ぶつぶつ(2001年)

…単なる独り言…

■ ぶつぶつ12/27/2001
 ずっと書き続けていたことを,たまに(?)止めていると,色々なところで「どうしたのですか」とか「まだですか」という声を耳にしました。ありがたいことです。こんな駄文を楽しみにしてくれている人がいるなんて。ちなみに,はつか大根は2サイクルを無事終了し,母なる大地であるプランターは来年に向けて休養中です。とはいえ,どんな肥料を入れておいたら良いのか…。
 先日テレビを見ていたら,世界の初日の出を中継(中継録画)するHPの紹介がされていました。ちらっと見ただけなのですが,ものぐさもここに極まったという感じがしました。正月というハレの日に,徹夜をして(もしくは早起きをして),厚着をして寒い中をじっと待つ,というのが私の中の初日の出のイメージです。だから貴重さが出てくるのではないでしょうか。実は私自身,初日の出を拝んだという記憶はありませんが。
 最初はこんなネガティブなことを思ったのですが,ちょっと待てよ。寝たきりのおじいちゃんが,「冥土の土産に(縁起でもない…)初日の出が見たいのぉ」と言ったとしたら,これはぴったり(か?)。ITとはこのためにある,といった利用方法ではないか。年末から浮かれ気分で酒を飲んで,正月から寝坊した人が,見過ごしたなあということで録画を見るべきものではない! 断じてそう思う。
 寝坊して見過ごしたという人は,正月早々から反省すればいいのです。2002年の初日の出は1度しかないのですから。ものぐさが,もっとものぐさをするために技術があるのではない。人が反省をしなくていいように,技術があるのではない。じゃあ何のためにあるのか,といわれても,確かな答えは持ちあわせていませんが。
 ということで,来年も私は初日の出の時間は寝ているのでしょう…

■ ぶつぶつ12/11/2001
  はつか大根は,30日前後で無事食卓にのぼりました。満足! もう1サイクルできるかなと思って,再度チャレンジ中。寒さよけのために,針金ハンガーとゴミ袋で簡易ビニールトンネルを作った私って何者…。しかし,私が食べる前に試食をしているヤツを発見。太った青虫を見たら,何か損をしたような気分になってしまいました。
 えらく長い間書いていなかったのですが,それ以上に御無沙汰していたことを先日しました。何かといえば,スーツを買うこと。散髪を除いて,身なりに気をつけることは嫌いではないのですが,根が出無精なためか,物持ちの良い,つまりは買ったものを長く使うようにできています。これが幸いしたのか災いしたのか,振り返ってみれば,冬物のスーツは大学3年の時に何かのために買った(おそらく知り合いの結婚式)ものが最後でした。大学3年というと,1990年。一昔以上前のことです。ということは,十数年間体形が変わっていないんだ。
 そのことに気づいた時,それでも不自由なく生活できたことが何か不思議に感じました。商売が商売ですから(?),それほど頻繁にスーツに袖を通すことはありません。また,それを求められないような状況にあった(?)から,今でも着るに耐えられるものなのかもしれません。でも,それでいいのか?
 スーツはここで,というメーカー(ブランド)があるのですが,店員さんとの話の中でそのようなふりをしたら,「ありがとうございます」と言われてしまいました。何がありがとうなのかわかりませんでしたが,「長く使ってくれて」と解釈しています。十数年ぶりに買っていただいて,ではないと思いますが…
 とりとめの無い文章ですが,私の中では,ここ十数年のことが頭を巡っていました。変わらない服と変わった自分。あっという間の十数年。気がつけば十数年経ったのだという実感。これを文章に表現するのは難しい…

■ ぶつぶつ10/5/2001
 はつか大根の種をまいてから,はや一週間。双葉の間から,本葉が顔をのぞかせてきました。朝起きて,ささやかなベランダに置いてあるプランターを眺めるという心休まる(?)習慣ができてきました。まびきには,ちょっと早いかな。
 そもそもこんなことをはじめたのは,野菜の値段に疑念を抱いたからです。ラディッシュ(素朴な疑問…はつか大根はラディッシュなのか?)が,5つ6つ袋に入っていて150円とか160円とか(だったと思う:葉っぱがよれよれになってくると値引きで100円)…。近くのユニーではつか大根の種を見つけ値段を見ると,結構一杯(手触りで)種が入っていて130円。しばし熟慮…
 どう考えても,130円の方が安い。1回でもうまく育つと元が取れる。と,ここまでの判断は正しかった。問題は,それに伴うコスト。水は何とでもなるが,我が家にはプランターは無い。土も,まわりに畑が無いので買うしかない(とはいっても,実家が田舎にあって,裏の畑で野菜を作っているような所で育った私には,土を買うというのが何とも…)。ということで,プランターと土を購入。早速家に帰って種まきをする。
 次の日,また園芸用品売り場に出没。じょうろが無かった。種まきをした後,いろいろと水やりの方法を工夫したのだが,うまくいかない。ペットボトルの底に穴を開けて自家製じょうろを作ったのだが,底に穴の開いたペットボトルに水を溜めるのは一苦労,ということでじょうろを購入。
 そして先日(一週間で3回目)またまた園芸用品売り場へ。種の袋の裏に,液肥をやれと書いてあることを発見したのだった。液肥購入。ということで,総額で結構な出費。さらにネットを見ていると,大根系は連作には向かないとのこと。またまたピンチ。元が取れるのはいつのことやら…。(でも,その横に万能ネギの根っこのところだけを植えていたりする)
 断じて,こんなことをやっている場合ではないのだが,なぜかこっちの方では身体が動いてしまう…

■ ぶつぶつ9/27/2001
 ずいぶんと長い間書いていませんでした。心配してメールをいただいた方,電話をいただいた方,ちゃんと生きていますのでご心配なく。
 なぜ長い間書けなかったかといえば,とっても忙しかったからです。というのはウソです。ごめんなさい。単にスランプです。いろいろと考えることがあって,メンタルな意味で余裕がないというところです。
 そんな中で,頭の痛い問題の一つが原稿。こいつが魚の小骨のようにノドに引っかかっている,という感じ。こいつが,書いても書いても見えてこない。紙面は埋まっていくのだけれど,そこに書かれている中身はというと,私とはズレている。これまでの原稿は,書きなぐっているうちにぼんやりと書きたいことが姿を現してきて,それが見えてくると,それに合わせて修正をしていくというやり方が通用した場合が多かったのです。唯一違っていたのが,一番最初に書いた原稿。この時は,ホントに七転八倒というか,頭抱えて壊れていた(と人は言う)状態でした。結構,これに近い状態が現在です。でも,あの頃は院生で壊れている時間(余裕)があったのだけど,今はなあ…
 スランプついでにプランターを買ってきて,ベランダではつか大根の栽培に着手しました。はつか大根は,本当に二十日前後で収穫できるのだろうか?なんて実験している場合ではないのだが…

■ ぶつぶつ8/22/2001
  今年の帰省は長くなりました。岡山で非常勤をやることとからめて戻ったので,せわしいような,のんびりしたような…。実家から仕事に行くということは,なんと初めての経験だったので,便利が良いような,しまりが無いような,不思議な感じでした。
 名古屋にもどり,採点などをしながら,いくつかHPを探っていたらおもしろいものを見つけました。総務庁のページなのですが,そこに「家計調査からみた品目別支出金額及び購入数量の県庁所在市別ランキング(平成10〜12年平均)」という調査結果があります。梅干しの購入が全国一多いのは和歌山市であるとか,甲府市はブドウの購入が日本一であるとか,その土地柄がよく出ていると感じました。やはり地元の特産品は,地元に受け入れられているものだなあ。
 さて,名古屋市はというと,全国でベスト5に入っているのは,「すいか」「まんじゅう」「鰻の蒲焼き」だそうです。鰻は愛知県の特産の一つですから納得ですが,「すいか」はどうしてなんだろう? そのなかでも「まんじゅう」は全国一位で,一世帯当たり年間5000円程度を購入しているそうです。これは全国平均の倍以上。今一つ実感は湧きませんが…。でも面白かったのは名古屋が一位になっていることではなく,「まんじゅう」購入ベスト5が,名古屋市,熊本市,広島市,徳島市,岡山市であったことです。さて,共通点は?
 熊本−加藤,広島−福島,徳島−蜂須賀,岡山−池田,と書けばピンとくるでしょうか。藩主に信長,秀吉絡みのメンバーが並んでいるのです。これらの大名たちが,お国替えの際に「まんじゅう」文化を持って行ったのか? それが数百年を経過した現在でも,脈々と受け継がれているのだろうか? 真偽のほどのはわかりませんが,ちょっとおもしろい発見でした。

■ ぶつぶつ8/13/2001
 今日は,とても眠かった。今,実家でお盆休みの真っ最中なのだが,やらなければならないことはあるのに,何も手に付かない一日。そして,ごろごろしながら小説を一冊読んだだけ…
 久しぶりに小説を読んで,こいう文章も確かに存在するんだと思った。私も文章を書くことを仕事の一つとしているのだけれど,全く性質の違った文書。どこでこれだけの差が生まれてくるのかわからないけど…。でも,珍しさからいったら,ぶつぶつに書いているような文章の書き方をする人間の方が少ないのかもしれない。日記でもないし,エッセイでもないし,小説でもないし,誰かのために書いているわけではないし,かといって自分のために書いているものでもない。インターネットという混沌の中に,何かを落としてみたいという欲求だけに基づいているのかも。昔,マヨネーズとケチャップと,辛子とわさびとカルピスと牛乳と…,飲むわけでも何かにかけるわけでもなく,実験と称して色んなものを混ぜ合わせてよろこんでいた,そんな感じを味わっているのかもしれない。
 お盆ということで,我が家の9つの位牌が仏壇を飛び出して,座敷に鎮座している。私の隣には,評価を待っている春学期のレポートが積み重なっている。蝉が鳴いていて,裏からは子どもとおばあちゃんの声がする。ひざの上にはiBookが乗っており,大学にだってアクセスできる。きわめて私的現実である。ここから名古屋の下宿を考えると,そこはとても非私的現実の場所という気がしてくる。きちんと壁で区切られた,部分としての私の場所。でも,名古屋に戻れば,逆の感じがしてくる。いろいろなものをすっきりと切り落とした,一時的中心要素だけの私的現実が心地よかったりする。
 私という意識は何てわがままなものなんだろうと感じながら,幻想としての自己実現を追っかけている様な,なんとも非現実的な日常を振り返っていたりする。もしかすると,だから休暇が必要なのかもしれない。 …めちゃくちゃな文章だ。

■ ぶつぶつ8/6/2001
 うーん。あっという間に8月か…。このままで行ったら,多分あっという間に9月が来て,そうこうしているうちに後期が始まってしまうんだろうなあ…。そんなうちに,寒くなってお正月が…。いかん,いかん。
 先日,故あって授業評価などについて語り合う会に出席しました。評価に対するいろいろな意見を聞けて,ためになったというか,人間というものが評価にさらされるときに感じる,何ともいえないものを多種多様に垣間見たような気になりました。そういう意味では面白かったと言えるかもしれません。
 私自身は,授業評価に対して当たり前にやるべきことと考えています。当然,腹が立ったりすることもありますが,勇気づけられることもあり,怖いもの見たさという感じで受け止めています。学生には,私の通信簿をつけるような感覚で書いてくれと頼んでいます。時には,「おもしろくなかった」だけ書いてくるようなヤツもいますが,そんな舌足らずな,評価主体としての責任を放棄したような感想に付き合っているヒマはないので無視します。やはり,きちんとした指摘は,きちんと応えなければならないなという意欲をかき立てます。
 だれしも,評価されることは気分の良いことではないと思います。しかし,怖がるほどのことでもないように思います。ちゃんとした評価を,ちゃんと受け止めて,そこから解決策を見いだしてく。ただそれだけの,単なる手順の一つだと考えています。
 一方学生にとっては,このような授業評価があることは,メリットだと思います。それによって,もしかしたら劇的(それは無理?)に授業が変わるかもしれません。もしそれを期待するなら,授業評価に責任をもって記入してください。「おもしろくなかった」だけでは,何も変わりません。何がどうおもしろくないのか,どうすればおもしろいのかが,全く伝わらないからです。「板書をしてください」も同じです。自分が授業に対してどのように努力し,どこでつまずいたのがわかるように書いてくれることが一番役に立ちます(つまりは,努力もしないお客さん状態では評価主体としての責任は果たせないということです)。お互いに責任をもって評価しあうということが根づいていけばいいなあと思います。

■ ぶつぶつ7/24/2001
 現在,午前3時。日曜日,いやいや日付は変わったから月曜日の午前3時まで何をしていたかといえば,原稿を書いていたのである。学生の時には,午前3時まで頑張ってレポートを書いていたという記憶はあまりない。一度だけ,レポートを2本抱えていて,徹夜で書き上げたという記憶があるくらいである(後にも先にも,勉強で徹夜したのはあの時くらいかも…)。
 春学期の試験も始まり,またレポート提出期限も迫ったこの時期に,学生諸君はいったいどの程度の時間をかけてレポート1本を仕上げているのだろう。私の経験では,1本でだいたい12時間から24時間(だたしレポート用紙2,3枚のもの)くらいだったのではないだろうか。ただし私には,時間の余裕があっても無くても,結局はぎりぎりまで取りかからないという悪い癖があった(今でもある)。構成なんて考えたことはない(今は考える)。見直しは一度すればいいほう(今は相当やっている)…。なんておバカな学生だったのだろう。それでまともな評価を得ようとしていたのだから…
 今回の原稿なんてたかが5000字くらいのものであるが,もう1週間くらいはかかっている。最初の構成とは似ても似つかぬものになってしまった。多分,字数としては倍以上書いている(つまり書いたものの半分以上はボツ)。書いては直し,書いては直しという生産効率のとても悪いプロセスである。そうやってはじめて,自分で何とか納得でき,人様の目に触れるに耐える(だろう)ものをひねり出している。
 だから,どうしても学生のレポートを評価する基準が厳しくなるのだろう。構成すら工夫されていない,徒然に書かれたようなものは,読んでいて苦痛である。あの頃の先生に申し訳なく思ってしまう…反省。 …なんてことを書いている場合じゃなくて,早く寝よ。

■ ぶつぶつ7/18/2001
  ねんざをした。ちょっとショック。これまでは,体は弱いけど丈夫と思っていたので(病気はするけど,骨折とかねんざはしたことがなかった)。足がつるとか,筋肉が痙攣するってことはあったのだけど…
 手早く冷たくて暖かい(暖かい態度で冷やしてくれた)処置をしていただき(感謝!),しばらくは無理に使わないほうがよいということで,松葉づえまで貸していただいた。なんと,松葉づえは初体験。どう使ったらよいかわからない。思いっきりぎこちない利用。痛めた足に負担をかけていないのか,さらに負担をかけているのかわからない。階段の登りで思案し,下りでも思案。坂道でも思案し,下り坂なんか勢いがついて「ケンケン」状態。なんとも不細工な話である。さらに,どうやればここがクリアできるのか考えながら,松葉づえをつくロボットを開発するのは,2足歩行のロボットを作るよりも簡単なのか,それとも難しいのか,そんなことまで考えてしまった私は変なのだろうか…
 久しぶりに身体を動かして,いつからこんなに思ったように身体が動かなくなったのだろう?と感じました。頭は反応しているのに,身体の方がいうことをきかない。30を過ぎるとこんなものなのだろうか,と思いつつ…。でも,正しい解答は運動不足だろう(であってほしい)。でも,なんでこうなったかなあ…
 よくなったら,きちんと運動しよう!と絶対にそうはならないだろうと確信しながら誓う今日。

■ ぶつぶつ7/10/2001
 先日,免許の更新に行ってきました。これであと5年は行かずに済みます(多分)。しかし,あのような場所は,なぜに無愛想な職員が多いのでしょうか? 写真を撮るところの職員さんが無愛想だから,あんな無愛想な(犯罪者みたいな)写真になってしまうのかな?
 真面目に(?)運転していたため,優良講習という短い時間で開放されましたが,職業柄,講習の内容よりも何をどのように話すのかに興味がいってしまいます。ちなみに30分という短い時間の間に,携帯を鳴らしたヤツが2人もいました。エエ歳こいて何をやってんだか… ちなみに講義をやっていた人がどのような反応を示すか興味があったのですが,何事もないかのように話しを続けていました。
 話をもとに戻しましょう。30分のうち,半分がビデオ,半分が講義だったのですが,講義の方は,見習うべきところもなく,かと言って批判すべき点もなく…というふうに聞きました。でも考えることはありました。それは「なぜ人は学習しないか」ということです。「ひやりとした経験は皆さんあるでしょ。だからその経験を忘れずに運転しましょうね。」というのが大筋だったのですが,これをわざわざ言わなければならないくらい人は忘れっぽいということです。同じ過ちを繰り返さないほど人間は賢くないという証明みたいなものです。教育は人の学習能力を信じてやっているのですが,こんな状況を見せられると,やっぱり無駄かなあと思ってしまいます。
 たしか昨年度の卒業生に同じことを言ったなあと思い出しました。反省は誰でもできるが,それを直すことは誰にでもできるものではない,みたいなこと。それを人間らしいということもできるのですが,それが人間らしいことなら,私のやっていることは無駄なのか? まあ,当然人に言えるほど私もできた人間ではありませんが,こうやって書くほどですから,同じ失敗は繰り返さないように注意している方だと思います。ということは,人間の学習能力の低さを訴える(授業の中で取り上げる)ほうがいいのかなあ?

■ ぶつぶつ7/4/2001
 さて,春学期も今週一杯となってきました(私の場合)。待ちに待った(?)夏休み(というか,授業のない時期)の到来です。何度も書いている話題ですが,授業がないことは私にはとても心穏やかなことなのです。別に授業をすることが嫌なわけでなく,そこには苦と快が同居していて,よい意味でも悪い意味でも落ち着かないのです。
 ある学生と話しをしていて,なぜ大学はもっとディスカッション形式の授業を増やさないのかという質問を受けました。私は,小さいサイズの授業ではよく発表(意見表明)を求めます。これを続けていて,個々人それなりに意見は持っているけれども,それをうまく表明することについては,非常に大きな個人差があると感じます。すっきりとコンパクトに表現できる者,しゃべりながら考える者,言葉は多いのだけれども結論に結びつかない者,黙ってかんがえこんでしまう者…。当然,これは学生にのみあてはまるものではなく,社会人にも同じことが言えるのだろうと思います。
 このような現状を見ていると,やはりディスカッション形式(そこまではいかず,意見発表を取り入れた形式)の授業を続けていく必要があるのかなと感じます。しかし,これまた当たり前のことですが,まとまらない学生の話しを聞かされるくらいならば,授業を進めてくれという要望もあります。それをクラスメイトのことを考えていない要望だとか,自分勝手だとかとは思いません。当然の要望だと思います。しかし,練習しなければうまくはならないのです。これを,どこらあたりで折り合いをつけながらやっていくかが,私に課された問題だと思っています。どう取り上げるか,どう聞き出すか,どうツッコムか,どう切り返すか,どう潰すか,どう褒めるか(これはほとんど無い),アドリブの連続で対応しなければならないと思います。
 もどって,なぜ大学はもっとディスカッション形式の授業を増やさないのかという質問に対する回答。なぜなら,教員一人に対する学生の数が多いから,とは一概に言いきれません。確かにあたっているのですが,それだけではないでしょう。高校での授業を思い出せば,単に数の問題だけではないのです。ということで,なぜなら,教員が疲れるから(いろんな意味で)。これは,結構いい線をいっている回答だと思うのですが…

■ ぶつぶつ6/28/2001
 暑い…。昨日今日は少しましなのですが,その前二日間ほどがとっても暑かったのです。じとー,ぬべー,でろー…,何と表現したらいいのかうまい言葉が見つかりませんが,いやな汗をかくような暑さです。
 そんな中,無理に寝ようとしたことが災いしたのか,バテ気味です。暑さと格闘すること3時間,やはり寝つけませんでした。それまでは朝方寒く感じるときもあったので,長そでの薄めの服(パジャマではない)で寝ていたのですが,途中でこれを夏用の薄いパジャマに変更。それでも暑くて窓を開けて寝ることに変更。それでもだめで,とうとう夜中の4時前に扇風機を組み立てるハメになってしまいました。扇風機をかけてからも,30分ほどは寝つけなかったようです(いつの間にか寝ていましたが)。
 クーラーをかけて寝ればいいことはわかっているのですが,今一つ好きになれないのです。研究室でも家でも,不経済だとしりつつ,クーラーをかけながら窓も少し開けているという状況にしています。クーラーの効いたところにずっといると,何か身体が悲鳴をあげるのです。
 以前から,体調や頭の調子は,夏よりも冬の方がいい感じで動いてくれます。逆の人も知っているので,人それぞれなのでしょう。私にとっては,ちょっとつらい季節の到来です。皆さまもご自愛を。

■ ぶつぶつ6/19/2001
 「先日から,メインマシンをPM7300からG4 cubeに変えました」と書くのと,「先日からメインマシンを,PM7300からG4 cubeに変えました」と書くのでは,どちらが読みやすいのだろう? こんなことで頭を抱える人間も少ないのだろうが,その少ない人間の一人が私である。
 このような商売をしていると,人の文章を直す機会もあれば,直される機会も多い。直される時にしばしば問題になるのが,こんな些細な表現の個所である。当然私は,私の感覚で文章を作成している。見た目もあるし,ちょっと声に出してみたりしながら文章を作り,直していく。その時には,最もフィーリングの合った言葉を使うし,気持ちの良い区切り方,つまり句読点を使う。でもそうすると,見た目に違和感を感じるときもある。平仮名ばかりが続くと読みにくいので,ちょっとここは漢字を使ってやろうとか,漢字ばかりで息が詰まるような感じがするからあえて平仮名を使おうとか,平仮名ばかりで読みにくいけど,漢字も適切なものが無いから「,」を使おう,とか…
 しかし,これが本を作るときには通用しない。「統一」というヤツである。ある部分は「捉える」と書き,ある部分は「とらえる」と書いてはダメなのである。自分のフィーリングに絶対的な自信はないが,あえて漢字を,もしくはあえて平仮名を使いたい時もある。でも,これは認められない。なかなかやっかいな問題なのである。
 きれいな(ここも「綺麗な」とは書きたくない)日本語でものを書きたい,という気持ちをいつも持っている。内容的にという意味でなく(と,言い切ってしまうことにも問題はあるが),見た目と音の気持ちよさという自己流の美学である。こんな感じを持ったのは,大学の時にとった国文学か何かの授業で,漱石の「それから」の一文を読んだ(見た,あるいは聞いたという意味合いを含む)ときだと記憶している。何か分からないけど,スゴイという感じを持ったことを覚えている。だからといって漱石みたいに書きたいと思っているわけではないが,自分の使っている日本語との格差を感じたのである。それ以来,ほとんどの時は忘れているのだが,こんなふうに書くということを考えていると,ふと思い出すことなのである。
 10年後,私の文章はもっと気持ちのよいものになっているだろうか…

■ ぶつぶつ6/11/2001
 この土曜日,はしごをした。はしご酒ならぬ,はしご結婚式である。縁あって,どちらとも出席したいが,いかんせん身体は一つなので,失礼とは思いつつ中座・遅刻の出席となってしまった。素早く移動することに,便利さとともに何とも言い難い不快さを感じている自分ではあるが,さすがにその日は早くリニアモーターカーを実用化してほしいと思ってしまった。
 自分が結婚していないせいか,結婚するということに対する心理的なものは実感として理解できないというのが正直なところである。結婚について考えたことが無いわけではないので,そこまでは何とか感じ取ることができるのだが,そこから先,つまり結婚を決めて式までの間にどんな感情的変化があるのかはよくわからない。実はひそかに婚姻届は持っている。それも5通も。別に結婚詐欺をしようという訳ではない。さらに言えば離婚届も持っているし(ますます詐欺臭いが),出生届,死亡届(おそろしく詐欺臭い)まである。もちろん,授業用である。
 授業で結婚について語るのは,それなりのデータや文献などをベースに話をするので,大して困難なことではないのだが,残念なことに,結婚を決めてから式に至るまでの間の心理的変容についての研究はほとんど無いのではないだろうか。このあたりは,おそらく式場の担当者がいちばん理解しているのだろう。結婚の経験がある人でも自分のことしか知らないわけだから,ある意味でそれを客観的に眺めている式場の人が,もっとも心理学者に近い立場でそれを理解しているに違いない。もし教えてやろうという人がいれば,ぜひお願いしたいものである。
 一番知りたいのは,その一連の時系列の中で,どの時点がもっとも“結婚”と呼ぶにふさわしい時なのかということである。プロポーズの決心の時(個人的)なのか,結納を交わすとき(家族・家的)なのか,結婚式の時(社会的)なのか,それとも婚姻届を提出したとき(制度的)なのか…。もしかしたら,一連のイベントを終えて,その後の生活の中で生じるもの(包括的・統合的)なのかもしれない,とも思うし…
 こんなことを考えていると,結婚できないと言われてしまいそうである。人を祝っている場合じゃないだろ,というありがたいお言葉もいただいたことだし。とりあえず今は,この二組の新しい生活が安らかであることを祈るのみ…

■ ぶつぶつ5/21/2001
 \13,056,707,534(ちなみに130億5670万7534円と読みます)。なんじゃこれは,と思いながら目論見書を読んでいました。MMFと言えば,我々庶民が利用する金融商品の代名詞です(と言い切っても分かんない人も多いのでしょうが)。これを買う場合は,よく読んでくださいねということで目論見書というものを渡されるのですが,どうがんばって読んだって,私みたいにフツーの人には理解しきれるものではありません。その中で,「収益」とか「費用」なんて書いてある損益計算書のあたりは何となくわかるのですが,そこにこの数字がありました。
 なんでも,委託会社(商品の販売元みたいなもの…かな?)からの指示で信託財産の管理・処分などを行う受託会社に対して払われている報酬(6ヶ月分)が130億円なんだそうです。これは信託銀行の仕事です。ちなみに収益は278億円,そこからその130億や他の費用を引くと,だいたい141億円が残る。それが分配金としてMMFの買い手に分け与えられるという仕組みなんだそうです。
 約8兆円の管理をして,6ヶ月で130億円の報酬になるのだから,それは相当に…,いやいや,めちゃくちゃすっごい仕事なんだろうなあ…。と思ったのですが,6ヶ月で130億円の仕事と言われてもどうもピンと来ないのです。なので,ネットで130億円をキーワードとして検索してみました。茨城県東海村で臨界事故を起こしたJCOの親会社である住友金属鉱山が発表した地元への補償額が130億円。生産量が激減して大問題の,有明海養殖ノリの2000年期生産額が130億円。佐賀県の松浦川水系狩立ダム,日ノ峯ダムの総事業費が130億円…。ますますわからなくなってきたのですが,とりあえず1年でダムを4つ作るくらいの仕事と考えれば,具体的になった気がします。
 でも,なぜその仕事が半年で130億円になるのかという理由がわからない。ダムの工事を請け負っている人がセメント袋を担いでいるように,信託銀行員は国債の束を担いで運んでいるのだろうか? 委託会社が値切って値切っての130億円なのか,言い値の130億円なのか?(まあ,前もってルールが決められているのだが) これを100億に値切ったら,買い手の得られる利息が20%ほど上昇するはずなのだが…。
 とりあえず,よーくわからないところで,よーくわからない経費がかかっていて,雀の涙ほどの利息がもらえるのだということがわかったような気がします。まあ,頭も身体も使わずに高い利息を求めようとする私が甘いのかもしれませんが…

(ダイワMMFの目論見書より)

■ ぶつぶつ5/14/2001
 やっぱり,どこでも似たり寄ったりなのね,と「ウォールストリート 投資銀行残酷日記 サルになれなかった僕たち」(ジョン・ロルフ/ピーター・トゥルーブ 主婦の友社)を読みながら,そう思いました。自分の仕事にあきれてきたときに読んでみるといいかもしれません(ただ,ちょっと女性にはお勧めしがたい…)。「これにくらべれば私はずいぶんマシ」というのが私の感想ですが。
 世の中には,仕事についての本が2種類あるような気がします。その一つは,どちらかといえば一つの仕事にしがみついてやっていこう。見方を変えれば,考え方を変えれば,もしくはたまには楽しいこともあるさ,というような流れのもの。もう一つは,ある仕事を徹底的におとしめて苦笑を誘うようなもの。そんなにたくさん読んだわけではありませんが,何となくそんな感じがします。どちらを読んでみても,何かしっくりこない…
 じゃあ,しっくり来るように自分で書いてみよう。どんなことを書くだろうか…  と,ちょっと考えてみたのですが,なかなかピンときません。こういうふうな観点で,と注文がつけばなんとかなりそうなのですが,自分で自分にぴったり来る視点を探すというのはかなり苦労しそうです。…なんてことを考えながら風呂に入っていたら,“ゲーム”という言葉が浮かびました。うーん。なかなかいい感じだ(語調まで変わってきた)。
 ゲームというと,ふざけていると言われるかもしれない。しかし,ゲームを“たかがゲームではないか”と見るような人にはわかってもらえないだろう。そこには遊びがあるし,チャレンジがあるし,計画があるし,ルールがあるし,権利と義務があるし,成功と失敗がある。そして,自分で始め,終わらせることができる。ゲームの種類を変えることもできる。あくまでも,ゲーム盤の上の私は私の分身でしかない。私はオリジン(指し手)であり,ポーン(駒)ではない(…心理学っぽい)。
 そんな自分の二重性を思いついたので,それをもって先の本の主人公達を見ると,この二重性が混乱しているようにも読める。ポーンになっている時も,オリジンの視点で世界を見ている。ゲーム盤の上からゲームを見ている。それなら,自分が引き裂かれるような感じになるのもうなずける。うーん。また何か違うような気がしてきた…(支離滅裂)。

■ ぶつぶつ5/7/2001
 日曜日,テレビで個人の満足を取り上げていました。いわゆる一流ホテルのサービスの在り方うんぬんという内容でした。教員という仕事はサービス業だと思っている私は,学校とホテルの違いのことを考えながら,ふーんと見ていました。
 教育はサービス業だというと,おそらくそうではないと反論する人がいると思います。確かにホテルのサービスと学校のサービスは違いますが,どうやって客・学生の満足を得るかというところの異同は,考えてみるとなかなか面白い点だと思います。ホテルであれば,客の要望に的確に応え,さらに客の期待以上のサービスを提供することで満足を与えることができる,とまとめてもよいのではないでしょうか。客の期待通りのサービスをしていたら,それは期待通りであって,客にとっては新規性も良い意味での驚きも何もありません。良いサービスを受けられたと実感できるときは,期待以上の何かにふれた時だということです。
 では大学ではどうか。一番難しいのは,学生の期待というものがあいまいであるというところにあると考えます。おそらく,この世の中に数多くあるサービス業の中で,これほど漠然とした目的で訪れる場所も少ないでしょう。ホテルなら滞在のため,映画館なら映画を見るため,大学なら…。勉強だという人も多いのですが,これがまたあやふや。予備校みたいに大学に合格することが目的で勉強するところなら,目的がはっきりしているのでまだ救われるところがあるかな。何とか偏差値を55にしたくで受講していたら60になった,というのであれば,期待以上ということで満足感が得られるでしょう。以前,大学以外のある養成講座の講師を引き受けたことがあるのですが,やはり受講生の目的がはっきりしている場所は,やりやすいなあと感じました。
 大学での勉強なんて,やればやるほど未知の部分が見えてきて,何で私は勉強しているのにわからない部分が増えてくるのだろう,なんてことを感じたりして…。わからないことがわかることは,わかろうという期待を持っている人にはぴったりのはずなんだけど…。そして教員は,「どれが正答なんですか」なんて質問が出てガックリしたりもする。
 ということで結論。大学の授業で満足感を与えることは困難である。対処方法。受講前に受講希望者と面接をして…,なんて非現実的だよなあ…。上手い手は無いものだろうか。

■ ぶつぶつ5/2/2001
 本日は,大学はお休み。創立記念日の振替休日なのです。でも,なぜか大学にいる…。でも,久々にゆっくりと机に座っている。とても平和な今日…
 最近忙しいので,異様に授業中のテンションがあがってしまいます。おもしろいもので,中途半端に調子の悪いときにかぎって,テンションがあがるのです。平和に生活しているときは,それほどでもないと思っています。とても調子の悪いときは,もちろんダメですが。そして,テンションがあがってるな,とメタ認知しながら(でも変えることができないまま)授業を終わると,やたらと大きな代償が返ってくる…
 私自身が学生の時は,テンションの高い先生は苦手でした。何を一人で熱くなってんの?,という感じで,引いてしまうのです。それがなぜか,自分が前に立つと,自分の苦手なタイプを演じている…。なぜだろう? 確かに,酒を飲むと説教魔になるのだけど,授業前には飲んでいないのに?
 もしかすると,本当はテンションの高い話し方が好きなのかもしれない…。いやいや,そんなことはない。金八先生も好きじゃなかったし。なぜなんだろう?? 精神分析とかだと,分析できるのかな。

追記:教育学科00年度卒業生の皆さん。卒論の要旨を学科のHPにアップしておきました。お楽しみください。

■ ぶつぶつ4/24/2001
 このページの更新が,しばらく止まっていました。おそらく,これからもしばらく(数年?)はこんなペースになると思います。いろいろと忙しくなって,自分の処理能力が追いつかないという感じです。何てこった…
 先月末から週末なしでゴソゴソしていたためか,先先週末に「遠くへ行きたい,温泉に行きたい,田舎に行きたい」病に突然おそわれてしまいました。手元にあった日帰り温泉の本をぺらぺらとめくり,夕方5時だというのに出発してしまいました。ブツブツと独り言を言いながら車を走らせること2時間,山の中の温泉に到着。とりあえずご飯を食べて露天風呂へ。極楽とはこのことか…
 久しぶりのドライブでしたが,ドライブとはこういうものだと一人で悦に入っていました。郡上八幡で高速を降りて一般道へ入ったのですが,至極快適なドライブ。前にも後ろにも車の影が見えない。街中の,走っているよりも止まっている時間が長いドライブは,人込みと渋滞の嫌いな私には耐えられないのです。高速を走っていたときは音楽をかけていたのですが,一般道に入ってからはそれも邪魔になり,スイッチOFF。暮れゆく景色を眺めながら,単に走っていることがとても快に感じられました。
 そんなこんなことを感じていたら,ふと大音量でカーオーディオを鳴らしながら走っているヤツや,電車(特に新幹線)の中で耳障りなヘッドフォンをつけているヤツは,不快な移動をしているのだろうかと思い当たりました。移動自体が快であれば,音楽なんてどうでもいいようなものなのではないか。そんな発想をしていたら,「一体,音楽の役割って何?」というとこまで行ってしまいました。でも温泉疲れもあって,そこでおしまい。
 さて,今度はいつ行こうかな。星がきれいに見えるときがいいなあ…

■ ぶつぶつ4/11/2001
 ずっと気になっていた原稿が,やっとでき上がりました。別にさぼっていたわけではないのですが…。読み返せば読み返すほど,ものたりなさを感じるのですが,一応手元からはなして,また初校ができたときに修正しよう,と何だか勝手なことを考えています。
 以前ある先生から聞いたことで,私ももっともだと思っていることに,文章は排泄物に似ている,という言い方があります。話は汚くなるのですが(でも,食事をしながらこれを見ている人はいないだろう),リキんで出して,出したらすっきりして,後は見るのも嫌なもの,という例えです。うんうんとうなりながら文章を書いていると,でき上がって投函するときは最高に気分スッキリなのです。そしてそれが出版されたら,ちょっと見る気にはなれないものです。何度修正を加えても,すっきりしない部分はどうしても残ってしまうのです。
 そんなものを読まされているのか!とお嘆きの読者もおられるかもしれませんが,これは私にとっての印象であり,それが役に立たないとか,無意味なものであるということの表現ではありません。小説家の人などで,自分の文章にとても愛着を感じると言っている人を見かけますが,私は(私の力量では)どうしてもそこまで行けないのです。どうも,自分の仕事を自分で褒めたり,誇ったりすることはできない性質のようです。
 排泄物なのだから,それは“肥やし”にもなる…か?

■ ぶつぶつ4/2/2001
 入学式も終わり,学内に学生があふれはじめました。また,何だか落ち着かない季節がやって来ます。活気にあふれるという言い方も一方でできますが,落ち着いた雰囲気というのは,やはり長期休暇中にしか味わえません。とりあえず,GWまで一頑張り…
 この1年間で,約22000件のアクセスがあったようです。その前の年が年間7000件程度でしたので,約3倍です。なんとも恐ろしい数です。ゲームの裏技とか株式とかなら,2万という数は1日や1週間,1ヶ月で楽にクリアする数字だと思うのですが,一心理学関係(心理学以外の方が多いのだけど)のページで,これだけのアクセスがあるとは考えてもいませんでした。今現在の状況は,私の判断基準からすれば「とても多い」と思います。
 改めて見直すまでもないのですが,いくつかのページが中途半端なままになっています。授業のページなんて,クモの巣が張っているような,見たくもない状況です。何とかせねば…。ということで,今年の目標は,授業のページを捨てるなど少し整理をして,守備範囲を狭めようと考えています。SPSSのページはリニューアルし学科の管轄に移管して,頭の体操はちゃんと書いて… でも,一番必要なのは,私自身の頭と部屋の整理か!

■ ぶつぶつ3/20/2001
 今日は卒業式。毎年,教員の席に座っていたのですが,今日は父兄席の方へあがって参加しました。上からの眺めもなかなかのものでしたが,全体が見渡せるので,ゴソゴソする者がとても目に付くことがちょっと気になりました。
 あまり知られていないことかもしれませんが,南山の卒業式は,ちょっと変わっています。何が変わっているかというと,その日はみんなカラスになること。別に羽根を付けて,なんてことではなく,角帽(旧制高校などの学帽とは違ったヤツです。例えは悪い(?)のですが,バカボンのパパがかぶっていたようなヤツです。)にマントという姿で参加なのです。これは大学から貸与されます。写真を探したのですが,大学のHPには出ていないようです(見落としているかもしれません)。「南山の先生」というパンフレットを持っている方は,その表紙の写真を見てもらえればイメージできると思います(大学HPの「広報誌・出版物」の中にPDFファイルとして入っていますので,ダウンロードすることもできます)。
 またこれにはグレードがあって,学部卒業生は真っ黒,修士の修了生は角帽のフサが黒から金に変わります。そして博士を修了する(当然,学位を取ることが必須)と,首からうしろに下げる袋(帽子?)のようなものを学長からかけてもらえるのです。明らかに(誰が見ても),学士,修士,博士の順でカッコイイ。教員はというと,博士と同じですが,マントに各学部別に色が入ります。いちばんセンスが良いのは,やっぱり学長のやつかな…
 こんな姿で列席する大学は,全国でも珍しいと思うのですが…。一度,どうですか!

 追記:教育学科のHPに卒業記念デスクトップ・ピクチャをあげています。急いで作ったのでちょっと雑な感じもしますが,よければ使ってやってください。ちなみに,本みたいなヤツは学位記のバインダーです…よね。

■ ぶつぶつ3/15/2001
 トップページのCMで,近著「生きる力をつける教育心理学」の宣伝をしています。教職を目指した教育心理学の学習用テキストとして書かれたものです。その中で,やはりと言うか進路指導のコーナーを担当しました。店頭で見かけられたら,ちょっとめくってみてください。
 中身は,無難な線で押さえたつもりです。といっても,他の方が書かれた教科書の進路指導の部分とは,ちょっと違った味を出しています。「出している」というよりも,「出てきてしまっている」と書いたほうが適切かもしれません。何よりも,その章の最後に書いた提言的な部分は,かなり私の色が出ています。個人的には,かなり気に入っている部分です(ここが最初に書けました)。
 そこでは,子どもたちを取り巻く教師や親たちといった大人が,もっと社会の現状や将来について語るべきだ,と主張しています。進路指導に関わる人たちは,情報収集力と分析力,それに想像力を働かせて,まずは自分が,これまで,今,そしてこれからに見通しを持たなければならないと思います。語る内容があたっているとか,外れているということは,それほど重要なことではないでしょう。語ることが一番重要で,二番目がどのようにしてその分析にたどり着いたかを示すこと。三番目が,考えた材料を提示することで,四番目は…自分で自分の見通しを批判してみること,かな。
 何せ,自分で見通しを持てない人が,これからを担う人の指導なんてできるはずがないと思っています。持てない人が指導をするとなると,当然のごとく,これまでの指導(それのメリットもデメリットも)を繰り返してしまうことになるのではないでしょうか。社会が速いスピードで変化しているときに,無批判に(もしくは変だと感じながらも自分の解答が出せないということで)従来の方法を繰り返すことは,百害あって…だと思います。進路指導は,教師がオリジナリティーを発揮できる面白い分野だと思うのですが…

■ ぶつぶつ3/8/2001
 3月ですね…で続くのですが。とは言っても,なぜか窓の外は雨交じりの雪。通勤途中に中学校が2つ3つあるのですが,その近くがなぜか渋滞している。色とりどりのおばちゃん(おねえさん?)たちがたむろしていて,今日が公立中学校の卒業式だったことを思い出しました。
 言い方は悪いかもしれませんが,人生ってこんな天気の中を,それでも自信を持って歩いていくようなものなのかなと思います。だから,たまの晴れ間や気持ちの良い陽気がとても幸せに感じられるのかなと。今日卒業された方々。生きていくのに必要なパワーは蓄えられましたか?
 大学の卒業式でも,ここのことろ「おめでとう」という言葉はあまり使わないようにしています。「おめでとう」と言っても,「社交辞令ですが」という付言をつけたりしています。どう考えても,学校を卒業することがおめでたいことと思えないからです。残念ですね,と言うほうが当たっていると思います。学校を卒業された人たちは,学校がいかに甘っちょろいところか(社会を基準にした評価),社会がいかに厳しいところか(学校を基準にした評価),ということは薄々感じていることでしょう。それでもおめでたいのか…
 ご卒業○○,という時に,何がいちばんぴったりくるのかな。「ご卒業残念ですね」はあまりにもネガティブすぎて却下。「ご卒業どうですか?」聞いてどうするということで,これも変。そうか「ご卒業」と何かをくっつけるから変になるんだ,ということで,私的には「ご卒業」は取ってしまって,「がんばれ」だけがいいかな。

■ ぶつぶつ3/2/2001
 3月ですね。3月か…。先日から体調をくずし,気がついたら3月でした。“去る”の3月です。月末には桜が咲いて,散ることには4月なんだろうなあ…。
 ウチの学科長のページに,学科1年生の声がちょっと書いてあります。1年次には専門科目の配置が少ないので嫌になる時がある,ってことです。自分の大学時代も,まだ教養課程が残っていたときなので,そのようなことは感じたことがあります。でも,今は全くそう思わなくなっています。雑学はとても大事だと。
 心理学を学ぶ上で,人を見るということは非常に重要なことです。しかし,心理学をやっていても,人を見る訓練は限られた部分でしかできるようになりません。例えば,高齢者に興味があるという学生の場合でも,80歳の人がどのような社会情勢の中で人生を送ってきたか知らない者がほとんどです。下手をすれば,終戦の時に何歳であったかすらわからないという場合もあります。
 例えば,母子関係に興味があるという学生の場合でも,実際の母子の相互作用をほとんど見たことがない,というケースがあります。メディアを通して流される,極端な母子関係にのみ目が行っている。お昼前くらいに公園に行くと,いっぱい観察対象がいます。
 例えば,教育心理に興味があるという学生の場合でも,授業を受けて「よくわかる」「わからない」でしか授業を評価できない学生がいます。授業の構成をこういうふうに変えれば,もっと分かりやすくなるのにといった分析は,授業評価をしてもらっても,あまり聞こえてきません。
 まだまだ続けることはできますが,あまり面白くないのでやめておきます。ここで言ったこと全てが授業を通して学べるわけではありませんが,本当に自分が知りたいと思っていたら,そこに接近する方法は学内外にいくらでもあります。その時間がもっともあるのが1年生の時でしょう。それらをやってみた後で授業を受けると,心理学はさらに面白くなると思うのですが。何か,口をパクパクさせて,おいしいものが運ばれてくるのを待っているだけの駄々っ子,というイメージが…

■ ぶつぶつ2/23/2001
 確定申告が始まっています。何かとんでもない出だしに見えるのですが,ちょいと税務署まで行ってきました。車がおしゃかになった話は何度も書いたのですが,その件で雑損控除を受けるために質問に行ってきたのです。
 ずいぶん待たされたので,その時に,ある小冊子を見つけました。千種税務署という所に行ったのですが,千種名東納税貯蓄組合連合会会(最後の「会」は余分な気がするのだけど,冊子にはそのように印刷されています)と千種税務連絡協議会がつくっている,「平成12年度 小・中学生の税に関する作品集」というものです。タイトル通り,税についての作文と習字という,お決まりの作品集です。無料で配布しているようなので,気になる方はもらいに行ってみてください(他の地域でも,同じようなものを作っている気がします)。
 目を通していて,まず笑ったのが(失礼かもしれないが),習字の課題でした。小学校5・6年生の課題は,何と「消費税の完納」。この課題のどこに教育的配慮があるのだろう? そうか,将来みんな小売り等の事業を始めて,ぜひとも消費税を完納してくれ,というメッセージなのか…と自分を納得させてみましたが,あたっているでしょうか。(個人的には,それを書いた小学生の中には,それを「おもちゃを買うとき,消費税分まけてよ!なんて言ってはいけないことを意味しているんだ」と受けとめた子どもが絶対にいると思います)
 作文の方は,まず引っ掛かったのが,「うまい!」ということ。大学生のほとんどが,とうてい太刀打ちできないレベルです(カチンときた大学生諸君,一度見てみてください)。勘ぐれば指導者の存在も見えてきます(参加は21中学校,9つの受賞作品のうち4つは同じ中学校から選ばれています)が,そこまで指導できる教員がいることは称賛されるべきだと思います。面白いのですが,この同じ中学校から選ばれている4作品の出だしには,同じテクニックが使われているように読めます。
 内容的には,「やっぱり」というものです。面白みはまったくありません。この選考は,内容ではなくテクニック勝負であったことが推測できます。消費税を廃止せよという議論も,北欧レベルに数十%にするべきだという主張もありません。いかに納税の義務を果たすことが重要か,それがいかに国民のためになっているか,という税金・税制賛美の論調に終始しています。そういうものを選んだのか,そういうものしか集まらなかったのか…。ここでもう一度指導者に登場願うのですが,指導者がテクニック的なもののみを指導していたのならば問題はありません。もし,その論旨にまで手を入れていたならば…,これは怖いことです。
 私自身は,税金というシステムに反対の立場ではありません。去年は申告の結果,足らなかった分を払いました。しかし,累進課税を公平なシステムだとは思いませんし,公共サービスの質と税金の高さが相関関係にあるとも思いません。公共サービスは,一方で困っているまじめな人を助けるシステムだと思いますが,他方で不まじめな人をさらに甘やかしてしまうシステムだとも思います。一筋縄ではいかないのが,税金というものの本質だと思うのですが,そんな影はほとんど見えません。
 ある作文に,「ゴミを減らせば,ゴミ処理にかかる税金は減り,そのぶんは他に使うことができます」という一文がありました。躍らされているなあ,と思います。予算の確実な消化を信条にする,お上の思うツボ。ふつうの生活者のセンスならば「ゴミを減らせば,ゴミ処理にかかる税金は減り,そのぶんを減税することができます」でしょう。
 中学生の作文相手に,何を熱くなってんだか…

■ ぶつぶつ2/17/2001
 定期テストも終わり,また入試も終わりで,学内がガラン(すっきり?)としています。人込みというのは,大嫌いなものの一つなので,私には快適なのですが。
 最近のよく売れている本の中で気になっていた「金持ち父さん貧乏父さん」(筑摩書房)を読みました。ヒットする以前に新聞広告の中で見つけ,それ以来気になっていたのです。「お金のために働くのではなく,お金を自分のために働かせる」というフレーズが,気に入ったからです。で,やっと入手して読んでみたのですが,感想は“危険な本である”というものです。特に,周りを見ながら人と同じように人生を歩んできて,何となく今に満足しつつも不安を感じ,だからといって何かアイデアがあるわけでもない,心臓が弱い40から60歳前後のサラリーマンの方は読まないほうがいいでしょう。今までの自分の人生が崩壊するかもしれません。
 逆に,中学生や高校生,大学生,そして特に中高の先生には必ず読んでほしいものです。「お金」という言葉にアレルギーを感じる人は,それを「人生」と読み替えて,人生についての本だと思って読めばいいと思います。内容的には同じ教訓が得られるはずです。
 この本を読んだ人には,すでに具体的行動に移っていることを期待しています。万の単位で読者がいるでしょうから,10年後の世の中が楽しみです。一応心理学をやっているので,人間の学習能力には多少の期待を持っているので…(ただ,その難しさも知っていますが…)。

■ ぶつぶつ2/14/2001
 やっと入試が終わりました。受験生の皆さん,お疲れさまでした。後は,果報は寝て待て,ということでしょうか。
 十数年前の自分を思いだしてみたのですが,入試が終わった後,何をしていたのか,何を考えていたのか,さっぱり思い出せません。私の大学受験は2年間にわたり,大幅な負け越しで終わりました。だから,「おっし!」と思いながら待っていたときも,「あー」と思いながら待っていたときもあるのですが,そのどちらかを問わず思い出せないのです。もしかしたら,人生においては大学入試なんて,その程度のものでしかないのかもしれません。その後の人生の方が,もっとシビアな状況に直面することが多いような感じがしています。
 受験生達を見ながら,毎度のことですが「そんなに大学に行きたいの?」と感じていました。受験生達は,もし大学に入ったら,もっと(少なくとも受験時の程度には)真剣に勉強するのだろうか? 現状の大学生を見ていると,この問いを肯定することは難しいので(もちろん,全員が,というわけではありません),多分大学生という身分を得るために,これだけ真剣になっているのだろうなあと,ちょっと寂しく思いながら観察していました。
 ぜひ,この私の憂いをひっくりかえすような学生に入学してほしいと思います。そして来年は,違った思いを抱きながら入試の時期を迎えられたらいいなあ。

■ ぶつぶつ2/5/2001
 とうとう入試本番です。受験生はもちろんですが,教員にとっても忙しいシーズンです。本当に,学生時代のゆっくりとした春休みが懐かしい…。天国と地獄(言い過ぎ)の差を感じています。
 さて,この週末はフォトショップにはまっていました。以前,デジカメを買ったことは書いたと思います。いつかはネットで個展開催,なんて夢だけは今も持っているのですが,それはまだまだ先の話。マック利用者だから(?)デスクトップはいじってあるのですが,それにデジカメで撮った写真を張り込んで自己満足していました。それがちょっとした思いつきで,デザインしたデスクトップピクチャを作ろうとしたのが週末。フォトショップの参考書をお供に作成してみました(心理人間学科のHP,プレゼント?を見てください)。
 やってて,これが楽しい。はまってしまいそう(というより,はまった)。教員じゃなくて,デザイナーになればよかった…とは思いませんが,コンピュータってエライ!と思ってしまいました。今度,このホームページ・オリジナルを作ってみようかなあ。 ←そんなもの,誰が欲しい?

■ ぶつぶつ1/29/2001
 べつにぼやきたいわけではないですが,とっても面白いサイトを見つけたのでご紹介がてら…
 それは貯蓄広報中央委員会のページ。なんじゃそりゃ,というくらい私にはなじみのなかった組織ですが,日本銀行情報サービス局が事務局となっている組織のようです。ホームページでの紹介だと,「貯蓄広報中央委員会(貯広委)は貯蓄の重要性を踏まえつつ,国民のより豊かな暮らしづくりを目指して幅広く活動する中立・公正な団体です」ということです。
 発達心理学とか,進路指導とか,生活とかお金に興味のある私にとっては,とっても面白いコンテンツが多くありました。一度ご覧ください。普通に生きている人にとって大事なことが書いてあるような気がします。

■ ぶつぶつ1/27/2001
 昨日,テレビで「もののけ姫」をやっていました。途中からですが,私も見ました。見ながら,有明海のことがオーバーラップしたのは,きっと私だけではないはずです。何てタイムリーな!と思いながら見ていました。
 ここのところ,連日のように有明海のことが報道されています。それらを見ていると,どうも悪人は2種類のようです。まずやり玉に上がっているのがお役人。もう一つは政治家。そろそろ,エーかげんに目を覚ましてよ,と言いたくなります。あれだけのことが,お役人と政治家だけでできるはずがないのです。その裏に,間接的に干拓の利益を受けた人はたくさんいるでしょう。例えば,工事を請け負った会社。もし会社の方針として自然環境との共生とか,人にやさしい,なんてことをうたい文句にしているのならば,あの工事は会社のプライドにかけて請け負えなかったはずです(あくまでも結果論ですが)。でも,あれが完成したということは,それをやった会社があるということです。そして,それで給料をもらっている人は相当な数になるはずです。そして,その給料のおかげで生活できている人が,またさらに多くいるのです。
 もしマスコミがあれを叩くのならば,そこまで突っ込んでほしい。工事を受注した会社のトップに,経営方針とあの仕事の関係を問いただしてほしい。多分,環境アセスの結果がうんぬんと言うのだろう。そうしたら,環境アセスをやった人たちを問いただしてほしい。その人たちはどう言うのだろう。多くの労働者は,会社の仕事だからといった理由であれにたずさわったのでしょう。その主体性のなさも突っ込んでほしい。
 別に,このような報道をしてほしいと言っているわけではありません。役人と政治家をつるし上げて,まるでそこにだけ問題があるかのように騒いでいるのが気に入らないだけです。そこには,もっといろいろな問題が関わってきているはず。それで潤った人(食いつないだ人と言ってもいいかも),泣いた人。それぞれをちゃんと天秤にかけて報道してほしい。役人と政治家以外の一般人は,かれらに振り回されている操り人形みたいに扱われているところがさみしい…

■ ぶつぶつ1/25/2001
 我がMacちゃんの調子が,すこぶる悪い。以前にも書いたことだけど,いろいろと移植手術をしたことがアダになっているのだろうか。キューブを欲しいなあとも思うし,新しいパワーブックもいいなあ。と思いつつ,新型発表で安売り状態になっている現行パワーブックも…
 入試の季節です。先日はセンター入試があり,来月には,南山も一般入試を行います。毎年思うことですが,なんで同じ年齢くらいの人ばかりが集まるのかなあ? おじいちゃん,おばあちゃんから高校生まで,バリエーション豊かに人が集まってきたら面白いのに。個人的に面白いというだけでなく,大学自体がもっと面白いものになると思います。
 おそらく多くの企業は,大学での教育に多くを期待していないでしょう。また大学も,企業で役立つ人間を育てるための教育をしているわけではありません。そんなことは誰でも知っているのに,なぜか高校を卒業したらとりあえず大学へというレールに乗ってしまう。大学では自分の好きなこと(就職とか会社で求められる能力を育むということとは乖離したこと)をやって,それでも卒業したら就職したいという。矛盾…。建て前を振り回してみてもどうにもならないことはわかっていますが,なんとも言い難い気分になるのがこの入試というヤツです。
 そこで提案。年齢を問わず,学問に飢えている方,大学受験を考えてみませんか。矛盾をとく一つの案は,後先考えず,学問に飢えている時に大学に行くことだと思います。打算的に考えるから,大学で学ぶということがあやふやなものになるのです。一般入試だけでなく,編入学,科目等履修生などという制度もあります。いかがでしょう。大学には飢えを癒すエサがたくさんありますよ。(何か,文章自体がしっちゃかめっちゃか…)

■ ぶつぶつ1/19/2001
 最近,ある会社の宣伝が気になっています。「黄色い…」とか「はじめての…」という消費者金融のヤツです。そんなに簡単にお金を借りられて良いのだろうか? 当然,貸す方は,貸してナンボだから,どんどん貸すんだろうけど…
 これらのCMは,間違いなく若者をターゲットにしています。私のような30代を相手にしているとも思えないし,中小企業の社長なんて,まったく相手にしている気配は感じられません。おそらく20代を中心とした,フリーター,サラリーマン,OLとかといったあたりでしょう。年齢層的には,それほどお金に困っている層とは考えにくいところがあります。もしかしたら,最も金離れの良い(自由になるお金を持っている)層なのではないでしょうか。なぜ,この層へ向けてCMを流しているのか,今一つ私にはわかりません。でも,何か怖いものを感じるのです。
 ということで,ちょっと会社のHPを見てみたのですが,ローンよりキャッシングの方がかなり利率が高い! ローンだと年率10%台だけど,キャッシングだと20%中ごろ。ターゲットが若い層だから,教育ローンを組むなんてことはないし,それよりもキャッシングの方が会社にとっては儲かる。でもって,金銭感覚の鈍いやつを相手に小額を貸して高利で儲けようって腹なんだろうなあ。小額だから,踏み倒されるってことも少ないだろうし(?)。金に困ることを最も知らない,借金にウブな層にターゲットを絞った,と私は見ているのですがいかがでしょう。
 でも,ちゃんと年率20%以上って書いてあるのに,それでも借りるやつがいるんだということは不思議でなりません。来年130円になるものを,今100円で買うというのはわかるのだけど…どうなってんだか? ATMから笑顔で出てくるCMを見ていると,何かゾッとしてしまうのは私だけでしょうか。

■ ぶつぶつ1/10/2001
 完全に逃避モードです。やらなければならないことは山のようにあるのですが,どれに手を付けてもすぐに止まってしまう…。中学生や高校生の頃にもこんなことがあったなあ。受験を前に,私と同じような状況にある方,今のうちに直しておいたほうがいいですよ。きっと社会人になってから困るから!
 今日は,今年度最後のゼミでした。4年生にとっては大学生活最後となるはずです。そこでもちょっと話したのですが,人間という生き物はよくできたもので,誰でも,反省と抱負を口にすることができます。私もその一人です。ですが,反省し抱負を実現できる人は,ほんの一握りしかいないようです。ほとんどの人は,口にするだけで終ってしまいます。そしてまた次の時も,同じようなことを繰り返すのです。人間は,本当に賢い生き物なのでしょうか。
 私的なことですが,年末年始に実家に帰ったとき,家計簿をつけている母親とこんな話をしました。家計簿をつける必要はあるのか。母親いわく,つけていると反省できるではないか。反省してどうするのか。修正するのだ。では修正しているのか。どうしようもないこともある。どうしようもないなら,家計簿をつける時間だけ無駄ではないか。でも,反省することは必要だろう。… という循環になってしまいました。
 私は,反省することや抱負を語ること自体には,まったく意味がないと思っています。立派なことを言って実行しない政治家は,ボロカスに攻撃されます。でも,攻撃する人の多くはそれと同じことをやっていると思います。自分も含めて。今年は,少しでも有言実行に近づけるように!

■ ぶつぶつ1/6/2001
 あけましておめでとうございます。21世紀です。だからどうした,という気もするのですが,よい機会なので私なりに21世紀予測なんてやってみておこうと思います。でも,あと100年は到底生きていないから,どれくらいあたっていたのかはわからない…。まあ,知らないほうがいいような気もしますが。
 まず,世界情勢。戦争…なくならない。貧困…なくならない。病気…治らない病気は少なくなるだろう。特に前2つはあまりコメントしたくないというか,自分自身あきらめモードにあるものです。少なくとも,軍事産業が存続するかぎり戦争は無くならないと思うし,お金という概念があるかぎり貧困もなくならないと思っています。そして,個々人のもつ情報が豊富になればなるほど,戦争の危機や貧困は深刻になり,かつ緩和されるのだろうと考えています。何かを根本的に変えなければ,特に2つの問題はどうしようもないままに存続していくのでしょう。そして,その何かを変えられるほど人間は賢くない(というか,あきらめの悪い)存在だと思っています。100年では無理じゃないかな。
 あと,国という概念,国という単位の役割が変化していくことは避けられないかな。国際○○なんてものは流行らなくなって,地域○○とかが重要になっていく,そして最後は個とか小集団と世界の関係の構図がメインになっていくような気がします。
 次に,日本について(日本について,なんて書くと先に書いたことと矛盾するのだけど,今はこの図式の方がわかりやすいので使っています)。まず総中流の崩壊と貧富の拡大。たぶんこの方向へ進むのだろうと思っています。この傾向が,行き過ぎることは危険だと思いますが,合わせて貧富層間の流動性が高まれば,今よりはましな世の中になるかなという希望もあります。
 それから,個(年齢不問!)の自立。これはどうしても必要になっていくのではないかと思っています。国や地方自治体,会社など,これまでは自分を守ってくれると思っていた存在(サービス)の不確かさがはっきりしてくると,どうしても自分を自分で守らなければならなくなるでしょう。武装するというわけではなく,身の回りのいろいろなシステムから独立し,かつ自立的にそれらのシステムに関わっていかざるを得なくなると思っています。教育もまた同じ。この方向へは,個人的にとても期待しているのですが…どうなりますか。
 おまけで…心理学の世界はというと,臨床心理学バブルの崩壊,続いて生き方(心理)学の隆盛と崩壊,その後心理学は再びマイナー領域へ,と変化していくのではと思っています。これは簡単な話で,自分や社会の不安定さから,その解決を臨床心理学にもとめているのが現在(たぶん)。それが臨床心理学のカバーする範囲ではないと悟った者たちが,次に生き方(心理)学(私が勝手に作った造語です。生涯発達心理学を主体に,臨床心理学,産業組織心理学,コミュニケーション学,家族学,哲学,社会学,教育学,経済学,医学,栄養学,人類学,宗教学などを人生設計という目的の元に“高次で”結合したもの。)へと流れる。そしてその頃(私は退職/もしくは転職を迎える時期)には個の自立が一般化し始め,多くの人は自らの決定の元に手段的・方法論的性格の強い学問領域を希望するように変化していく,というシナリオです。心理学はというと,それでもマイナー領域として生き永らえていくのでしょう。
 さて,いかがなるでしょうか?良い意味で,予測があたる,もしくは外れる世紀であってほしいと願います。