ぶつぶつ(2002年)

…単なる独り言…

■ ぶつぶつ12/11/2002
 いかんいかん!まずいまずい! 何か,先日書いたものは,書き手の思いをよそに新たな推測を生んでいるような…。あんなに,ぐりぐりと持って回ったような言い方,いや書き方をしなきゃよかったと反省中。うわさはうわさと笑い飛ばすためだったのだけど,下手な書き方のため憶測を生んでしまった。それがまたうわさになって…恐ろしいことだ…
 先日,久しぶりに我が専門の話をする機会がありました。これをきっかけに,猛省中です。ここ数年の生活を省みて,大事なものをやってこなかったのではないか。忙しい!と自分に言い訳しながら,ちょっと楽な方へと逃げていなかったか。職を得たというちょっとした達成感や安心感に酔っていなかったか。うーん。全部当たっているような気がする…。
 つまりは,自分の勉強不足を恐ろしく悟ってしまったということです。1997年,98年くらいまでは,自分の専門とする極めて狭い領域については,世の中の流れについていってたはず,だったのですが,気づいてみれば2002年が終わろうとしているではないか。はや4,5年が過ぎようとしている。と,感傷に浸っている場合ではない!(書いているうちにでさえ,自分を納得させようとする保身メカニズムが発動されていることをひしひしと感じてしまう…)
 自分の能力が優れたものではないことに気づいている私が,研究者としての自分のポジションを確立するためにモットーとしてきたことは,“人がする以上に!”です(でした!)。そうしなければ,人並みにすらなれないかもしれないと本気で思っていました。でも今は…。昔,研究していた人。先駆的な役割を果たした人。○○の受賞者。全部,過去形じゃないか! まずい! どう考えてもまずい!
 来年は,しっかりやろう! とりあえず,5年分のサビを落とそう。そのころには,2003年が暮れてるかも…(またまた保身メカニズムの発動…)

■ ぶつぶつ12/2/2002
 見事に12月です。師走です。育英会に借金を返済する月です。今年も終わりです。年末ジャンボを10枚だけ買いました。でも,どう見ても当たりそうにない番号です。年賀はがきは,まだ買っていません。今年は(も?!)遅くなりそうです。散髪にも行かなきゃ…
 「来年の春,家族ができます!」とここで書けば,「やっぱり!」と思う人はどのくらいいるのでしょうか?? そして「あのウワサの人と?」なんて思う人は,さらにどれくらいいるのでしょうか?? 人のうわさも七十五日とはよく言われることですが,最初に私の耳に入ってきてからすでに七十五日は過ぎていると思うので,バラしてしまいましょう!
 「うらかみは,どうも学生と付き合っているらしい」「4年生の女性(当たり前か?)らしい」といううわさを耳にされた方もおられるかと思います。間違いなく,学外にも流れ出ているようなので,できれば学外の方でこのうわさを耳にされた方は,いつぐらいに誰から聞いたかメールで教えてください(出所はどうでもいいのですが,どういうふうに伝播していったのか興味があるので)。すでに結構前から流れているようですが,今でもちらほらと,私の耳にも入ってきます。かなり,息の長いうわさのようです。うわさ話というのは心理学でも研究されているものであり,良いうわさより,悪いうわさの方が広がりやすいという結果もあります。
 ということは,私が学生と付き合っているということは,それを聞いた人にとっては悪いこと?? 「うらかみに彼女がいるの?!…」なんて悔し涙を流す女子学生はイメージしがたいし,男子学生においては言うまでもない…じゃあどういうことなの? 私が学生と付き合ったらこの世が終わるわけでもないし,急に単位認定が厳しくなるわけでもない(はず)。つまりネガティブ・インパクトは無いと思うのだけど…
 では真偽のほどは…といえば,面白いから否定も肯定もしないでおこう!(ちなみに,そんなうわさが流れるのは今のうちだよ(つまりもう少し歳を取ると,相手にもされなくなる)という意見もある…)

追記:こんな(↑)書き方をしたら,余計に紛らわしいとも言われたので…あくまでもうわさはうわさです!
追記その2:この文章で使っている「良い・悪い」は,社会的な側面ではなく,それを聞いた個人にとって「良い・悪い(利がある・災いである)」というような意味合いです。

■ ぶつぶつ11/25/2002
 どこぞのスキー場が開いたとか,とってもそそられるけど,どうしようもないニュースが耳に入ってくるようになりました。私の中の感覚時計は10月を指しているのですが,どうも世の中はすでに11月も終わりに近づいているようです。ここ十年ほどの体調的魔の月であることだけが,11月を実感した全てのような気がします。今年,秋はあったのかな??
 私の所属している学科のHPで,同僚の先生が研究に関するこれまでの経緯を書いておられます。それに触発されて,私もちょっと回顧してみたくなりました。研究らしい研究というのは,記憶しているかぎりでは学部生(3年生?)の時,授業で何かデータをとってまとめるようにと課題が出されたときのような気がします。その時は,慣性の法則の理解について小学生を相手に調査をしました。
 「電車がこう走っているときに,この子がジャンプしました。電車はこっちへ進んでいます。さあ,この子はどこに降りるかな?」なんて,紙で作った電車と人形を使って調査をした記憶があります。確か小学校の中学年ぐらいを対象にしたと思うのですが,その時の子どもたちの出す回答のユニークさがとても面白かったことをおぼえています。
 今考えれば,研究とも言えないようなずさんなものでしたが,とても印象に残っているものです。その後も,統計の不思議さにはまったり,仮説通りの結果が出たときの満足感に浸ったりして,結局こんな道に進んでしまいました。今でも(あんまりやっていませんが)研究をすることは大好きです。正直なところ,授業をやるよりも好きです。ボーッとしながら人間の思考回路を想像すること(固く言えば理論的に仮説を構築する作業…うーん固い)も好きですし,それをどうやったら傍証できるかを考えること(また固く言えば,研究計画を立てる作業)も面白いと思います。そして実際にデータを集めて分析し,やっぱり!と思ったり,アレ?って首をかしげているのもおつなものです。やっぱり!でもアレ?でも,自分にとっては発見なので,それはどちらでもいいのです。自分しか知らないことが増えることは,私にとっては快なのです。
 こんな調子で今までやってきたように思います。自分でアイデアを出せて,その確かさを確認できることが好きなのです。それが楽しいのです。大いなる遊びなのです。この面白さの一端でも学生に伝えることができればいいのですが…。

■ ぶつぶつ10/28/2002
 「見聞覚知ことごとく夢と知れば世に悩みなし」 これは23日の中日新聞,運勢の欄に出ていた言葉です。浅学な私は「色即是空」と似たような意味なのかなあと思って見ていたのですが,ホントにそうなのだろうか…
 しばらくこの文字列をぼーっと見ていたのですが,そうだなあとは思うものの,何か救われない,やりきれない感じも持ちました。私は夢をあまり覚えていないほうなのですが,夢の中でも腹が立ったり,困ったりすることはあります。このときは,それを夢と感じているわけではありません。だから悩みは存在します。しかし夢からさめ,それを夢だったと認識できた時点でホッとするわけです。
 ここで言う夢と,「見聞覚知ことごとく夢と知れば世に悩みなし」の夢が同義だとすると,悩みが無いのだから夢からさめたときの状態に相当すると考えられます。でもその時,自分という存在は夢の中の自分と違う位置にいることを認識しているわけで,これもくっつけて考えると,「見聞覚知ことごとく夢と知れば世に悩みなし」の場合も,悩んでいる私と,それを夢だと認識している悩みの無い私が存在することになります。この場合は,どちらかが夢の中の存在というものではないので,必ず悩んでいる存在の私が必要となります。そうすると,やっぱり悩むという状況がないかぎり,悩みが無いというところにはたどり着けなくなってしまう…
 これがやりきれなさの正体なのかなあと考えていたのですが,当たっているでしょうか。つまり,今悩んでいる人には救いになるかもしれない言葉だけれど,そう考えてしまえば悩みが無くなるというものではない。「私,悩んでる!」→「これは夢じゃないか!」→「だから悩むなんて必要ないじゃない!」というサイクルにしかならないように感じるのです。でも一方で,このようなサイクルが無いと人は人になれないような気もするし…
 しかし,運勢にこう書かれた人は,どんな気持ちでこれを見たのだろう…

■ ぶつぶつ10/15/2002
 学会で熊本に行ってきました。やー,よかとこでした(で合ってるかな?)。仕事やなんやで,いろいろな所へ行きましたが,着いてクルッと見渡して「合わねえ」と思うところもあるし,「何か合う」という印象のところもあります。どういう言葉(概念)が適当かわかりませんが,熊本は「合う」と感じました。暴走族がうるさかったけど,これはホテルの立地の問題か。
 そしてお決まりで熊本城へ。結局はお城の周りしか見て歩かなかったのですが,数時間の散歩がとても快適でした。そして素朴な疑問が。何でこんなものをつくったのだろう? 苔むした石垣の下から銃眼と石落としの小窓がこちらを向いている上を仰ぎ見ながら,何が怖かったのか,何を守りたかったのか,素朴に考えていました。
 戦国ものなどの番組を見ていていつも不思議に思っていたことは,なぜ城を落とそうとするのかということです。城が入ってきにくい構造になっているということは,逆に言えば出口も少ない。わざわざ莫大なリスクを背負ってそれを落とさなくても,出られないようにしておけば田畑や人を実質的に支配することは可能なはず。これのどこが間違っているのだろう?
 城主を頂点とする支配体制(というか尊敬体制?)が成立しているかぎり,そのトップを落とさないと体制の変更にならないという考え方があるのはわかるのですが,もしそうであれば,幽閉状況でも斬首という手段を使ったとしても,非支配者からみれば同じことではないか。力ずくの斬首の方が非支配者からの恨みを買いそうで,支配しにくくなるような気がします。でも,歴史はそうなってないような…。といっても歴史の隅々まで知っているわけではないので,例外があるかも?
 そんなことを考えていたら,城というシンボルそのものが大切だったのかなと思うようになりました。大切なのは,城の中にいる人ではなく,城というシンボルそのものなのかなと。城はシンボルだから,シンボルとして生き続けるために進化した。それがあの形なのかなと。 昔も今も,人はシンボルに弱いんだよね。

■ ぶつぶつ10/2/2002
 とうとう始まってしまった秋学期。3つのコマをこなしたけれど,今一つ時間配分の感覚が戻らず,ひとりピエロになっているような…。私の悪い癖で,学生が引くと,言葉数が多くなっていきます。学生が乗ってくると,こっちはあまりしゃべらなくても済む(間というものが,結構雄弁になってくる)という,何とも矛盾した傾向があって,どっと疲れる授業をやっています。いつまでもつのか…
 ここ数ヶ月,人のかいた論文を審査する仕事もやりましたが,同時に審査されるという立場にも立ちました。もちろん,審査するような仕事をしているからといって,自分の書いたものが必ずしも審査を通過するとは限らず,結構痛いことを言われたりもしたりして…(ただ,忘れかけていた感覚みたいなところは思い出しました)。
 昔(「以前」というよりは「昔」の方がぴったりくるようになってしまった…),論文なんてものは,投稿して,審査委員にこっぴどくたたかれ,二度と書くか!と放り出すものの,落ち着いてくるとまたごそごそといじりたおして再投稿するものだ,なんてことを聞きました。その時は,そんなものなのかなあと思っていましたが,最近はそうだなあと素直に納得できるようになりました。何となく,審査委員に対してクソ!と思う,その感覚が大事なのかなあと。論文なんてものは,審査のレベルでは論や言葉を使った戦いのようなもので,次はぐうの音も出ないようにしたる!というような勢いが必要なのではないかなと思うようになったわけです。もちろん,その結果としてでき上がったものが価値あるものかどうかということは,全く別の次元にありますが。
 そんなふうに感じられるようになったためか,審査側よりも投稿側の方がやっぱりおもしろいと思います。コメントを見ていると,その審査者が何にこだわりながら読んでいたのか,どういうポイントに着目して読む傾向を持っている人なのかが,何となく感じ取れます。これは手の内を見せていることにもなるので,それをもとに作戦を立てて,修正をし,ホレ!と提出してみるというのも,何とも面白いかけひきだと。さて,アノ論文,どう細工を施してみようか!

■ ぶつぶつ9/10/2002
 あぁ… もう少しで夏休みが終わってしまう…
  あぁ… もう少しで夏休みが終わってしまう…
   あぁ… もう少しで夏休みが終わってしまう… かなりブルー…

 冬が来たら,スキーに行こう…

 この仕事を始めてから,もう6年になりますが,この時期はいかん。サザエさん症候群にはならないのですが,学期開始数週間前症候群の傾向は一向によくなりません。
 むかしむかし保育園に行っていたころ,母に送られて園につき,母の手から園の先生の手へ渡されるときに大騒ぎをし,「帰る!」と言ってきかないのに,母の姿が見えなくなるとケロッとして遊びに行ってしまう。そんな子がいたそうな。今は,始まる前はブルーだと言いながら,始まってしまうとそれなりに授業をし,ケロッとして休講も(ほとんど)せずに学期を終わってしまう(当たり前か)。 …変わってない…
 これは,適応能力に優れているのか,それとも何とかそれでカバーしているだけなのか…
 どうも私は,根っから学校というところが好きではないみたいです。保育園の時はこんな感じだったし,幼稚園や小学校低学年の時も似たようなものだったような記憶があります。高校もそうだった。小学校高学年や中学校の時は,一番すんなりと登校できていたような気がするのだけれど,決して楽しいとかと思っていたわけでもないような。そんな人間が変化したのは大学になってから。大学1,2年の時は,授業よりも飯を食いに行っていた(下宿だったし)ようなものだったけど,4年生のころからは主体的に行っていた。大学院の時はほとんど行っていたような。…そうなると,私は「学校」が嫌いなのか?
 決められた時間割に従うのが嫌なのかもしれない。ツアーの旅行なんて頼まれても行きたくないし。でも,出勤すると秘書が「本日の予定は…」なんて言ってくるような生活にもちょっとあこがれたりする。でも,耐えられないだろうなとも思う。単にわがままなだけなのだろうか? 多分そうだろう。だから悪いのは夏休みが終わってしまうことにしておこう。

■ ぶつぶつ9/3/2002
 最近,書いた原稿が2つ本になりました。論文と一緒で,書き物というのは,いったん書いてしまうとあまり見直したくないものになっていきます。そんなものを社会に出すなという声も聞こえてきそうなのですが,決して中途半端なままで出しているわけではないので聞き流してください。
 今までに書いてきたものの多くは,教科書と呼ばれるカテゴリーに入るものです。授業で使われるアレです。これは書く立場にならないとわからないことなのかもしれませんが,教科書を書くということは結構苦痛な作業です。基本的にはこれまでに明らかにされてきたことの中から,学習の基礎となり,かつ学習者にとって必要だろうと思われる部分を拾い集めてつなげていきます。そうなるといわゆるオーソドックスなものにしかなりません。それに加えて新しいものも書き加えればよいではないかという声も聞こえてきそうですが,紙幅の制限もあって,そこまで書いてしまうと納まりきらなくなってしまうのです。というか,基礎的な部分でさえも書ききれない場合がほとんどです。
 書ききれないから苦痛なのかというと,それも当たっていますが,オリジナリティというか自分の解釈や考え方を書くことは相当に制限されるからという側面の方が大きいような気もします。論文だとかなりオリジナルな仮説をたてることもできますが,教科書ではそのような余地は残されていません。「こんな点はまだ明らかにされていません」などという指摘は書けるのですが,あくまでもそこまでの記述でストップです。それ以上を書いてしまうと,私が使える教科書にはなるのですが,誰でも使える教科書にはならないという問題が出てくるのです。つまりは教科書を越えてしまうということです。
 そんなことを考えていたら,以前書いた「生きる力をつける教育心理学」(ナカニシヤ出版)の企画は面白かったのかもしれないと思うようになってきました。いわゆる教科書の部分に,それに関する執筆者それぞれの意見の部分が加えられてるのです。うーん。このコンセプトを煮詰めたら,もっと面白い何かができそうな気もする…

■ ぶつぶつ8/26/2002
 嵐が一段落し,この週末は読書と「ぼくなつ2」にかかりっきりでした。それとMac OS X。いくつかのソフトを最新にしようとかと考えていたら,ほとんどが新しいOSに対応している事実にやっと気づいたありさまです。最初の頃は,対応ソフトが無いからOSを切り替えなかったのに…
 先日本屋へ立ち寄り,お目当てのものはなかったのですが,気になった本を買ってきて一気に読んでしまいました。中島義道著「働くことがイヤな人のための本」(日本経済新聞社)です。まるで私のための本!(?) 中身は働くことの意義についての哲学書といってもいいでしょう。哲学的内容といっても,「ソフィーの世界」よりもはるかに速く読めます。特に前半が刺激的・挑発的で面白い。私は著者ほど優しくないから,そこまでは言えない…
 最近,といってももう数年になるのですが,ずっと働く意義というものが気になっています。とりあえずは働くべきだろうということで就職していく学生,生活が…という人は多いのに3Kには人が集まらない社会状況,仕事での自己実現という幻想に躍らされているような離転職…そして,これが望んでいた仕事だったのだろうかと未だに考えることのある私。このあたりは大混乱しているのだろうけど,ほとんどの人は混乱していないかのような顔,もしくは見ぬふりをして通り過ぎていくことが気になっていたのです。でもここのところ,これに関する本などをいくつか読んでみて,納得できそうなポイントが見えてきたような気がします。
 価値観の多様化,希薄化,マスコミからの情報,当たり前に対する批判精神,納得を求める心性,表現上の自己実現の氾濫などなど,人間をフワフワさせておこうとする要素はたくさんあります。そんな中で腹を決めて「私はこの仕事をするぞ!」なんて錨をおろすことは,時代や社会の趨勢に反する怖いことなのかもしれません。でも,それをしないと正面切って仕事にかかれないような気もします。
(しかし,わけのわかんない文章になってしまった…これが現在の整理状況だともいえるのだが…)

■ ぶつぶつ8/20/2002
 何か,先月末から慌ただしい日々でした。文章を書いて,書いて,書いて,読んで,読んで,読んで…。久しぶりに,読むと書くで慌ただしく過ごしたという感じでした。その中に帰省もあったり。もう少しで一段落しそうです。まあ,これが本来の(?)仕事をしている姿なのかもしれませんが…
 ただ失敗した(この慌ただしさに輪をかけてしまった)のが,何となくやってみたいなと思い,ふらっと店によったらブツがあり,財布の中身もあったので買ってしまったPS2+ぼくのなつやすみ2。もちろん中古。そして,はまった…。設定は昭和50年夏。当時私は8歳。見事にピンポン!大当たり。
 確かに年齢的,時代的には大当たりなのですが,細かく考えると,結構違っているのです。虫かごを持って走り回っていたかというと,そうではなかった(あまり虫は好きじゃなかったし)。虫相撲をやったかといえば,ほとんど記憶にない(私の田舎でもカブトやくわがたは珍しかった)。もちろん,ロケットを作っているような中学生はいなかったし,高校生のお姉さんと遊んだ記憶もない。ましてや金塊を目の前にしたことも無し。ゲームではできないのだが(たぶん),網持って川や溝へというのが多かったような気が…。あと,ラジオ体操,あさがお,扇風機,高校野球,学校のプール(水泳教室),墓参り,なつやすみの友(だったかな)…
 当時のあまりはっきりした記憶が無いのです。それでも,懐かしさと「そうそう」という感覚が得られるのは,作った人たちの策略にはまってしまっているのか? (個人別の)具体的な昭和50年(50年代前半とひとまとめにしたほうがいいかも)を寄せ集めて,思いっきり絞り込んだうえでバーチャル上に再構築したのかな?? 枝葉はズレてるけど大筋は合っているというのが,数を出す(ヒットさせる)秘訣なんだろうなあ。2回目を冷静な目で見ながらやっていると,そんな感じがしてきます。
 でも当時,シーフードカレーなんてハイカラなものを家で作ってたかな??

■ ぶつぶつ7/19/2002
 しかし,うっとうしい気候です(なぜこういうときには,“しかし”ではじめるのだろう? “ところで”ではじめる方が妥当な感じがするのですが…「ところで,うっとうしい気候です」何か変)。でも,そうとばかりは言っておられず,何かに追い立てられるように仕事をしているこの頃。それもこれも,快適に夏休みを過ごすための儀式かも…。
 ここのところ,「サトラレ」という番組が気に入っています。思っていることが全て周りの人につつぬけになってしまうという特殊な能力(病気?)の人間と,そこに起こる出来事を描いたドラマなのですが,いろいろと考えるところがあって面白いのです。人間は,心安らかに過ごすために,他人の心の中はわからないようにできているのかなあと思ったりもします。
 そんな番組なのですが,ずっと気になっているのは,人の思っていることが周りの人の心の中に(言葉として)入ってくるという設定なのですが,人は全てを言語を使って“思って”いるのかということです。音やにおい,映像なんかをも使って“思って”いると考えたほうが,私にはしっくりときます。ずいぶん前にも,物事をとらえるときにイメージとしてつかまえるという学生の声を紹介したのですが,そのような非言語で“思って”いる部分もあるはずだと。だからドラマの中にもかなり無理が出てきています。無理に言語化しているため,「それはちょっと違うだろ」と感じる部分もあるのです。ま,ドラマだからそれはそれでいいのかもしれませんが。
 そんなことを考えながら見ていると,私は「サトラレ」にはなりたくないなあと思ってしまいます(あたりまえか)。頭の中にあるものが,(言語化されている部分だけでも)周りの人に伝わってしまったら,私はその主人公ほど“いい人”ではないので嫌われるだろうなあと。それを苦笑で終わらせることができるという現実は,多分,幸せなんだろうなぁ。でも,ある状況では,「サトラレ」になれればいいなあと思う場面を想定することもできます。言葉にしなければ通じないことはわかっているものの,言葉が見つからなかったり,言葉にしたら違っていたり,言葉にしたくなかったり,できなかったり…。そしてそれが人を傷つけたり,落胆させたり。そんなことを考えると,「人間は,心安らかに過ごすために,他人の心の中はわからないようにできている」という仮定は間違っているんだろうなあ…

■ ぶつぶつ7/9/2002
 さて,春学期も残すは試験期間のみとなりました。正直なところ,一段落してほっとしています。同時に,今期はこれで良かったのだろうかと反省の深まる時期でもあります。ただ元来忘れっぽくできているので,反省がなかなか次に続かない…
 この時期は採点の時期でもあるので,レポートとテストの山と格闘しなければならないのですが,ちょっと興味を引かれたものがあったのでコメントしてみようと思います。それは,国語の先生になりたいのに読書が嫌いだという悩みが書かれていたものです。「本当に本を愛して読書とはすばらしいと言えなければ生徒にどうやって薦めればいいのか。説得力に欠けると思います」と書かれていました。もちろん,これを書いた学生自身,全くもって本が嫌いだというわけではなく,読み続けるのが苦手というレベルだそうです。
 私も,本を最初から最後まで読むことは苦手です。必要なところだけ拾い読みするというのが大抵です。研究室にはある程度の本がありますが,学生に「先生,これ全部読んだのですか?」と聞かれることがあります。私は,正直に「読んでいない」と答えます。必要なときに必要なものにアクセスできるように,資料として並べてあるのだと。そんな私が言うのも変ですが,あまり気にすることではないと思っています。「途中で読むのを止めてしまうなんて信じられない!」なんて人には,途中で止めてしまう子どもの気持ちは理解しにくいのではないでしょうか。自分の短所(と言っていいのかどうかはわかりませんが)をうまく利用すれば(視点を変えることができれば),新しい理解や指導方法を考えつくこともできるのではないでしょうか。説得力は話の持って行き方次第で何とでもなりますし,本好きな人よりも説得力のある話ができるかもしれません。
 自分の短所や欠点も使い方次第ではないかと思っています。今の自分を修正するために自分を変えていこうとすることは必要ですが,そうなるまでは自信をもって生徒たちに薦められないと考えることは,ちょっと違っていると思います。目標に達するには,いろいろな手段があっていいはずですから。

■ ぶつぶつ6/25/2002
 先日自分の進路選択のことを書いていたら,親からの電話で,家に帰って田んぼをやってもいいよ,帰っておいでと言われてしまいました。それもいいかもと思いながら,今一つ元気のないトマトという現実を見ていたりして…。
 気がつけば,カウンターが66666を越えていました。6のぞろ目は誰が踏んだんだろう? 私だ!という方がおられましたらご一報ください。賞品も何もありませんが…。しかしまあ,よくもこれだけカウンターが回るものだと思います。このカウンターは再読み込みをしても+1にならないやつなので,比較的正確に何人が訪れたかを記録していると考えています。それでもって,大体1日に90件ほどが記録されています。個人的にですが,やはり多いと思います。そんなに読むところがあるのだろうか?? 最近,心理学のことはほとんど書いてないし…
 はじめてHPを公開したのはいつだったか忘れましたが(ぶつぶつは1997年10月17日から始まっているので,その前から公開していたのは確かですが),カウンターを付けたのは99年3月です。記録によると,1999年3月は1日あたり約7件のアクセス数でした。学外からは3件ほど。私自身が学校でチェックしていたので,実態は1日あたり,学内から3件,学外から3件という数字です。ちなみに,トップページ左のカウンターをクリックすると記録を見ることができます。Yahoo!に登録された99年7月ごろからアクセス数が伸びはじめています。1年目が約7000件,2年目が22000件,3年目が29000件というように変化してきました。おもしろいのですが,アクセス数は徐々に多くなるのではなく,ある時を境にポンと増えるようです。2000年の5,6月ごろ,同年11月ごろ,それから今年に入ってというのが,ポイントみたいです。何があったのだろう…
 もしかすると,開設以来のおつきあい(?)の方もおられるかもしれません。私のトーンやスタンスは変わったでしょうか? 変えないことを良しとしているわけでも,変えることを良しとしているわけでもありませんが,できるだけ自分に素直に書いているので,変わっているとしたら私自身が変わってきているのだと思います。そんなことも,自分自身の楽しみにしながら書いていきたいと思っています。(このページはいつ閉まるのだろう?どうやって閉めるのだろう?なんてことも考えたりして…)

■ ぶつぶつ6/17/2002
 久しぶりに一つの本を読破しました。必要なところだけを読む癖が出てしまって,最後まで読まないことも多いのですが,今回は最後まで読みました。タイトルは「新卒無業。−なぜ,彼らは就職しないのか−」というものです。大久保幸夫 編著で,東洋経済新報社から出ています。
 あるときチラシを見て購入する気になったのですが,最初のイメージは「。」を付けるなよ!というものでした。モーニング娘。が流行のきっかけを作ったのだと思いますが,何だか二番煎じ,三番煎じ,四番煎じ…の使いまわしが溢れかえっているように感じていたからです。ちなみに先日の新聞折り込み広告でも「堂々,完成。」「緑の薫る庭。」という調子です。これがコピーライターの仕事か,それとも誰か他の人の仕事なのかよくは知りませんが,アイデア不足のさみしい限りと感じるのは私だけでしょうか??
 とりあえずタイトルのセンスは置いておいて,この「新卒無業。」という本,結構楽しめます。読めば何かが解決するというものではなく,「はじめに」にあるように問題提起の内容です。どぎつい表現は使ってありませんが,ボディーブローのように,効いてくるような書き方です。何も考えずに大学に進学したような学生が読むと,だんだんといたたまれなくなるような感じになるのではないでしょうか。そういう意味では怖い本でもあります(怖いと感じない場合は,りっぱに自分の道を歩いているか,相当に重症かのどちらかだと思います)。ただ,話しの筋があっちに行ったりこっちに来たりしていることと,働く意味についての著者たちの考え方が今一つはっきりしないところが惜しいという気もしますが…
 この本,大学生はもちろんですが,高校の先生,生徒,その親,また高校などの教員になろうと考えている人などに読んでほしいと思います。教育と仕事の関係をできるだけ早めに整理したり考えたり,考え直したりすることが必要だと思うからです。そこからどんな回答を導くかは,それぞれの人次第でいいのでしょう。それが人生観なのだから。猪突猛進のつもりが単に世間に流されているだけであって,それに気づいた時は…というのが一番怖いような気がします。

■ ぶつぶつ6/10/2002
 我が家のプランターに,「トマト」と「ししとう」と「なす」と「バジル」が登場しています。ただし1本づつ…。さらに先日は「チンゲンサイ」の種を入手。何をやっているのかと思いつつ,いそいそと水やりをしている日々です。そんなことを楽しみながら,私は教壇に立っているよりも,田舎で田んぼや畑に出ているほうが性に合っているのだろうかと我が進路選択を反省してみたり…。
 日本の初勝利。よかった,よかった。でも,あれだけ周りが勝手に無責任な予想をたてて持ち上げる中で試合をするって,どんな気分なんだろう? 中学は真面目に部活をやっていたけど,高校は適当だったし,そのあとはほとんどやっていないので,代表という肩書きで試合をしたことはありません。今でも自分で勝負だと思っていることもあるのですが,それは私個人の名誉にかけてであって,何かを代表してという立場はないのです。ほんとにどんな気分なんだろう…
 一時期,オリンピックに出る選手がこぞって「楽しんできます」というようなフレーズを使っていたと思います。それまでは「国を代表して」みたいな意識が先行しすぎて,過度のプレッシャーがかかっていたことへの抵抗だというような解説がなされていたように思いだすのです。まあ,それはそれでいいのですが,その言葉が連発されていたときは,何か違和感を感じたことを覚えています。ガチガチの代表意識を持ってほしいわけではないですが,国内の多くの選手を蹴落として代表になった人たちが,観光に行くみたいな言葉を使ってほしくないと感じたのです。
 最近は,そんなに気になるような表現を使う人は少なくなったように思います。ガチガチの代表意識と対局にあるエンジョイ意識の間の,ほどよい所に落ち着いているのかなと。ナショナルチームの選手たちが「日本国民の方々」と言わずに,「ファンの皆さま」とか「応援してくださったみなさん」というような言い方をするところからも,中庸な代表意識を感じます。いずれにしても,そのような立場にない者の勝手な言い草かもしれませんが…。ぜひ月末まで楽しませてほしいと思います。

■ ぶつぶつ6/3/2002
 神頼みはあまりしないほうなのだが,時と場合によっては大いに頼りにしてしまう。日ごろは不信心なんだから,都合の良いときだけ頼んでいるという後ろめたさもあるが,そんなときはとりあえず神様の寛大さを信じようとするのだから勝手なものである。受験の時などはその最たるものだったが,今でもカバンの中にも車の中にも交通安全のお守りははいっている。
 先日のちょっとした発見。地下鉄の車両にお守りが飾られていること。地下鉄鶴舞線の車両(市営地下鉄の車両だったか,名鉄の車両だったは定かではない)に,この地域では有名な交通安全の社のお守りが飾られている。飾るというのは語弊があるだろうか。透明なケースの中に鎮座しているのである。
 これに気がついたら,何か不安になってきた。車にはよく付けられているし,その気持ちもわかる。せいぜい安全運転には気をつけますが,不慮のことについてはお願いね,という感じ。車に乗っていると,時々人の飛び出しに出会ったりするのだが,あと1秒でもタイミングがずれていたら轢いてたなんてことも,数年に1度くらいはある。そんなときには,その幸運の原因をどこかに求めたくなるのだが,結構それをお守りのおかげにしてしまう。いかんせん,自分では到底コントロールできるものではないのだから。
 そんな自分の経験を電車にあてはめると,ちょっと怖い。私は頭っから電車は車とは別次元の安全性を持っていると信じている。車に乗るときや飛行機に乗るときは,所定の位置にお守りがあるか気になるのだが,なぜが電車の時には気にならない(たとえ飛行機事故の確率が電車よりも低いとわかっていても)。安全に運行するだろうと信じきっているのである。そこにお守りがあると,その信頼が揺らいでしまうのである。いくぶんは不安要素があることを見せられているような気になってしまう。できれば運転席のところとか,乗客(私)から見えないところに置いておいてほしいなあと感じるのは私だけだろうか。
 我がお守りは,交通安全には大いに力を発揮してもらっているようだが,なかなか力を見せてもらえないのが宝くじ。とりあえずお守りの前にくじを置いてみて,お願いしてみるのだが,これがなかなか…。お願いする私が間違っているのだろうか…

■ ぶつぶつ5/14/2002
 いつの間にかゴールデンウイークが終わり,そしていつの間にか1週間が過ぎていました。飛ぶように日が過ぎるとはこんなことを言うのでしょう。忙しくないわけではないけど,寝る間もないほど忙しいわけではない。でも時間が過ぎるのが速い。これは…もしかして…歳のせい??
 ふと,今年いくつになるのかと考えてみたら35。2倍すると70。本格的に人生の半分に近づいてきたなあと感じるようになってきました。20代のいつだったか,人生の1/3くらいを生きたなあと感じたことがあることを思い出しました。たぶん,私の感覚の中では,人生は70年ちょっとのようです。人によって,人生の長さの感覚といつまでを当面の終了時点とするかは違っていると思います。私の感覚の70ちょっとというのは長いのだろうか?短いのだろうか??
 昔,10代の頃,早く30になりたいと思っていました。20代はカッコ悪いと感じていたからです。軽薄そうで,中途半端で。就職したのが30を目前にした時だったので,20代のほとんどを学生として過ごしてしまいました。結局は昔思っていたままの,軽薄で中途半端だった年代だったように思います。もちろん,その間に身につけたものは多かったのですが,外から見れば当たっていたのでしょう。
 なぜ30になりたかったかと言えば,30になれば,重みというか貫録というか,厚みというか…そんな大きさを感じられる(大きさがにじみ出る)のではないかなと,子ども心にあこがれていたからです。20代だと,バカをやっても単なるバカにしか見えない。でも30代になれば,バカをやっても単なるバカには見られないのではないか。そんなことを考えていたのです。今考えると,単なるバカなガキの発想だったなあと思います。実際30代になって,そんなものではないなあと…
 20代に戻りたいとも思わないし,10代なんて面倒くさい。今の自分にどうなりたいか尋ねてみたら…これでいいか,という感じです。でもカッコイイ40もいいなあ。

■ ぶつぶつ4/15/2002
 何年ぶりかにバイクに乗り始めました。かなり,おっかなびっくり…。…「おっかなびっくり」って通じるのかな… どうやって乗るのだったかな,と,いろいろと試行錯誤しながら走っていたら愛岐処分場の前に出ました。廃棄物の最終処分場なのですが,入り口から先は行けないので,山陰に回り込んでいった先の風景は想像するしかできませんでした。この緑の山の向こうにどんな世界が広がっているのか,見たくないような…
 話は変わるのですが,先日小雨の中とあるホームセンターに行ったときのこと。ワンフロアの店舗で,店先と店の二階(屋上)に駐車場があります。店先の方は空いていなかったので屋上にまわり,出入り口近くにすべりこみました。その後,2台のワンボックスカーが登場。そこまでは全く気にしていなかった2台なのですが,この後…
 一台が出入り口の真横にある枠内に滑り込み,もう一台はそのとなりに。ここから私の観察がはじまりました。なぜならそこは車イスマークのある駐車スペースだったからです。電動で車イスのまま出てこれるような設備の車は,テレビでは見たことがあったのですが,実際はまだ見ていない。なのでちょっと興味本位で眺めていました。助手席からおばちゃん登場。出入り口まで雨を避けるためにダッシュ。元気な障害者だねえ,などと一人突っ込みを入れながら見ていたら運転席側のドアが開きました。おじちゃん登場,なのですが,なぜか普通に降りてくる。普通に歩いている。バカ夫婦。
 ということでもう一台の方に注目。何と…バカ2号。スペースの真ん中に,あんなにデカデカと車イスマークが書いてあるのに,そこに車を置ける,その神経が信じられない…。私が律義なだけなのか? そうではないはず。少なくとも,その周りに止めていた十数台の車はそこを避けて駐車している。こっちが普通のはず。普通だよなあ。この人たちは外れ値? さいころ2個を同時にふって,ピンゾロ(2個とも1)が続けて2回出たような偶然? 前の車が堂々と車イスマークに止めたから,後ろの車は,その条件がなければ普通の駐車スペースに止める予定だったけど,その光景を見たから車イススペースに止めたってこと?
 そんなことはどうでもいいのだけれど,無性に腹立たしい光景でした。他にスペースがないのならわかるけど,出入り口の近くに十数代が止まっているだけの,はっきり言ってガラガラの駐車場。エエ歳こいて,恥を知れ!恥を! 来週の発達心理学,社会性の話題の時に熱くなってしまいそう… でも,何で店舗前ではなくて屋上駐車場に車イススペースがあるのだろう?

■ ぶつぶつ4/15/2002
 最近,色々な方からメールをもらっています。4月という切りの良い,と言うかけじめの時期だからでしょうか。いずれにしても,長く会っていない人々から近況報告をいただけるのは,何となく口元が緩む感じがします。多くの人と出会う(すれ違う??)この仕事をしていて,よかったかなと思える一時になっています。
 先週水曜日からとうとう授業が始まってしまいました。初っぱなはゼミだったので,それとなくやり過ごし,木曜は心理学。これがまた今年も受講生が多い! 300名ほど収容できる教室で一人マイクをもってしゃべっているのは,何となく道化師のような気がするのです。さらに,どの授業でもそうなのですが,初回は受講生との距離が遠い。物理的距離は1回目でも10回目でも同じなのですが,初回はこっちも受講生も探り合いをやっていますので,それが妙な距離感を生み出しているようです。
 300教室というのは去年の7月に同じ授業を終えたとき以来なので,これに輪をかけて妙な感覚を持ったまま授業を終えました。そのせいかどうかはわかりませんが,自分でしゃべっていて,何か違うなという感覚にも襲われました。何がどう違うのかは自分でも今一つわからないのですが,これまでの話し方,特に話の組み立て方に違いがあるように感じました。私の場合,授業でしゃべることは,講義ノートを読むことではありません。これまでいろいろ試行錯誤したのですが,ポイントだけ押さえておいて,後はぶっつけ本番的にしゃべるのです。これが一番やりやすい。だから,そのポイントとその周りに円を描くようにしゃべる。話すべきことが1時間に3つあれば,3つの円ができるようにしゃべる,というスタイルでした。
 そうだったのに,木曜はそれぞれの円をつなげるようにしゃべっている…ような気がしたのです(単に気のせいかもしれませんが)。途中でそんなことに気がついたら,しゃべっている自分を客観的に見ようとする自分も出現して,頭の中は大変なことになってしまいました。この先どうなることやら。

■ ぶつぶつ4/5/2002
 さて,あっという間に春休みも終わり,不本意ながら(?)新しい学期に突入せざるを得ない時がやってきました。はやく来い来い夏休み。あといくつ寝ると夏休み…。5月病にひと月早めにかかってしまいそうです。実際は,この仕事に就いてから5月に5月病にかかったことはなく,学期が始まるこの時期と,6月くらいにかかってしまいます。皆さんは,このようなことのないように。
 スキーに行くぞということはずいぶん前に書きましたが,その通り,この冬は何度も通うこととなりました。とは言っても全部で一週間ほどしか滑っていませんが,それでもここ数年行っていなかったことを考えると,よくできました,という評価をしてもよいと思います。よく行っていたのは大学の3年から3,4年間くらいだったでしょうか。90年代初頭と言い換えると,何かずいぶん昔のような気がしてきます(気だけではないでしょうが)。
 その頃は,長い板全盛の時で,もちろんスノーボードなんかほとんど見ない(滑走禁止のゲレンデが多かったのではなかったかな…)頃でした。そして月日は流れ,今年行くようになってみると,世界はずいぶん変わっていました。板を買いに行って,店員さんから160cmで十分ですよと言われたショックに始まり,長短様々な長さのスキー板でそれぞれに楽しんでいる状況にびっくり,ボーダーの多さにびっくり,スキー場の人口密度の低さにちょっとびっくり,極め付けはカービングスキーの滑り方にびっくり…。何か浦島太郎の気分でした。
 でも,天気の良い日の景色の美しさと,遊んだ後の温泉の気持ち良さは変わっていませんでした。何度「極楽」とつぶやいたことやら(爺臭いと言われようが何と言われようが,これは事実)。来年も時間をこじ開けて遊ぶぞと誓う今日この頃。暖冬にはならないでね。

■ ぶつぶつ3/26/2002
 先日21日は卒業式でした。毎年あることといえば毎年あることなのですが,それぞれの年にそれぞれの思いがあるものです。ホントに,よくもこれだけキャラクターが違うもんだなあと感心したりして。これからは(も?),それぞれの足で立って,それぞれの道を進んでいってほしいと思います。
 さてその式の間,私はと言えば式場をうろうろしていました。カメラを両手に(つまり2台)。もちろん学科のHP絡みで,何かおいしいものはないかと探していたのです。で,撮ったのは撮ったのですが,何と使い物にならないものばかり。光量が足らない会場の中で,屋外で撮るのと同じようにシャッターを押したものだからさあ大変。両方ともデジカメで,液晶で撮ったものを確認できるのですが,多少の手ぶれなんかは確認できませんでした。こんなに薄暗くてもよく写るものだと感心しながら撮っていたのですが,いざPCに取り込んでみると見るも無残な状態でした。
 ご臨席の方々の間を,「すみません」を連発しながら進んでいって,厚かましくも人の前に出てシャッターを切ったのに…。お邪魔をしてしまった方々にお詫びします。ちゃんと両手で構えて,ちゃんと脇をしめて,手ぶれなど無いように基本に戻ればよかったのに…。何とも言えない気分です。
 わずかながら,何とか使えそうなものでデスクトップの壁紙をつくってみました(とはいえ,壁紙としては使えませんが…)。使えるものが多くあれば,色々な種類を作れたのでしょうが,何せ材料が少なすぎて…。教育学科の教員メンバーの協力を得て,何とか記念作品を創作しました。ご勘弁を。

■ ぶつぶつ3/1/2002
 今日はとてもいい天気です。まるで春。車で走っていたら,まずは梅の花が咲いているのを見かけました。その下のベンチでは,おばあさんが3人並んで座っていました。ほほ笑ましい。もうちょっと走っていたら,ある高校で卒業式が行われていました。校門で友人を写真におさめている生徒を見て,またほほ笑ましく思いました。研究室について,書きかけの原稿を開いた途端に暗くなるのは仕方のないことでしょうか…。まだまだ他にも出来事があって,生きていれば色々とあるなあと感じ入っています。
 先日スキーに行ってきました。学科教員のメンバーで行ったのですが,教えてくれる人が2名(3名?)いて,それなりにきちんと練習するスキーでした。適当に滑ることができるようになってからは,向上心はどこへやらで,滑ること自体を楽しんでいたのですが,久しぶりに「できるようになるために滑る」というスキーを経験しました。体はきついし,頭の中は大混乱で苦しみもしたのですが,半日+半日で何とか形になってきたようです。
 あまり分析的に考えても面白くないのですが,スキーのような遊びは見方次第で色々と楽しめると思います。最初は(私の場合)さんざんコケて,少しでもうまく滑りたいというために滑っていました。その後,適当に滑れるようになると,滑ること自体が楽しくて滑っていました。ちょっとだけ,お昼のビールをおいしく飲むために滑るということもあったのですが。そして,今回はできるようになるために滑るという滑り。どれかだけだと飽きが来るのでしょうが,このように多面的にとらえることができるため,スキーを趣味にしている人が多いのでしょう。
 本格的に山にも春が来る前に,もうちょっと楽しみたいなあと思っています。原稿書きは,どうしても多面的に見れない…

■ ぶつぶつ2/12/2002
 何とか今日の入試も進んでいるようです。昨日夕方から雪,寝る前に外を見たらアスファルトの上も白くなっていて,本日朝一の監督を控えた身としてはどうなることかと思っていたのですが…。もちろん受験生の人たちも,朝日が照っているのを見て一安心したことでしょう。
 そんなこんなで朝からバタバタしていたら,今日学校で採点しようと思っていたレポートの束を持ってくるのを忘れてしまいました。それを思い出したのは試験監督をしているとき。思わず天井を見上げてしまいました。声は出さなかったと思うので,受験生の迷惑にはなっていないと思います。たぶん。そのかわりに(でもないのですが)これを書いています。
 先日はスキーを再開するぞなんてことを書いたのですが,バイク乗り再開も今年の計画の一つです。目に留まったときに雑誌など買って眺めているのですが,車と似たところがあって,どれも帯に短したすきに長しで迷ってしまいます。通勤の足として使うのならば125ccくらいのスクーターが一番良いのでしょうが,ちょっと面白くないかなとも思ってしまいます。ZZ-R(もちろん中型免許しか持っていませんので…)も好きなのですが,通勤に使うにはどうかな? 高速をすっ飛ばすのも好きだけど,そんな歳でもないだろうし,のんびりと走りたい気持ちもある。そして,30代になったおじさんが乗っても様になるもの…と考えていると,該当車種なし?
 何となく,3台くらいを所有していればまるく収まりそうです。でもそれは非現実的。おそらく,最後は見に行って衝動的に決めてしまうのだろうなあ。暑くなる前に(ずいぶん先のような)は何とか…

■ ぶつぶつ2/2/2002
 何か年を越えてから,やたらとカウンターが回るようになりました。先月は,開設以来はじめて100アクセス/日を越え,さすがに書いている本人もビビっています。何が起きたのだろう? それとリニューアルの感想も,何人かの人からいただきました。見事に賛否両論別れました。母親には,さみしい画面と言われてしまいました。またいつかリニューアルするときがくれば,今度はゴテゴテとしたものにしたくなるのでしょうか? このあたりは味覚と同じかも。
 授業も終わり,採点シーズンです。毎度のことですが,うれしくもあり悲しくもある作業です。人が授業をした結果を採点しているのならこんな感情はおきないのでしょうが,何せ自分が授業をした結果なのですから,それは自分の授業評価の一部。できていれば自己評価が上がるし,できていなければ下がる。とても単純な構造です。昔,私もあの先生は鬼だの,この先生は仏だのと言っていましたが,立場が変わるとそんな単純なものではないことを身をもって感じています。
 頭が痛い原因の一つは,テストやレポートは,その学生が学んだことを証明する資料の一部でしかないとわかっているところです。テストやレポートのみが証明資料である,と割り切ってしまうことができれば,何の問題もなく評価できるのですが,そうはすっきりと割り切れず,何か悶々とした感じが残ります。だからといって,それ以上を推測して評価をすることもできません。これをやってしまったら,評価者としての教師失格だと思っています。
 私は,学生の名前を覚えようとしません。言い訳ですが,受講生の顔と名前が一致すると,どうしても評価の時に邪魔になるのです。この子はテストの点が悪い。でもいつも真面目に聞いていたよなあ…なんてことを考えなければならない状況に自分を置きたくないのです。もちろん受講生全員を把握していて,全ての受講生に対して同様に授業態度評価ができる場合はよいのですが。一部の受講生のみが有利になるような評価は絶対にしてはならないと思っています。これはやっぱり鬼なのかな?

■ ぶつぶつ1/25/2002
 ある日,帰り際にとある先生と話をしていた。今日は充実した一日だったと思える日は少ないよね,という内容の話。確かに! 今日も,何のかんので一日が終わってしまった…
 私にとって充実した一日だったと思える日は?と考えてみたのだが,これがなかなか思いつかない。最近で,充実してた日を思い出そうとしてみたのだけれど,これもなかなか思いつかない。毎日毎日,何もしていないわけではない。ちゃんと仕事に行き,とりあえずやらなくてはならないことをこなしている(?)。ということは,やっていることが充実感に結びついていないということでしかない…と,ここまで書いて思い出した。充実感を感じた日のこと! あれはたしか年明け。風呂掃除をした日。年末は本当にバタバタで,大掃除なんて手がつけられなくて,そのまま帰省したため年明けにお風呂の大掃除をした。きれいになった風呂場を見ながら,ささやかな充実感を感じたのだった。そうそう。
 極めて分析的にこの2つの事実を比較検討してみると,その差異としていくつかのことを見いだすことができる。まず,日常のことか非日常のことかという点。現在の私の生活では,風呂掃除の方が非日常的である。次に,それで給料をもらっているかどうかという点。風呂掃除には,もちろん給料は出ない。さらに,やった結果が明瞭に見えるかどうかという点。風呂掃除は,極めて明瞭な結果が出る。
 とりあえず,さっと頭に浮かんだことを書いてみたのだが,まとめると,非日常的で,お金(責任と言ったほうがいいかも)がからまず,結果が明らかなものを行った日の方が充実感を感じやすい(もちろん,極めて個人的なケースである)。とてもさみしい結論なのだが,ここに「非日常的」という条件があるからには,毎日充実感を感じることは不可能である…という結論を導かざるを得ない。何だかなあ…

■ ぶつぶつ1/15/2002
 連休中にホームページの大改造をしました。大改造と言っても,明らかに見た目だけであり,どちらかといえばデッドリンク,不要なファイルの整理という性格が強かったのですが… 以前のものが,結構凝ったものだったので,時代に反して極めてシンプルなものにしてみました。それから,ロゴマークではありませんが(一応そのつもりですが),U's(Urakami's Home Page)というデザインも作ってみました。感想などいただけたらうれしいです。
 暗いニュースですが,またある会社が会社更生法を申請したというものがありました。行くところまで行かないと,明るさは出てこないのだろうなあと投げやりに見ているのですが,先日ブックオフに行ったら,ここには駐車場が空かないほど人がいる。リサイクルショップの前を通ったら,ここも車が一杯。結局は,何が商売になるのかということが変わっただけなのかもしれないと思っています。
 同じことは大学にもあてはまるのでしょう。今年も新しく心理学関係の学部名,学科名を冠したところがかなり設置されるようです。学生数にしたら,全国で千の単位で増えるのではないでしょうか。確か10年くらい前に「国際」とか「情報」とかが流行った時がありました。あのころできた学部や学科はどうなったのだろうと思わないでもありません。そして,10年くらい先に,心理関係の学部,学科がどうなっているのだろうと少し不安にならないわけでもありません。もちろん,どの学部,学科も生き残るだろうと思ってやっていると思いますが…
 さて,10年後,どこが残っているのでしょうか? そのとき私はどうしているのだろう??

■ ぶつぶつ1/8/2002
 みごとに2002年の幕が開きました。今年は,何とかコンスタントに書いていこうと思っていますので,よろしくお願いします(と,誰に言っているのか…)。例年通りの食っちゃ寝の,極めてだらけた正月を送ったのですが,今年はちょっとひどいものでした。一日12時間くらいは寝ていたのではないか…。疲れていたといえば聞こえはいいのだけど(?),自分でもおかしいなと思うくらいに寝てました。
 そんなだらけた気分に水をさしたのが(表現がおかしい?),大雪。何で岡山にいる私が名古屋の大雪に振り回されなければならないのか,と思ったものの,名古屋に戻る日を前にしているためしばし思案。新聞の広告などに目を通して,スタッドレスタイヤの購入を急遽検討。年末にも,今年こそはスキーに行くぞ!と思い立っていたので,用具一式とスタッドレスタイヤの価格は調べていたのですが,こんなことで正月早々から再考を始めるとは思っていませんでした。
 まあ,広告を見ていてもはじまらないのでそのまま店に直行。そして買っちゃいました。それで帰ってきたわけですが,名古屋の現状はノーマルで十分だったというわけです。タイヤを履き替えてみて思ったのは,高速でのスタッドレスは恐いということ。ハンドルが軽く(つまり路面との摩擦が少ない),カーブでタイヤが折れる感触がある(これは何と表現したらいいやら…タイヤの断面というのは箱形をしているのですが,それに横から力を加えると菱形になります。それがおきている感じ)。スタッドレスとノーマルの違いを勉強しました。
 しかしスタッドレスにしたからには,その性能を使い切らないともったいない。つまり雪道に行かなければ。ということで,スキーセットも購入してしまうかもしれません。タイヤへの投資を回収するためにも。でも時間は? もう一つ気掛かりなのは,今一つすっきりしない捻挫後の足首。はたして元が取れるのはいつになることやら。