなくなって,架空メンバーの一人は蚊帳の外状態になってしまう。こんなことを勉強しました。
 ゲーム制作会社のHPを見ると,6月ごろにPS2用のモノポリーが発売予定だとのこと。このままでいくと,買ってしまいそう…

■ ぶつぶつ4/25/2003
 これで授業が2回りしました。何となく感触みたいなものが戻ってきたところだったのですが,今週は風邪はひくし,のどは痛いしで散々でした。体調が悪いことがわかっていて教壇に立つことは,果たして良いことなのだろうかと考えさせられた週でした。
 教職の授業(教員免許を取るために必要な授業)を担当していることもあって,教師のあるべき姿というものを考えることがあります。今週のある授業で,教師は将来の世の中について予測し,それを子どもたちに語るべきかどうかという話をしました(というか,流れ的にそうなった,ということですが)。教育の大きな目的の一つが,これからの社会を背負って立つ人間を育てることにあるのならば,教師は積極的に将来を予測し,それに対応した教育を行っていく必要があるのですが…
 しかし,これには怖い面もあります。予測はあくまでも予測でしかないというのが最大のポイントだと思います。教師が,そのような不確かなことを教師の立場として言ってよいのか,無責任な発言になりはしないかというようなところです。
 そんな思いはあるのですが,自分は将来を語らずにおいて,子どもたちに将来のことを考えろとか,夢を持てなんて言うのも,これもまた無責任なやり方だとも思います。また,子どもたちの将来のことは考えても,子どもたちが将来暮らす社会を考えずに発言することは,全くの空言とも言えます。そうなると,やはりきちっとした見通しを持って,積極的に語るべきなのではないかと思います。それぞれの教師が,それぞれの観点から語ることができれば,子どもたちはどれが正しいという問題ではなく,様々な将来像があるのだということを理解できるように思います。そして,そうなってはじめて,かれら自身が自分の展望を形成できるようになっていくのではないかと。 でも,難しいかな…

■ ぶつぶつ3/21/2003
 学内が一気に静かになりました。今日は卒業式。午前中から人でごったがえしていましたが,そのためか夕方になると一層の寂しさが漂っているように感じます。でも,もう十日ほどで,また人気が増えるのですが…
 毎回の授業の後,学期が終わった時と,自らの役割を反省をする時があるのですが,最も包括的に反省し,同時に包括的に落ち込み,同時に包括的にほっとするのがこの時期です。誇らしい,うれしいという気分とはちょっと違う感じです。
 教師であるのだから,自分が育てた学生たちを誇らしく思わないのかと言われそうですが,(それはちょっとは思うけれども)「自分が育てた」ではなくて,「自分で育った」ものだという意識が強いので,自分の行為に対して誇らしく思うことは少ないのです。かれら自身の存在に対しては,自分がかかわろうがそうでなかろうが,中退しようが卒業しようが,最初から誇るべき存在だと思っているので,これもまたちょっと違う。同時に,「自分が育てた」ではなくて,「自分で育った」ものだという意識が強いにかかわらず,私は何ができたのだろうと考えてしまうところが小心者。たいしたことはできていないよなあと考えてしまうと,ややへこむ。こんな矛盾した思考から開放されるので,正直,ほっとするのが卒業式。でも考えるきっかけになるのも卒業式。
 どこまで行っても矛盾は矛盾なのでやめておきます。自分で育っていくうえで肥やしになったとでも言ってもらえれば,すっきりするのでしょう(決して“言え”と強制しているわけではありません。強制してはないですよ。はい)。かれらがますます大きくなっていくことを祈ります。
 昨年度は手ぶれでまともな写真がとれなかったので,今年はその反省を活かそうと再チャレンジをしたのですが,やはりうまくいきませんでした。来年はやめよう…。それゆえ写真抜きの教育学科寄せ書き風デスクトップピクチャを作りました。今月中の期間限定です。よろしければ。

■ ぶつぶつ3/17/2003
 何だか,いつの間にか,来年度に向けての行事が着々と進行中です。でも,私の頭の中はまだ,いつになれば春休み?,というモードのまま…。ホントに大学の教員には,春休みは無い…。
 とは言うものの,先日は学科の教員メンバーで下呂に行ってきました。もちろん温泉に漬りに…ではなく(?),会議室まで借りてお勉強してました。その下呂までの途中,モクモクセンターなる所に立ち寄りました。地元でとれた木材を加工して販売しているところです。ごそごそと物色し,お風呂のイスなどを買ったりしたのですが,出入り口近くで,桧の板の切れ端を一袋いくらで売っているのを発見しました。ちょうどコースターも物色していたのですが,気に入るものがなく,「これで作ってみるか」という気まぐれが顔を出してしまい,再度レジへ向かってしまいました。
 ちょうどいいサイズで,切ったりしなくてもコースター代わり(いやいや,コースター)になったのでそのまま使うことに決定しました。何気なく,その板を見ていると,当たり前なのですが年輪が見えるのです。そして何気なく年輪を数えてみると,92本の筋がありました。92年分か,と思った瞬間,なぜか自分の年齢を思い出し,自分の年齢ではコースターにもなれないと思考は続き… コースターにしている一枚の木切れに負けたような気がしてきました。
 この木切れが生きているのかどうか,製材されてはじめて生きるという期間に入ったのかどうかは別として,自分がもし92歳まで生きたとして,その後この木切れほど人の役に立てるのかどうか…。おそらくそれだけの価値はないと思います。2100年ごろに出版される心理学の本の中に,自分の名前があるとも思えません。そう考えると,この木切れを,「木切れ」などと呼ぶこと自体もおこがましいことなのかもしれません。所詮人間なんてそんなもんだと自分を慰めてみたり,へ理屈をこねることもできるのですが,どうしたって,92年生きたこの木は私の役に立っているという事実にはかないません。素直に負けを認めるのがいいのでしょうね。

■ ぶつぶつ2/17/2003
 先日,晩ご飯のためにスーパーを物色していた。とりあえず一通りの買い物を終えてレジへと近づいたとき,見慣れぬ商品が目に付いた。あまり菓子類は買わないのだが,結構好みのお菓子にKitKatという商品がある。4本が1箱に入っているやつではなく,小ぶりの2本が小袋に入っていて,それがまとめて大きな袋に入っているやつを,時々買っていたりする。
 その見慣れぬ商品というのは「期間限定」と書かれた,ホワイトチョコのKitKatであった。別に「期間限定」に弱いわけではないのだが,さそわれるがまま,手が伸び,いつの間にか買い物カゴへと収まっていた。しかし,さそわれるがままに買ったものではあるが,晩ご飯を食べたらどうでもよくなってしまって,しばらくはテーブルの上に放置されていた。
 数日後,それを食す機会がやってきて,開けてびっくり。パカッと蓋になる部分を開けてみたら,何と裏側に大きなハートのマークが…。さらにDearとFromなんて記入するところもあったりで,一人で妙に恥ずかしくなってしまった。「期間限定」というのは,冬期(ホワイトチョコだから,という単純な思い込み)ではなく,バレンタインだったんだ…。それを買った私って…。でも,その売り場には,バレンタインデーに!なんてことは書いていなかったし…。何で書いておかないんだ! などと恥ずかしさのため,情けない腹立ちをおぼえたり…
 でも,よーく考えると,このパッケージのどこにもメッセージを書く欄がありますよなんてことは書いてない(売り場ではどうであったかおぼえていない)。そして,一回開けてしまわないとメッセージが書けない。もちろん中のチョコレートはラッピングしてあるのだが,外箱が開いているものをもらったときの気持ちは,ちょっと複雑ではないか? そんなことを気にするのは私だけ?? ま,普通はこれをラッピングするだろうから別に構わないか??? でもKitKat一箱をわざわざラッピングするか????
 これにメッセージを書いて贈った人がどれくらいいるのかわからないけど,何か今一つ腑に落ちない,ちょっと不思議なモノでした。でも,「開けてびっくり」が無くなってもいけないので,とりあえずバレンタインが終わってからアップします。

■ ぶつぶつ2/11/2003
 ただいま入試の真っ最中です。今年,本学科は過去最高の志願者を集めました。過去最高といっても,まだ4回目なのですが…。何で?と思いつつも,社会的評価のあらわれだろうと(肯定的に)とらえることにしています。
 さて,先日からタクシーを利用することが何度か立て続けにあって,運転手にもいろいろあるなあと感心(立腹も!)してしまいました。面白かったのは,流し専門にやっている運転手さんの話。大学の近くにやっと地下鉄がやってくることになり,そうなったらタクシーも打撃をうけるね,という話をふってみたのです。そしたらその運転手いわく,「私のような流し専門でやっている者には関係ない」と。
 そこから俄然と雄弁になり話をしてくれました。地下鉄の出口に列をつくって止めているタクシーを横目に,「あんなことやってて給料がもらえるんだからいい商売だ」と。彼の目には,客待ちと称して,タクシーヤードではない通常の道路に停車(彼いわく,これは駐車違反だと)して,お客が来るまでボーッと待っているのは,社会迷惑とサボり以外の何者でもないと映るようです。客待ちをしているタクシーには絶対に乗らない!と断言するお客さんもいるそう。興味があったので,会社の方からや行政からの指導はないのと聞いたところ,「あるけど,運転手は止めない。流しているより楽だから」とバッサリ。楽したいやつは多いよねと,自分のことはとりあえず棚に上げて同意していました。
 その前に,走り方も話の内容もむかついてしょうがなかったタクシーに乗った(信号2つ目くらいで降ろせと言いたくなった)ので,この運転手には敬意を抱きました。ある意味で筋の通った仕事をしている人間が多ければいいのに。安い料金で走ったらサービスの質が落ちるなんて寝ぼけた議論がまかり通る世界なのかなと思っていたけど,そうではない仕事をしている人を見られて良かった良かった。私も筋の通った仕事をしよう(アレッ?)

■ ぶつぶつ1/25/2003
 最近,発見したこと。オーダー・カーテンって高い! 何で我が家の窓は,レディー・メイドに合うサイズじゃないんだろう…
 確かに,シャツでもスーツでも靴でも,オーダーというと高いイメージがあります(実際に高いのだけど)。大量生産ができないから,それが価格にはねかえっているというという理屈はわかるのですが,ということはレディー・メイドのものは破格に安いと考えるべきなのでしょうか? 大量生産によってどれだけコストが抑えられるのかなんてことはわかりませんが,何となく,オーダーという自尊心をくすぐるような言葉でもってちょっと高めに価格設定がされているのではないかと疑いたくなります。
 個を生かすだとか,個性だとかといった言葉が飛び交っていますが,あふれるほどのレディー・メイドに囲まれて,どこに個性を発揮する余地があるのでしょうか。レディー・メイドの産着から始まって,レディー・メイドの教育を受け,レディー・メイドのコースを歩み,レディー・メイドを再生産する仕事に就いていく。個性なんて,どのレディー・メイドを選ぶかという点にのみ発揮される。こうやって書いてみると,なんて無味乾燥で,安上がりな人生だろうと実感します。どうせなら,レディー・メイドなんてすべて捨ててしまって,オール・オーダー・メイドの世界にしてしまったらどうだろう。
 産着もオーダー・メイド,ライフ・プランナーみたいな仕事をする人がいて,相談に行くと,人生設計に合わせて教育内容やカリキュラムを作成してくれる。もちろん,どんなことをして遊ぶのか,どのような友人を選ぶのかなんてことについても懇切丁寧にプランを描いてくれる。それをもっていろいろな人に会い,指導・協力を依頼して回る…。ぞっとするほど金と労力がかかり,かつ,つまらなそうな人生…
 そうか,メイドを手にしようとするから無味乾燥だったり,安上がりだったり,金がかかったり,つまらなかったりするのだ。自分で作ればいいんだ。まずは針を作るのに砂鉄を集めて,生地や糸になる綿花を栽培して(蚕の方がいいかな)…。 もう,いい…

■ ぶつぶつ1/16/2003
 原稿が書けましぇん…(懐かしいフレーズ) 進みましぇん… だから,こんなものを書いてます…
 丑三つ時も近くなるこの時間に,PCの画面を見ながら頭を抱えている人はどれくらいいるのだろう…。昔読んだことのある小説(だったかな?エッセイ??)に,夜中の3時に冷蔵庫からビールを漁っているようなやつには,それくらいの小説しか書けない(だったかな??)というようなフレーズがあったのですが,まさにそんな感じです。立派な物書きは,朝早く起きて散歩を済ませ,たっぷりと朝食をとった後で新聞を読み(決してトイレの中でではない!),そして背筋をピンと伸ばしてPCに向かうような人間なんだろうなあと,妙な想像なんかをしてみたり。私にゃそんなマネはできん!だから書けん!と開き直ってみたり。空想の中で遊んでみたって,現実には紙面は埋まっていかないのですが…
 頭の中には,切り替えスイッチがあるんですよね(めちゃくちゃ唐突ですが)。このスイッチがくせ者で,うまくいくときにはスッと通電するのですが,機嫌が悪いときにはどんなにガチャガチャやっても配電がうまくいかない。どんなに「こっちに思考がいってほしい」と思ったとしても,そっちにいってくれない。「『“僕はこっちのことを考えたいのに,僕の脳みそは違うことを考えている”ことに気づいている僕がいる』ことをボー然と眺めている僕がいる」なんてメタ認知を何重に重ねてみても,やっぱり脳みそは違うことを思考しているという現実は変わってくれないのです。絶対に,どこかに大きな,根源的なスイッチがあるに違いない!
 そのスイッチを探しているうちに,なぜが酔いが回ってきて…。これ以上,今日は進みそうにありません。夢の中でスイッチを探すとしましょうか。

    嗚呼,ごまかし… (最近,こんなのばっかり)

■ ぶつぶつ1/6/2003
 年の初めに,まずお詫びから。前々回書いたものについては,いろいろな方からコメントをいただきました。確かに,配慮の足りない書き方をしたと反省しています。気分を害された方々,すみませんでした。

 さて,2003年になりました。皆さんにとって良い年になりますように。

 この正月も例年通りの寝正月で過ごしたのですが,初夢も見たのか見なかったのか…というような寝方をしてしまいました。やはり年末ジャンボも外れたので,大それた計画は立てられませんが,今年はどんな一年にしようかなあ。
 ここ数年を振り返ってみて,何か地に足のついていない,どことなくふらふら,ゆらゆらとした生活をしてきたような気がしています。下手な積み木のような安定性のないもの。つぎ足し,つぎ足しで大きくなった不細工なもの。この感じを何とかしたいなあと思います。じゃあ,ふらふら,ゆらゆらしていない生活とはどのようなものだと問われても,ちゃんとした答えは用意できないのですが。
 これまでは,できることしかしてこなかったような気がします。でも仕事をし始めてからは,もう少しその範囲が広がったというか,広げざるをえなかったというかで,自分として土台を持っていない(土台があると実感できない)部分についても,そこで何かをしなければならないことを求められもするようになりました。それが不細工に広がりすぎたように感じているのかもしれません。もちろん雇われの身なので,それに対して文句を言うつもりはありませんし,それは自分の勉強不足であるとも思っています。
 ということで,今年は土台作りをしようと思います。少なくとも,今日はそう思っています。さて,いつまで続くでしょうか。