ぶつぶつ(2000年)

…単なる独り言…

■ ぶつぶつ12/29/2000
 さて,年内最後です。嵐も一段落し,次は年明け早々におとずれる予定。予定というのも変な話なのだけど…。わかっていたら,先に対処しろという声も聞こえてきそうですが,これがなかなかうまくいかない。そんな人間にできているのだから,甘んじてそれでいこうと開き直ってみたり…
 「庶民がお金もちになるには,宝くじに当たるか,銀行強盗でもするしかないよね」と私に言った人がいます。ハハと笑っておいたのですが,内心,何とも言えない気分でした。果たしてそうなのか。絶対にそうではないに違いない,チャンスはあるに違いない,と思いたい …。
 どれくらいの資産がある人をお金持ちと呼ぶのかはわからないけど,とりあえず「お金持ちになるのは無理だ」と思って何もしない人は絶対に無理でしょう。何とかしようと思うと,稼ぐか,貯めるか,殖やすか。サラリーマンの生涯賃金なんかが話題に出ますが,2億数千万とかといわれているので,貯めるのはかなり難しいか。としたら,それ以上の稼ぎができる仕事をはじめる/探すか,殖やすかという選択肢がのこる。ネット上の計算システムを使ってシミュレーションをしてみたのですが,月々3万円ほどを積み立て,それを年率50%で運用すれば,何とか10年で1億を作ることができるようです。うーん。アルバイトでも月々3万円を稼ぐことは難しくない。株とかであれば,年率50%の運用は机上では不可能な数字ではない。ということは,不可能ではない…か?(銀行強盗よりも倫理的によいし,成功の可能性も高いのではないか?)
 どう考えてみても,難しいことにはかわりがなさそうです。でも,“人並み”とか“周りと同じように”なんてことではどうしようも無いことだけははっきりとしていると思います。人生“守って(人並みを目指して)”庶民的にいくか,“攻めて(リスクをとって)”目指すところにたどり着こうとするか,このあたりの意識と行動で違いが出てくるのでしょう。でも,お金持ち(必要以上のおカネを持っている人)になる必要はあるのかな?(といいつつ宝くじを買いそこねた私)

 よいお年をお迎えください。

■ ぶつぶつ12/27/2000
 あと何日…。ますます危機的(世紀末的?)状況になってきました。もういくつ寝ると,ではなく,もういくつ仕事が残ってる…。
 寒いです。冬休みになってから,急に寒くなりました。クリスマス(イブではない)には雪も。そして研究室も寒い。以前,ゼミ生にもらった扇風機を活用し始めました。なぜなら,エアコンの吹き出し口が,机の真上にあるんです。そして暖かい空気を,なぜか主も誰もいない出入り口の方へ向けて吐き出しています。なんちゅう設計をしたのだ!と言ってみても仕方がないことですが。暖かい空気は,部屋を一往復して,十分に冷やされてから私の足下へ…。寒いわけです。
 これはいかん!ということで,扇風機を設置。強制的に暖かい空気を私の元へ送り届けるように調節し,フル稼働してもらっています。でも…,普通サイズの扇風機じゃなくて,ちっちゃいヤツなんで,頑張っているんだろうけど効果が薄い。何か年末にジタバタしている自分を見ているようで,何となくわびしさも漂っています。
 今年は,何ができたか? 何ができたか? 何ができたか? 何ができたんだろう…

■ ぶつぶつ12/19/2000
 あと何日残っている…。もう今年も終わり。年賀状が…。毎年のことなのだが,結構後回しにされてしまうもの。軽んじているわけではないのだけど。
 久しぶりに,「大学院のことなど」をいじってみました。いじったと言っても,リンクを2件追加して,その紹介コメントを3行ほど書いただけなので,数分の作業だったのですが。
 私の後輩のHPを紹介しています。かれらの日記の部分を読んでみるというのは,大学院生の生活を知らない人にはいいのかなと思ったからです(かれらの生活がとてもいい,と言っているわけではなく,かといって,ダメな例として挙げているわけでもありません。価値判断はひかえて,あくまでも一つの例として紹介しているだけです。)。大学院の設置が全国的に進んで,院生という身分も珍しいものではなくなってきていると思います。でも,なかなか生活の中身を知ることは難しいのではないでしょうか。
 私の院生生活も,それを語ると多くの人が“二十歳も後半になって,なんて生活をしているの”と言いたくなるようなものでした。昼前に起きて,学校へ行って,昼飯を食って,ぶらぶらして,夕飯を食って,仲間としゃべって,9時10時に帰宅して,テレビ見て,仕事して,2時3時に寝る。うーん,どう見てもまともじゃない。博士課程(後期課程)だと,週に1,2くらいしか授業はないので,授業数を勉強している指標にもできない。のんびり,ゆっくり,適当にやってます,としか人には説明のしようがないのです。
 大学院なんて,そんな生活の中で,やりたいことをやっていく時期だと思っています。自堕落に過ごしたければ,それも可能な世界です。それに流されず(流されたら終りなのですが),自分の中の悪魔と天使のささやきを聞き分けながらやっていくという,なかなかのシビアな世界なのです。でも,どう書いてみても,そのシビアさはうまく表現できないんだよなあ…

■ ぶつぶつ12/15/2000
 土日に家にいると,時にセールスの人がやってきます。やる気のある人(こちらにとっては単に困った人でしかないのですが),何となくやる気のなさそうな人(すぐに帰ってくれるので楽),いろんなタイプの人がいて,それなりに面白いのですが,確かにうっとうしい存在ではあります。
 話を聞いていると,時に反則ぎりぎりのトークをする人もいます。一見すると特殊法人とか公団ともとれるような名前を名乗り,今度このあたりで一斉にこの設備を装着してもらうことに“なりました”。ついては“設置させてください”というのがありました。こちらが,支払いは誰がするのか,設置は任意なのか,などと聞くと,だんだん口ごもりはじめ,それではまた,ということになりました。汚い(巧妙な?)言い方をするなあと思ったことがあります。お上が決めたような言い方をして,設置させろと言われると,“お上が決めたことなら”と思い込んでしまう場合もあるでしょう。
 またトークの切り出しとして,「土日はお休みなんですか?いいですねえ」なんてことを言う人もいます。家にいたら“休み”なんかい! 土日に急ぎの原稿なんかを書いているときは,特にムカっときます。原稿が進まないときや,一人で熱くなっているときなどは文句の一つも言ってやりたくなります。いい大人なんだから,そんなことはしませんが。「今日はお休みなんですか」だけでいいじゃあないの。それに「いいですねえ」という言葉がつくのは,社交辞令ともとれますが,「私は働いているのに,それに比べ休んでいるあなたは…」という意識があるからとも考えられます。それがあなたの仕事なんだから,そんなこと言うなよ。
 セールストークは難しいと思います。社会心理の中に,そのような研究領域もあります。この間は,ドアを開けたら,閉められないように足を入れてきたふざけた新聞勧誘がいました。フット・イン・ザ・ドアー・テクニックということもできそうですが,単に無礼なバカタレとしか思えない! つまらん“人”より“ モノ”の方がうれしいなあ。先日,石鹸の試供品が入れてあったけど,こんなものなら歓迎するのに。

■ ぶつぶつ12/11/2000
 一人暮らし歴も,大学に入ってからですから,もう10年を越えてきました。やっとこの生活ともお別れです…と続くのではなく,私の生活の中で,今もっともヒットしている商品をご紹介しましょう。前々から紹介したかったものなのです。
 それは“砥石”。“といし”です。包丁やナイフを研ぐときに使うアレです。これが,なかなかいい。一人暮らし歴は長いのですが,料理をする頻度は就職してから増えました。当然(?)万能包丁一本でやっているのですが,これまた当然使っていると切れなくなるわけです。鳥の皮を切るのに四苦八苦し,刺し身用のゆでダコを買ってきたときなど,そりゃあもう大変です。ということで,一念発起して砥石を買ったというわけです。
 以前,まな板に貼って使うようなサンドペーパーのようなものを使ったことがありました。またお店には,切れ込みに刃先を入れて引くことによって研ぐようなものもあります。でも,少々のことでは切れ味が戻りそうにないので,本格的(?)な平砥石を買いました。中学校時代の技術家庭科を思い出しながら,それを使ってゴリゴリやること数回。コゲが無くなり,切れるようになりました。ついでに手の方も2回ほど切ってしまいましたが…。これでしばらくは使い続けられます。
 包丁を捨てるというのは,何となく気持ち良くありません。私だけかもしれませんが,誰かがこれを拾って,どこかで事件を起こして,そこから私の指紋が出てきたら…なんて,テレビドラマの見過ぎのようなことも考えてしまいます。ネット上を見ていたら,包丁の供養祭のようなものもあることがわかりました。こうなったら,末長く付き合ってやろうと思っています。ただ,ステンレス製は研ぎにくい!
 このようにリサイクル時代の最先端をいくような砥石です。ただ,使い方には気をつけたほうがいいようです。夜な夜な包丁を研ぎ,試し斬りなんかをしてニヤっとしていたら,何か危ない人みたい…。

■ ぶつぶつ11/30/2000
 気がついてみれば(というか完全にわかってはいたものの,やはり)11月も終りです。今月は,どうしようもなくせわしかった,というのが感想です。せっかく買った車なのに,まだ300キロくらいしか乗っていません。大学と家の往復くらいしか乗ることができない…
 などなど忙しいとぼやきながらも,新しい企画を始めました。趣旨は,飲みながら研究についてのたまってみよう!です。思いついたときは,なかなかのアイデア(飲みながらって公表しているし,期限もないし)だと思っていました。実は今掲載しているもの以外にも,2編ほどは書いてあるのですが,ちょっと失敗したかなと思わなくもない事実が浮かび上がってきました。その一つは,就寝時間が遅くなること。A4で1枚ちょっと(1300字くらいかな)くらいの字数を考えているのですが,書き始めるとけっこう時間がかかるのです。うまくいっても1時間くらいはかかります。
 もう一つは,1時間以上もうーんといいながら飲んでいると,結構な酒量を消費してしまうこと。これでいいか,ということで立ち上がったら,アララ…ということにもなってしまいます。書きながら飲んでいると,頭はさえているような“気がしている”のですが,その他の身体器官は酔ってしまうみたいです。
 できれば,学部生やこれから心理学の研究をしてみたいと思っている高校生・社会人の人に読んでもらえたらいいなあと思っています。現在,私のページをのぞいている人には,院生が多いような感触がありますので,新規読者の開拓となりますかどうか?
 それから,これを読んでいる方で,もうちょっと時間がありましたら心理人間学科のHPものぞいていってください。運営上の責任者として,伸びないアクセス数に頭を抱えています…。そんなにつまらないものでは無いと思うのですが…

■ ぶつぶつ11/28/2000
 先日テレビを見ていて,無性に腹立たしく感じたことがあります。それは何の番組だったかは忘れてしまったのですが,「亭主がバカに見えたとき」とかなんとかのアンケートをとっただの,主婦の覆面座談会をやって,亭主のバカさ加減を話させるだの,企画者のバカまるだしの番組でした。テレビというメディアに関わらずですが,報道内容を相当にしっかりと内容を判断しないと,こっちまでバカになってしまいそうです。
 今一つ,私にはわかりかねるのですが,自分の妻や夫,家族のことを,そんなに簡単にバカだと言えるものなのでしょうか。私の家族は,賢いとは言いがたいと思いますが,各人それなりに生きていると思います。近しい人たちの間で酒の肴にすることはありますが,外に向かって堂々とバカだとは言いませんし,そんな気持ちにもなりません。覆面であろうと無かろうと,それを言う気にはなれないのです。家族以外をバカだと攻撃することの方が,私には簡単です。
 覆面座談会で亭主のバカさ加減を暴露していたおばさんたちは,自分のことはどう思っているのだろうと疑問に思います。そんな亭主を選んだ自分のバカさ加減を呪っているのでしょうか。それとも,われ鍋にとじ蓋でちょうどいいと思っているのでしょうか。その話を聞いていると,バカ丸出しの似た者夫婦にしか聞こえませんでした。そして,こんな夫婦の間には子どもがいないことを祈るのみです。
 私個人は,家族絶対主義者ではありません。しかし,家族をやっている間は,というか家族であるという認識がある間は,家族のメンバーのことを外に向かって悪く言うべきではないと思います。グチる相手と場所はわきまえておくべきだと思います。それができない人は,家族としての権利や立場を利用する(例えば,「私は夫だから…してもよい」とか,「あなたは夫なのだから…しなければいけない」なんてことを言ったり思ったりすること)に値しないと思います。なぜなら,集団のメンバーとしてのモラルが欠如しているため,メンバーに値しないと思われるからです。
 家族なんて,しょせん他人の集まりです。親だから,子どもだから,血がつながっているから,なんて言葉では到底押さえ込むことができないような問題が出てきます。だからこそ,家族内の暗黙の了解を守ることが大切だと思うのですが。

■ ぶつぶつ11/25/2000
 最近にしては珍しく,久しぶりの更新になりました。別に寝込んでいたわけでも,なんでもないのですが,単にどうしようもなくバタバタしていたためです。車が納入されたのに,遊びにもいけない…と思いつつ,今日は推薦等々,いくつかの入試日でした。朝から,試験監督をやりその後の様々な仕事をこなし,やっと一息です。受験生の人もそうでしょうが,入試をやるほうも疲れるのです。
 英語の試験監督をしながら思ったことがあります。それは国際人について。外国人と会ったときに,「遠いとこからこられましたね(各地の方言で書くと味わい深いはず)」と日本語(それも方言)で話しかけるおじいちゃんやおばあちゃん(私のイメージの中では,ですが)と,とりあえず英語で話しかけてみようとするちょっと英語ができる若者。この2人のどちらが国際人なのか? そんなことを考えていました。
 このように書けばあたり前のことですが,私は後者が国際人だなんてこれっぽっちも思っていません。日本に来ている外国人に,なぜ英語(や諸外国語)で話しかけようと思うのか? 私的には,これはなんとなく田舎者根性のような感じを受けます。標準語と方言の関係にも通じるところがあるように思うからです。それよりは,堂々と(というか,その言葉しかしゃべられないからかもしれませんが)自分の言葉でコミュニケーションにチャレンジしているほうが,よほど清々しいし,思いを伝えようという気概が伝わってくるような感じがするのです。そのような人の方が,世界を相手に,自分の位置を見失わずに対応できるのではないかなと思っています。
 英語ができない開き直りの部分も多々ありますが,国際人という意味では,自国の言葉をどのように使うのかという点が厳しく問われるような気がします。HPでJapanese onlyと表示してあるものを時に見かけるのですが,多くの場合それに加えてSorryという言葉が付けられているようです。何で?と思うのですが,日本人らしい謙遜なのでしょうか。それとも…

■ ぶつぶつ11/9/2000
 最近,教員食堂ではなく学生食堂で昼を食べることが多くなりました。そっちの方が研究室から近いのです。当然いろんな学生がたむろしているのですが,小奇麗なやつ,小汚いやつ,好感が持てるやつ,嫌悪感をもたせるやつなど様々です。意図的にそのようにしているのだろうなあとぼんやり考えつつ…
 私は,外見で人を判断します。積極的に外見を判断材料にしています。時に,外見で人を判断してはいけない,なんて個性を無視した発言にも出会いますが,そんなものは無視しています。また,外見で人(私)を判断しないでほしい,なんてたわごとを言うケースにも出会いますが,なんでそのような言い方になるのか理解に苦しみます。
 なぜ外見を判断材料にするかですが,外見をつくることが個性を発揮する手段の一つだと思っているからです。もし葬儀の場に赤い服で来た人がいても,私はそれを個性の発揮だと思います。この人は,こういうふうにして自分を人に見せようとしているのだなと理解してあげます。そして,自分の基準に照らし合わせて,そのような個性の発揮の仕方をする人とはつきあいたくないなと結論するでしょう。学生には髪を染めている者も多いのですが,髪の色や顔のつくり,服装など全体として好感がもてる者もいるし,どう考えても“似合う”を無視しているとしか見えない者もいます。前者は前者なりの評価を,後者は後者なりの評価をします。似合わなくても,これが個性だと主張するのであれば受け入れますが,この個人に対する私の基準からの評価は下となります。
 お金がなくて,意図的に外見をつくれないという場合もあるでしょうが,それはそれで,その人のある一面を正確に表現しているのですから,外見で人を判断することが間違っていることにはならないでしょう。ただ,外見は人の一面しか表していないことには注意しているつもりです。けれども,外見を無視した人物評価の方が,外見込みの評価よりも優れていることにはならないはずです。ちゃんと外見を見て,それに対する評価も加えながら判断することが理にかなっているはずなのです。

■ ぶつぶつ11/6/2000
 まずは業務連絡。教育学科95生の人がいたら,私のゼミ生,稲垣・井上の両名によろしく伝えておいてください。伝言は見たと。私,両名のアドレスを知らないんです。
 自転車通勤も長くなってきました。ただ,先が見えはじめたことはうれしい。人間の身体ってよくできたもので,最初の1週間くらいはかなりのしんどさがあったものの,最近はなんともなくなってきました。これでは「いい運動」にはなっていないだろうと思うのですが,かといって無理に負荷をかけようという気にもなりません。特に朝はそれからの仕事があるので,それなりの気合いしか入れられないというのも事実です。運動は運動で,別にやるべきなのだろうと思います。
 それから,自転車に乗っていて,自動車を運転する一部の人間に対してますます腹が立ってきました。最も腹が立つのは,一旦停止無視で出てくるヤツ。時にあるのは,こっちを見たはず(こちらは顔がこっちを向いたと判断する)の車が,何もいなかったかのように出てくることです。これはかなり恐い。交通弱者優先というルールを知らないのだろうか。それから,無意味に横断歩道の上に停車するヤツ。おまけに,携帯片手にヘラヘラしてるときもあったりして。「てめえなんぞ,事故して死んじまえ(言い過ぎ)」などと過激なことを唱えながら,また一生懸命に軽べつのまなざしを注ぎながら通り過ぎています。
 私は,車も,単車も,自転車も,歩行者も経験しました。その結果,どの立場にいても,「そこにいる自分が一番」という意識が私にはあることが確認できました。「私が一番」だから,車の時は歩行者に「ほどこし」をしてあげよう,つまり先に行かせてあげよう,という気になるようです。こう書いていると,なんて人間なんだろうと思ってしまいますが…

■ ぶつぶつ10/31/2000
 寒い。ここのところの気温の低下で,自転車はかなり寒い。手袋をはめて,耳当てをして通学していた中学,高校の頃を思いだしてしまった。車がきたら,自転車通勤はやめてしまいそうな予感が…
 何か,えらい勢いでアクセス数が増えてきています。えらい勢いとはいっても,40/日が50/日,60/日へというくらいですから,数万/日といったサイトと比較しているわけではなく,私の中にある“こんなもんかな”という基準からの感想です。60/日ということは,1週間で420ということです。私が今期に担当している授業の登録学生は,全てのコマを合わせても400に足りません。となると,一週間に顔を合わせる学生よりも多くの人数がこのページをのぞいているということになる…。うーん…
 そして,この増加が何によるものかが全くわからないことも,ちょっと不気味であったりします。たまに検索サイトなどでリンク状況を確認したりするのですが,これといってリンクしてくださっているページが増加しているようにも思えません。やっぱり不思議な現象だ…
 ということで,私のページを掲載・批評・リンクして頂いているサイトをご存知でしたら教えてください。

■ ぶつぶつ10/23/2000
 新しい車,決定。しかし,ハンコを押してからも悩むことしきり…。やはり意思決定は難しい。
 先日,「大学崩壊!」(川成洋:宝島社新書)という本を読みました。やっぱりそんな大学もあるんだ,と思いながら読んでいました。どれくらいの割合で,そのような「愚者の楽園」的大学があるのかは理解できませんでしたが,学生がそれで被害を受けているのなら早々に潰れてしまう時代になるのでしょう。学生に実害が無ければ,それはそれでそのままなのかな。
 この本の最後に,有力大学では入試科目を「英数国理社」の5教科にすべきであるという提案があります。大賛成。こう言い始めると,高校生に負担が…なんて言い出す人もいるでしょうが,そんなことは,勉強する生徒の将来を考えていないとしか言い様がないことです。負担になっても大学でやりたいことがある人が勉強し,入学すればいいのです。まんべんなく勉強しておくことは,大学に入ってから(社会に出てから,かな)こそ必要なことなのです。特に心理学では,英語,国語,社会(世界史)なんかの知識だけでは,全くもって不足です。例えば,数学的な理論構成はもちろん,今生きている人たちの心理を理解しようとしたとき,その人たちの生きてきた時代背景(戦後の日本史)がわからなければ,その理解は無理なのです。ときにベクトル的な図などを使うこともありますが,そんなときには「高校でやってないのでわかりません」という学生が出てきます。高校で勉強のチャンスがなかったことに対して,かわいそうだなと思います。
 高校によっては,大学の入試に合わせてカリキュラムを構成しているところもあります。高校としてのプライドは無いのかな,と思ってしまうほどに特化しているところもあるようです。大学入試はよく社会問題になりますが,それに合わせて動いている高校は,あまり批判の対象にならないようです。大学入試の犠牲者のようにとらえられていることもあります。これは,多くの人が,高校をそのようにしかとらえていないことの裏返しなのでしょうか。「いい高校」って一体?

■ ぶつぶつ10/16/2000
 入院していた車は,開腹手術の結果,エンジンとミッションをやられており,修理費に200万以上,上はわからないということが判明したそうです。私がお金持ちならば,愛着もあるため修理をお願いするのですが,上限がわからない中での修理はとってもつらいのが現実です。泣く泣くの廃車です。水たまりは,行けるかな,で突っ込んだらしっぺ返しをくらいますよ。
 「あのとき,あのようにしておけば…」というのは,生きていればどうしてもついてくる負の感情だと思います。今回も,水たまりにつっこんで,やばいかなと思ったときに引き返しておけば,ここまでにはならなかったのに…と思います。前にそう思ったのは何のときかな,と思い返してみたのですが,いくつかは思い当たりましたが,いくつかというレベルでした。数えきれない,というわけではないようです。幸せな性格なのかなとも思います。
 人生において,全てのリスクを前もって回避できるようにはなりません。どれほど理性的で合理的にリスクを考えても,たぶん無理でしょう。保険などという手も,そのもの(例えば身体の健康や,今回であればその車)を保証してくれるわけではありません。そう考えれば,リスク管理と同様に,幸せな思考回路を持つことも大切なのだと思います。以前から,“上手な妥協”とかあきらめには関心があるのですが,研究するとなるととっかかりがないんですよね…

■ ぶつぶつ10/10/2000
 8月11日付けでも書いている,青年心理学会での発表を胃が痛くなりながら終えました。思いのほか多くの方に聞きに来ていただき,感謝しています。途中から睡眠体勢に入った方もそれほど多くはなく,それなりに話ができたかなと思っています。原稿は,「研究など」の中に掲載しておきました。
 学会を通して,心理学のことよりも,教師としての自分のあり方みたいなものを考えていました。教育理念と言い換えてもいいのかもしれません。私なりの考えですが,現在は,教員は優しすぎ,社会は相変わらず厳しいと認識しています。そして,親はどっちつかずの中途半端なところで混乱している。
 以前,小学校の先生と話をしたことがあり,その時に,「どうして中学校に行くと子どもたちがああなってしまうのだろう」と嘆かれたことがあります。例えば,中学校に行くと生徒が先生のことを(先生の目の前ででも)ニックネームなどで呼ぶ。小学校では,まずない。中学校で先生のことをニックネームで呼んでいる子どもも,小学校の先生であった私のことは○○先生と呼んでくれる。そんなふうなことでした。私は,これを正論だと思います。時に「先生」という呼び方は,権威や上下関係を強いるものだという議論も聞きます。私は,そのような議論をすること自体が権威主義や上下関係に捕らわれている証拠だと思っています。「先生」は,役割に付けられた呼称だと自認しています。「さん」ならば,まだ譲歩してもいいかな。社会でも通用するから。それから,プライベートな場面とパブリックな場面を意識して使い分けられれば,「先生」とニックネームの使い分けも可だと思います。場面も役割も何も分からず,ただ親しそうに思えるからニックネームで先生を呼ぶことを認めているのであれば,厳しい社会に出ていく子どもたちを育てているとは感じられないのです。
 言い方は変かもしれませんが,子どもたち(もちろん大学生までを含みます)を見下した教育をしてはいけないと思います。自立を妨げるような教育ではいけないと思います。「大目に見る」ことが行き過ぎた教育ではいけないと思います。現在に安住する教育ではいけないと思います。そんなことを考えていました。

■ ぶつぶつ10/6/2000
 8月から続いていた微熱もなんとか下がり,検査の結果も異常なしということで,何かよく分からないままに体調不良がおわりをつげそうです。でも車の方はまだ入院中。すでに2週間も自転車通勤を続けています。足の方が,それに慣れてきたと感じる今日この頃。
 先月来,30冊強の新書に目を通しました。本は資料だと思っている私にしては,非常に多い読書量です。3,4時間で読み終えることができるものあり,けっこう時間がかかるものありで,内容もそうですが,書くという行為の出来栄えも気になりました。はっきりと,読みやすいものと読みにくいものの差を認識できました。途中で読むのをやめてしまったものもあります。
 新書ですから,それなりのレベルの文章になっていると思うのですが,ものによってはついていけないものがあったりします。もう少していねいに書いてくれたらいいのにとか,もう少し段落構成をきちんとしてくれたら読みやすいのにとか。ひとつは,章番号や節番号があるのに,どこから読んでも一緒じゃないと思うようなものもありました。仕事として文章を書く者の一人として,気をつけなきゃと思います。
 おそらく多くの人は,本を読んでいて,読みにくいとかよくわからないといった場合,自分の読解力のなさや知識不足を責めるのだと思います。わがままな私は,読めないようなものを書くほうが悪い,なんて思ってしまいます。本当に自分勝手だなと思うのですが…。だからこそ,自分で書くときにはわかりやすものをと気にしています。読者のレベルを見下している,とも言われかねないのですが。

■ ぶつぶつ10/2/2000
 はなまる第2弾。先日は,株の話が出てきていました。「ホー,はなまるで株ねえ」と思って,またちょっとですが見ていました。
 どうも「株」というと,「お金持ち」「ボロ設け」とか「投機」「破産」というイメージがつきまとうようです。銀行にお金を預けていることは清廉潔白で,株をやることはダークなイメージにとられるようです。でも,どうもおかしい。「会社四季報」など就職活動にはつきものの本がありますが,それを見ていると,多くの会社の大株主として有名銀行の名前が出てきます。銀行は,市民(だけではないですが)からお金を預かって,それを運用して利益を出し,その一部(!!)を利息として還元してくれているといっていいでしょう(たぶん)。その運用先の一つとして,株式市場があることはどう考えても事実でしょう。ということは,銀行にお金を預けているということは,間接的に株に手を出しているということになるのではないでしょうか。
 銀行については,言いたいことが一杯あります。言いたいことというよりは,理解不能なことと言った方が正確かもしれません。先日もゼネコンに対する債権放棄(簡単に言えば借金の棒引き)がニュースに出ていましたが,ちょっと待ってよ,という感じです。かたや借金の踏み倒しを認めておいて,我々にはミミクソ(言葉が悪い)のような金利で我慢せいってか? 「本社ビル売ぱらってでも借金返せ!」と言って欲しい(多分中小企業や個人にはそう言っているのではないか)。ドラマに出てくるサラ金がするような,「金返せ」なんてビラを本社の入り口に貼り付けるような行為も個人的には認めたい(法的にはどうか知らないが)。また,それをやらないところが白々しい。少なくとも,「私が悪かったんです」という勇気ある責任者をはっきりさせて。責任を持つ人だから責任者っていうんじゃないの。役職者は単なるお飾りなのか?(ここでは,個々の行員が悪いと言っているわけではありません。組織が悪いと言っているのです。あしからず。ただ,個々の行員が襟を正さないかぎりどうしようもないのでしょうが…)
 ということで,銀行には期待もなにもしていない私です。某銀行では,バカおやじの態度にキレそうになったし(窓口の女性たちを見習え!)。大切なものを預ける気にはならない。でも,定期預金の金利が5%になったら考え直すかも…(言いすぎたかなと思う小市民)

■ ぶつぶつ9/29/2000
 自転車通勤を何日か続けると,お尻が痛くなる。ママチャリの柔らかなサドルが恋しかったりして。さらに,自転車に乗っていると考え事も多くなるようです。血の巡りが良くなって,脳も活性化するのかな?
 ちょっと前は,朝ちらっと見た「はなまるマーケット」のことを考えていました。お父さんは子どもに甘い,ということを街頭インタビューで集めていました。その解釈として,お父さんは子どもと触れ合う時間が少ないため,ただでさえ少ない時間の中で子どもといざこざを起こしたくないと思っているのではないか。そのため,必然的に子どもに甘くなるのでは,ということでした。解釈としては正当なものだと思います。でも,お父さん(別に父親に限ったことではないですか)ってそれでいいのかなあと思います。子どもを叱れば気分は悪いし,褒めれば気分が良いでしょう。でも甘やかすってことはどうだろう。「僕は子どもを甘やかしているんだ」と思って,それを楽しめるような親らしくない親はいないはずです。
 少しうがった考え方かもしれませんが,日ごろ子どもをかまってやれない負い目が,甘やかしにつながっているのではないかという解釈もできます。懺悔とか贖罪の気持ちの表現ではないか。「私は私の教育方針として甘やかしているのだ」と胸を張って言える人はそれでいいでしょう。でも「甘やかしてはいけないと思うけど,日ごろかまってやれないから今は甘い顔をしているんだよ。おまえ(子どものことです)もそのことは分かってね」なんて心の底では思っている。子どもを甘やかせているふりをしながら,実はとっても自分を甘やかしている人は問題外でしょう。
 こんなことを書いていると,「あなたはお子さんをおもちですか?」と尋ねたくなる人もいるのでしょう(実際,尋ねられたこともあります)。それで「いません」と答えると,「それじゃあ,実際に子どもを持つ親の気持ちはわかりませんよ」なんて言いたくなるのではないでしょうか(実際,言われたこともある)。そう言いたくなる気持ちはわかりますが,言われているほうは無性に腹立たしいのです。どこから考えても,子どもではなく,自分をかわいがっているとしか考えられないからです。

■ ぶつぶつ9/25/2000
 入院した車,経過が良くないそうです。出費もかなり…。車両保険をかけておけばよかったとも思うのですが,見合う保険料か?…
 自分で何かを作りだすような作業をしたい,仕事をしたい,という人は多いのではないでしょうか。自分の才能をいかしたい,アイデアを活用したい,なんてことは,ほとんどの人が抱く欲求ではないでしょうか。しかし,最近,このような発言に非常に懐疑的になっている私です。言うはやすし行うは難しの見本みたいなものです。また自己実現なんて言葉が流行っていますので,それに飛びついているとも考えられます。
 なぜこんなことを感じているかといえば,教職のテストの結果を見たことも原因の一つかもしれません。結構自由に書いてもらうのですが,そのなかでどのような教育ができるか提言しなさいというようなことも聞きます。一生懸命書いているのでしょうが,多くの場合は面白くない。通り一遍というか,当たり障りのないというか,真面目というか…。ミニ教育評論家の集大成みたいな状況になっています。具体的な指導が出てこない…。
 教員の仕事って,かなりオリジナリティーを発揮できる仕事だと思っています。クリエイティブな仕事だと思っています。ただし,新しいものを創ったからといって,高収入には結びつきませんが…。制限のある中で,どんどん新しいものを提案できる人が,起業家のみならず,教員の世界にも出てきてほしいものです(と評論家になる私)。

■ ぶつぶつ9/20/2000
 結局,入院です。私ではなく車ですが。悪いところを直して,早く出てきてくれないと困ってしまう。ということで,私の足は,現在自転車のみとなっています。おもわしくない体調と自転車のとりあわせは,うーん…
 入院通告を受け,車はそのまま預け,雨だったのでタクシーをひろいました。運転手のおじさんと,しばし歓談。あの雨の時はどうしていたのか,浸かったタクシーはあったのか,その後の道路状況など,私よりももっと悲惨なケースの話を聞きながら自分を慰めていました。そしたら,信号待ちでノロノロと動いていたとき,左前方から車が顔を出しました。私も気づいたのですが,その状況から入ってくることはないだろうと気にも留めなかったのです。でも,なぜか頭を突っ込んで来た。運転手のおじさんも,「えっ」という声が出た。その後おじさんいわく,「外車乗ってるからって,いばるんじゃねえぞ」。ちょっと間を置いて,私も「えっ」。
 この気持ちはわかります。私も乗客として,突っ込んできた車(車が悪いのではなく,運転してたおばちゃんが悪いのですが)に対して,ちょっと頭に来ました。でも,いばれるほどの車(BMWのコンパクト)じゃないよね…。いばんてんじゃなくて,運転手が常識のないヤツなだけだよね…。外車に乗ってるからって,そんなヤツばかりじゃないよ…。ちゃんと運転している人だっているんだから…。最初は賛同したものの,自分のことを考えたら,賛同した自分がちょっと恥ずかしくなってきました。(おじさんも,私が乗った場所(ディーラーの前だった!)を考えてくれたらいいのに。)

■ ぶつぶつ9/13/2000
 久しぶりに,いやというほどの雨を見ました。幸い,家の方は何ともなかったのですが,子ども用のプールみたいなところで車を遊ばせたせいか,エンジンまわりから異音がするようになりました。こいつも私同様,病院行きですかね。
 先日から,原稿の執筆に取りかかりました。今回の本は,自分自身が企画にも人選にも関わっているので,いつもよりも楽しみであるし,いつもより負担でもあります。何とか来年の夏休みに入るころまでには出版できたらと思っています。無事出版できましたら,ここで大々的に宣伝しようかな。
 以前にも書いたような気がするのですが,書くという作業は好きです。自分の中にある何かを紡ぎだしているという感じも好きですし,いかに分かりやすく書くかというテクニック的な工夫も面白いと思います。また,どんなふうなことを書けば読者の気持ちを引きつけることができるのかといった,プランナー的な楽しみもあります。自己満足と他者からの評価,書きたいことと書かなければならないこと,それらのバランスのとれた位置を探りながらの作業が原稿執筆と言っていいと思います。
 おそらく自分でホームページを持ち,その構築や改訂に楽しみを見いだしている人が感じていることと同じだと思います。自分なりのオリジナリティーや工夫を,閲覧者との折り合いの中で具体化していっているのだと思います。自分の好き勝手にやることが面白いわけではないのですよね。

■ ぶつぶつ9/1/2000
 もう9月。夏休みもあとわずか…。あいかわらず体調ももどらず…
 先日のぶつぶつで,ジンバルドーの言葉を取り上げました(私は心理学というのは,とるにたらないような問題を追及するために,きちょうめんな研究法を徹底的に行ったあげく,ありきたりな答えにたどりつくだけの混沌として退屈な学問だと思った)。それからも何かひっかかるなあと思っていたのですが,やっとその理由がわかりました。試験の採点をしているときに感じたことと重なっていたんだ!
 今回の試験,特に発達心理学の採点は,かなり辛口になっています(受講生の皆さん,ご了解を!)。資料持ち込み可の論述ですので,多くの受講生は,ある程度までの文章を書くことができます。だから,ベースはそこに置きました。そこから,どの程度のオリジナリティーを含んだ展開ができているかが勝負の分かれ目でした。調べたことが,そのままで終っているものは,低めの評価になっています。もしジンバルドーが,先に挙げたような感じで私の授業を受け,それで試験を受けていたとしたら,やはり良いとはいえない成績に終ったことだろうと想像します。
 それは,ジンバルドーのような態度(授業に対する構えと言ってもいいかもしれない)は,私が期待するものではないからです。授業が自分(学習者)の外にあるからです。私は,新たな知識が学習者の中に入り,すでに持っている知識と融合されることを望んでいます。それが授業を受ける意義だと思っています。それが解答に表現されていたら,多少の理論的飛躍(あくまでも多少のレベルですが)があっても,評価を与えています。
 逆に言えば,“あのジンバルドーでさえ”,そんな時期を経験していたのだと言っていいのかもしれません。そういえば,私にもそんな時期があったような…。そのような態度が変わったとき,心理学が面白く感じられるようになった…だったかなあ…?

■ ぶつぶつ8/29/2000
 お昼を食べて,校内の本屋さんにぶらりと立ち寄ったら,「アメリカの心理学者 心理学教育を語る」という本を見つけました(R.J.スタンバーグ編著 北大路書房)。タイトルのセンスには?と感じましたが(原題はTeaching Introductory Psychology),私も楽に授業をやっているわけではないので,つい買ってしまいました。ぱらぱらとめくりながら,やっぱりなあという感じを持っています。全部読んだわけではありませんが。
 私自身は,ショーアップされた授業というものは好きではありません。お仕着せがましいというか,余計なお世話というか,向こうからこっちにやって来すぎるのです。あまりにも見事に構造化された授業は,お見事,という感想しか私の中に残らないのです。私は,もっと泥臭い授業が好きです。90分のうち,記憶に残るのは1フレーズくらい。半期を受講して,その後でも思いだせるのもまた,全体を通して1フレーズくらい。でもその1フレーズは,5年後でも思いだせる。そんな授業ができればいいなあと思っています。授業直後の「あの授業は面白かった」という評価は,どうでもいいです。
 ですから,私が授業で気にしているのは,トッピクと発問の仕方だけです。構成はその場の雰囲気次第です。考えて欲しいトピックを,発問というスパイスをかけて提供するだけです。受講者の中で,それがどのような栄養になるのか,未消化のまま排泄されるのか,はたまた食あたりをおこすのか,そこまではわかりません。ただ,利き酒のように,のどを通りすぎることのない授業にはしたくないと思っています。
 先に挙げた本の中で,ジンバルドー(非常に有名な心理学者)が,「私は心理学というのは,とるにたらないような問題を追及するために,きちょうめんな研究法を徹底的に行ったあげく,ありきたりな答えにたどりつくだけの混沌として退屈な学問だと思った」と自らの学生時代を振り返っています。当たっているし外れていると思います。心理学に対する自分の位置次第で,どちらにも転がります。授業を通して,転がる方向までを示唆することは,“学生にとって”よいことなのだろうか…

■ ぶつぶつ8/23/2000
 帰省モノ第3弾。私は,12日の午前3時ごろに名古屋を出発しました。いつもならもう1時間ほどは早く出るのですが,名神の渋滞が緩和されないのでその時間まで出発を遅らせました。それでも事故で渋滞が40キロ(だったか?)というのを見て,名神から名阪にルート変更。近畿道から中国,山陽というルートを考えていたのですが,中国道から近畿道にかけて渋滞ということだったので,大阪の街中を抜けて湾岸線で神戸へ。山陽道を西にと思ったら,またまた事故で渋滞ということなので,山陽道をちょっともどって中国道で岡山へ。時間にすると,いつもより2時間以上,距離にして100キロくらいの回り道をしてしまいました。
 久しぶりに神戸の街中を走ったのですが,ちょっと面白い出来事がありました。12日は土曜日,それに朝も7時くらいでしたので,神戸から塩屋の手前までは比較的(?)空いていました。阪神高速の高架下,国道2号線の状況を見て,思わず「今日は,すいとう」という独り言が出てきたのです。「今日は,(道が)すいている」という意味なのですが,「〜とう」というのは播州弁(でいいはず)で,神戸にいたときは,私の周りも自分も使っていました。独り言が出てから,アレッと思いました。ここしばらく,「とう」は使っていなかったこと,それをここ(神戸)で使っている自分がいることが妙におかしかったわけです。
 岡山に帰ったら,やはり「〜じゃあ」という岡山弁を口にします。岡山弁をしゃべる相手がいるからではないかと言われそうですが,それではなぜ神戸で「とう」が出てきたのか説明がつきません。どうも私の頭の中では,風景や思い出と言葉がリンクしているみたいです。そのためか,岡山以外では岡山弁をちゃんとしゃべることが難しいのです。
 今,私の言葉はメチャメチャと言っていいと思います。アクセントは標準語に近い(岡山弁のアクセントは標準語に近い)のだけれど,関西弁的な言葉も入るし,そこに岡山弁や名古屋弁(めったに無いが)が入ってきたりします。自分では,何弁でしゃべろうという意識は全くありません。自分が言いたいことを言うのに,最もニュアンス的に符合する言葉を使っていたらこうなった,という感じです。でも,その言葉を使っていた土地に行くと,その言葉が活性化されるみたいです。記憶は,その時に使っていた言葉で記録されているのだろうか??

■ ぶつぶつ8/21/2000
 帰省モノ第2弾は,お盆につきもののお墓参り。もうちょっと言葉を付け加えるとしたら,先祖と私について考えたということに近いかもしれません。
 ご多分に漏れず,私も“もっと”若いときは,何で墓参りなんかしなければいけないのかなんて思っていましたし,生前ばあちゃんが「あれがおじいさんで,その先代があのお墓で…(うちの田舎は個人墓なんです)」なんて言うのを聞かされて,うっとおしいなあと思っていました。そのような心持ちが,最近,ちょっと変わってきたように感じています。積極的に教えてもらって覚えておこうというところまではいきませんが,面倒とかうっとうしいという気持ちはなくなってきたようです。
 それはそこの仲間入りをすることに,ちょっとずつ近づいているからかもしれません。心理学的にはいろいろな説明が可能だと思います。感覚的に感じるのは,やはりアイデンティティの側面でしょうか。自分とそれぞれのお墓で眠る人たちとの間柄を確認することによって,自分の歴史的な位置,歴史的関係上の位置を確認したい。そんな気持ちがどこかにあるようにも感じます。そんなことを考えながら水を配って歩いていたら,家とか家系を大事(?)にしていた(いる)人は,ある側面では自分自身とか自分の位置を大切にしているのかなあと思い当たりました。
 また“この親にしてこの子あり”ではありませんが,子が親の影響を受けることを否定する人はいないでしょう。そうであれば,私は親の影響を受け,私の親はその親(祖父母)から影響を受け,またかれらはその親から影響を受けている。つまり会ったことの無いご先祖からも,私が間接的な影響を受けていることは自明です。そんなことを考えながら並び立つ墓石を見ていると,この人たちが子孫に伝えたものが私の中にも生きているのかと,不思議な感慨に浸ることもできます。当然,嫁入りとか婿入りで来た人たちもいるでしょうから,そこにある墓石の数よりも多くの影響因が存在するのは確かなのですが。
 そんなこんなことを考えながら墓参りを済ませてきました。100年後,200年後に,私の墓石(ある…かな?)を見る人(いる…かな?)はどんな感想を持つのでしょう?

■ ぶつぶつ8/18/2000
 久しぶりの大学です。今回は少し長く帰省していました。調子が良くなかったということもあるのですが,保養・静養に努めていました。そのかわり,考えることはいっぱいできたので,しばらくは帰省ネタが続くかも…
 帰省中に暇に任せて何冊か本を読んでいました。私は大抵の場合,本屋で実際に見て,目次などをペラペラとやりながら気に入ったものを買います。平積みされた文庫を見ていたら「一億円…」というものが目に付きました。株とか金融の棚ならば目に付かなかったのでしょうが,文庫の平積みだったのでちょっと気になりました。著者は赤川次郎,タイトルは「一億円もらったら」(新潮文庫)でした。赤川次郎氏の本は,高校時代入院していたとき,院内の本屋で買って暇に任せて読みあさっていました。今でも時々手に取りますが,何でこんなに少ない文章でイメージをたくましくさせることができるのだろうと,その文章力には興味をかき立てられます。
 一億円をもらった5人の使い方が中心の内容は読んでいただければよいのですが,読みつつ言いたいことがたくさん出てきました。“これはネタにしなきゃ”と思っていたのですが(今こうしてネタにしていますが),実は書こうとしていたことがすでに書かれてありました。巻末の解説に。酒井順子氏というコラムニストの人が書いているのですが,“そうそう”というものでした。この人が,お金の使い方に,“上品,下品”という言葉を使っています。私は作品に登場する5人の使い方すべてが“上品”とは思いませんが,上品なお金の使い方という表現は気に入りました。私としては,本文よりも解説の方が面白かった。
 もし私に一億円をくれる人がいたならば,私は上品にそれを使い切ることができるだろうか? 株を買って10億くらいにして若い起業家に投資する,なんてのは下品かな? 宝くじは外れたし…

■ ぶつぶつ8/11/2000
 さて,帰省しましょうか。今でも“盆と正月”だけは,ちゃんと親の顔を見に帰っている私です。今一つ体調が良くないのですが,安全運転,安全運転。
 昨日今日で,青年心理学会の講習会用の原稿を書き上げました。タイトルは「研究におけるシナリオ作り」です(原稿は,講習会が終わったときに開示します)。何でこのようなものをやろうと思ったのか。それは,昔々私自身が困っていた問題であり,今でも学部生や院生を見ていて感じる問題でもあるからです。最近は,研究方法についての本がかなり出てくるようになっているし,論文の書き方にについてのものもある。でも,研究のやり方についての本は無いんですよね。研究ってこうやればいいんじゃない,という一つの提案をしようと思っています。それが我流であることは確かですし,万人にお勧めできるかどうかは自信はありません。反論も間違いなく出てくると思います。でも,しゃべっておきたいという欲求があるのも確かです。さて,いかがなりますか。
 ちょっとしたCM…

■ ぶつぶつ8/8/2000
 ある原稿を書こうとして,手元にあった「仕事」(今村仁司著 弘文堂)をペラペラとめくっていた。ペラペラめくったくらいでは理解しがたいくらいの,私にとっては難しい内容なのだが,思いっきり私の想像力をかき立ててくれるような点があった。だからちょっと。
 学校でも家庭でも,罰として仕事をさせることがあるでしょう。例えば,クラスの規則を破った罰としてトイレ掃除をさせるとか,いうことを聞かなかったから庭の草抜きをやらせるとか。はたしてこれは理にかなったことなのだろうか?
 このようなことをやらせるということは,トイレ掃除とか草抜きという行為自体が罰に値するものだという認識に基づいている。罰に値するということは,誰もが嫌がる作業,価値のない作業,喜びを感じられない作業などという意味である。そうじゃないと罰にならない。では,庭の草抜きを担当する者は,家族の中でも下僕的な立場の人なのだろうか? 学校のトイレ掃除係りは,最も価値を置かれていない者たちが担当する場所なのだろうか? そうではないだろう(というか,これを否定したい人はたくさんいるだろう)。そして多くの場合,草抜きやトイレ掃除は,人として行う“べき”行為であると教え諭しているのではないだろうか。
 ここに大変な矛盾がある。人として当然な行為が罰の機能も持つなんてことは,どう考えても成り立つはずがない。ということは,「トイレ掃除は罰に値する」という考えが間違っているか,「トイレ掃除は人として行うべき行為である」という考え方が間違っているかである。歴史的(?)には後者が間違っているといえるだろう。トイレ掃除なんて機械にまかせてしまいたい,なんて思いがあるとすれば,やはり後者が間違っているのである。ということは,トイレ掃除は大切な仕事なんだよ,とかといった教育は,自己犠牲的精神を植え付けるための,無理やりのこじつけ指導となってしまう。それならそれで,「トイレ掃除なんて人間のやることじゃないけど,誰かがやらないとみんなが困るから順番でやりましょうね」と言った方がマシである。
 でもこのような指導をするとすれば,また困った問題も出てくる。就職難にも関わらず,3K(きつい,汚い,危険…だったっけ)とされる職業には人が集まらない。人々は,そのような職業に就くことを避けるのである。先のような指導は,これに拍車をかける可能性がある。またそのような職業に就いている人をおとしめてしまう発想にもつながるのである。とすれば,やはり「トイレ掃除は人として行うべき行為である」とか,もう一歩進めて「価値ある行為である」なんてことを徹底的に教え込んでおく必要がある,という結論が導かれる。
 ということで,私的な答えとすれば,「人が人として当然行うべき行為は,それを罰に利用してはいけない」ということになるだろうか。罰にしてしまうと,その行為に対して「当然」という意識は失われてしまうだろう。もしお母さんが家のトイレ掃除をやっているのであれば,「お母さんの仕事ってその程度のものなんだ」と理解されても,何の不思議も無いのである。
 でも,「今日,一番良いことをした人」に,「良いことをしたご褒美に,トイレ掃除をさせてあげましょう」なんて言えるかな?

■ ぶつぶつ8/7/2000
 今日アクセス数を見てみたら,開設以来(数字上の)目標にしていた,あるページのアクセス数を抜いていました。これで一応の目標達成。次は…。まあ,数は後からついてくるのだろうから,書きたいことを書くとしましょう。
 以前にもちょっと触れたのですが,デジカメをついに入手しました。持ち歩いて,“何か”を撮ろうとしてみるのですが,これがまた何も撮れない。構えても,何か違うと思っておろしてしまうのです。これは多分,自分の目に映っているものから,どこかの部分を切り取るという作業に慣れていないからだと分析しています。構図,なんていう概念は普通に生活していると意識しないのでしょう。何となく感じのいい風景に出会っても,目に入ってくる風景全てからそういう印象を受けているのか,それともどこかその一部から印象を受けているのか分からなくなってきました。もしかしたら,風景の“要約”が必要なのかも,と思ったりもしますが,文章ではないので,切って貼ってをやっても仕方のないことでしょう。
 心理学をやっていることもあってか,人を見るときのポイントはなんとなく自分の中にでき上がっています。それを中心にその人なりを自分の中に描いていくのですが,もしかしたら写真も似ているのかなと思います。慣れという側面が大きいのでしょうが,心理学をやっている人が論文や本を読み,執筆者の視点(つまり執筆者が人間を見るときのポイント)を盗むように,写真も多くを見て人の何かを盗むべきなのかなと思います。勉強代は高くつきそうだ…

■ ぶつぶつ8/2/2000
 気がつけば8月。暑いはずだ…。私のHPとは,ちょっと毛色の違った文章を書いてみました。こんな文章も書けるんだよということで,興味のある方は覗いてみてください(心理人間学科HP教員エッセイ)。
 ここ名古屋について,転居した早々に思ったことを書いてみたものですが,未だにこの地については明確なイメージというものがないのです。一言で言うと地味。日本中の多くの人が知っている地名だし,名古屋弁のことも結構よく知られている。夏は暑くて冬は寒い(瀬戸内に比べて)けど,坂がないので自転車でも楽。道路も電車も,めちゃめちゃ混雑する,というほどではない。都会過ぎず田舎過ぎず。ここがダメというところは少ないのだが,人を引き寄せる力に欠けるのではないか。ここがイイ,というところが地味だからなのか,少ないからなのか…。それとも,単に情報発信を積極的にしていないだけのことなのか。
 「名古屋ってどんな所なんですか」とたずねられて,未だに「うーん」と頭を抱えてしまう…。何が私に「住みやすいけど」と言わせるのだろう。「けど」何なの?

■ ぶつぶつ7/31/2000
 週末は徳島へ行ってきました。遊びじゃなくて学会のセミナーです。バスは嫌いなので,往復とも岡山まわりの鉄道の旅でした。瀬戸大橋は便利でいいんだけど,景色(海の匂いも込みで)は船からの方が好きだなあ。
 そのセミナーに,なんと「生活観をともなった勤労観を育成するために教師が勉強すべきこと」といったタイトルの資料を提出しました(興味のある方は,「研究など」の中にある「最近の興味と研究成果」をご覧ください)。要は,先生自身が一生活者としてのクオリティーを高め,さらにそれを子どもたちに積極的に伝えましょうよ,といった内容です。もっと厳しい言葉で言えば,「先生。よりよく生きていくために,先生自身は何を勉強しています? もっと世の中のことを見てよ,知ってよ,勉強してよ,教えてよ」という感じになるでしょうか。自己実現なんてきれい事の進路指導もいいけど,もっと身近な,生々しい生活レベルの指導も必要なんじゃないと思うのです。そのためには,一生活者としての先生のレベルが問題になるのです。例えば,職を見つめるためとか今の職を失わないために,一生懸命パソコンを勉強している中・高年者の姿がニュースに出たりしますが,先生の職にある人はどうでしょう? パソコンのことが全くわからないまま,これからを生きていく子どもに進路指導ができるのでしょうか? できないことも無いのですが…
 皆さんは,これからを生き抜いていくために,どんな勉強・知識が必要だと思っていますか? お子さんをお持ちの方々,あなたの死んだ後も生きていかなければならない子どもたちに,あなたは何を伝えたいですか?

■ ぶつぶつ7/24/2000
 そういえば,先日エレベーターの中で,学生は賢くないから大学へ来るんじゃないの?といって学生を混乱させている教員がいらっしゃった。名前は出さないけど…ハハ。こっちにもふられたので,そりゃそうだ,と言っておきました。
 これは当たり前の話で,賢かったら大学なんかへ通う必要は全くないわけで,中卒だろうが高卒だろうが,自分の力を生かして社会でバリバリ活躍できるはずなのです。そうするには何かが足りない人が,その何かを身に付けようとして集まってくるところが大学という教育機関だと思います。そう考えると,大学へ進学するためだけに勉強するなんてとてつもなくバカらしい話ということになります(ただし,これをもって大学入試の批判とすることは飛躍がありすぎますのでご注意を!)。その前にすることが山のようにあるはず。もしくは,銭になるかどうかは別にして,自分の知的好奇心を満たすためにやってくるか。
 今後は,入学定員に対する進学希望者の比率が低くなる(つまり大学へ入りやすくなる)ことは自明なのですが,もしかするとこれは大学が大学らしさを取り戻すチャンスになるかもしれません。学生予備軍(およびそれを取り巻く人々)が,大学に行くべきかどうかを考えるという,受験勉強を始める前に必要なことをじっくり考える時間がもてる可能性が今より高まる(かもしれない)と考えられるからです。受験生も我々教職員側も,ひるまず,流されず,躍らされず,見るべきとことをしっかりと見つめていきたいものです。

■ ぶつぶつ7/21/2000
 先日,といってもかなり前のことになるのだが,iMacを購入した。あまりにもいろいろなことが溜まっていたため,最近になって,やっとかわいがってやることができるようになった。私が購入した(利用してきた)Macの中で,最も低価格なのに,なぜか今使っている中で一番速い。このあたりに矛盾と時間の流れを感じながら,ペタペタ(この表現がぴったりだと思う)と打っている。(もうちょっと待ってたら,DV+という選択もあったのに…。キューブもなかなか…)
 このiMac,速いのだが遅い。もう少し正確に表現すると,処理速度は速いのだが入力が遅いということになる。なぜか。キーボードのせいである。今までは(というかiMac以外の機種では),ASCII配列のキーボードを使ってきた(ちなみに拡張キーボードIIのファンである)。でもiMacにはJIS配列のキーボードがついてくるのである(よくわからんという人に…@を入力するのに,shiftキー+2を使う場合がASCII,Pの右に@がある場合はJIS配列である)。以前のように,キーボードは別売にして欲しい…。これのせいで,タイプミスがめちゃくちゃ多くなってしまっている。ついでにキータッチの感触が好きになれない。そんでもって思い通りにならないので肩がこる。一番肝心なところが,今一つしっくりとこないのである。US使用を買えばいいのだが,キータッチ,価格のこともあるので,サードパーティー製を探ってみようかな。
 いくらマシンの性能がよくなっても,そのマシンと私をつなぐ接点の出来(慣れの問題かもしれないが)がよくないと,結果としてどちらの力も発揮できなくなってしまう。とりあえずMacの話を引き合いに出したが,現在しっくりきていない対象は他にも2,3ある。ユーザーインターフェイスという言葉を噛みしめながら作業をしている今日この頃。

■ ぶつぶつ7/20/2000
 オープンキャンパス終了。今年は私も模擬授業をやりました。もし受講した人がこれを読んでいたら,感想などメールしてください。
 なんど問われても,心理学の説明をするのは難しいなあと感じます。領域が広すぎるというのもありますし,あまりに身近な問題でありすぎて,対象化しずらいという点もあるようです。心理学に限ったことではありませんが,多くの学問は生活に密着していると思います。心理学なんて,自分が人間の中で生き,そして人間をやっているのですから,そこで生じてくる疑問・問題すべてがターゲットとなります。ですから今回は,そのような疑問・問題意識を持っている人が,それを持って進学するところが心理学専攻であるというような話をしておきました。そして大学は,それに対する答えを出してくれるのではなく,ヒントを与えてくれるところだと言いました。そのヒントを手がかりに,自分で答えを探す時間と場所も大学は提供してくれます。
 そう考えれば,大学を選択することはそれほど難しくはないでしょう(?)。自分の持っている疑問や問題意識に合致するような授業や専門家を擁しているところを選べばよいわけです。それが南山であるかどうは,各自の意識によって変わってきます。どうぞ他の大学と比較してください。そして十分に検討してください。情報が足らなければ,どんどん質問すればいいのです。それに答えないようなところであれば,選択肢から外せばいいのです。一人ひとりが,自分にできるだけ合った進学先を見つけられることを祈っています。

■ ぶつぶつ7/14/2000
 心理学の最後の授業で,感想として出てきた文章を引用してみたいと思います。「感想はあるのに,それを書けないってどういうこと? 考えたことがあるのに,それを表現できないってことは,考えたということになるの?」といった私の問いに対する感想です。

 私は,物を考える際にはほとんど言葉で考えません。頭の中で一瞬にしてその物事のイメージをつかみ,(ここは何と表現したらいいのか分かりませんが,今までの経験,色,匂い,感覚,音のようなものが絵画的に形づくられる),自分の中で「理解」しているので,それを文章にすることなど不可能であると思っています。そしてその「理解」は,自分の中では,言葉にするより,深く物事をつかむことができるので,人にその物事を説明することがない限り,私はその物事を言葉では考えません。
 しかしそれでは本当に理解しているとは,とってもらえない,ということは分かっています。だからいつも仕方なく言葉にします。「言葉にする」という作業は自分にとって,全く他人のために行うものです。
 自分にとって物事を「理解」するという事は,その物事を自分をとりまく世界の中で位置づけ,全体像をつかむことです。
 でも言葉で表現できないと,それは「馬鹿」です。大学入試など通りません。しかし私は「理解」には必ずしも言葉が必要だとはどうしても思えないのです。他人に分からせることが「学ぶ」ということではないと思います。自分のために物事を理解する限り,言葉は必ずしも必要物ではありません。むしろ邪魔になることすらあります。
 私の場合,言葉にすると,全てがうそになります。文章力,ボキャブラリーのなさといってしまえばそれだけですが。
 しかし,言葉で語ることができなければ,この世の中で生きていけないということは,理解しているつもりです。

 言いたいことは,よくわかります。少なくとも,この文章を読むかぎり,文章力のない人だとは思えません(ただこの人の言葉を借りれば,この文章自体もうそなのですが)。同じような感想は,他の人からもありました。
 私は,理解についてはこう思います。どのような手段(言葉,画像…)での理解であろうとかまわないが,それは曲解や誤解であってはならない,ということです。理解する者は,自分の理解が正しいのかということを常にチェックしておく必要があると思っています。それには,理解する人が「私はこのように理解しました」ということを理解させようとした人に投げ返し,確認を取る必要があります。大学での試験なんて,まさにこの作業と言ってもいいかもしれません。ただし,理解したことを基盤にさらなるコメントも必要ですが。
 このときには,やはり言葉が便利だと思います(多くの試験では,言葉に限定しています)。もし私の授業を受けて,その理解の証明に一つの曲を提出されても,私にはその人が何を理解したのか“理解”することはできないと思います。
 言葉にするにしても,その他の方法にしても,自分の中から何かを外に出すときには,多少の誤差は生じます。その誤差をできるだけ少なくすることが,正確に理解することの助けになるでしょう。またその誤差が生じることを不安に思うと,知識のブラックホールのような存在になってしまいます。教員としては,これはちょっとさみしいことです。教員は伝えたいことを吸い込んでくれるだけではなく,それを活かしてほしいと思っています。言葉にすると全てうそになるのが今であるとしたなら,来年は,言葉にすると90%うそになる,くらいになってほしいなと思います。

■ ぶつぶつ7/10/2000
 このぶつぶつの更新記録を見ていると自分の状況がよくわかります。頻繁に更新されているときは,中の上程度に忙しいときです。めったに更新されないときは,メチャクチャ忙しいときか,やけに時間があるときです。時間がありすぎてもだめなんですよね。ということで今日は時間が適当にある日なんです。
 ある学会のニューズレターを編集している委員をやっているのですが,今回は,音楽と青年ということで原稿を集めました。その原稿を見ながら思ったのですが,やはり音楽はその時代の世情を反映している面を持っているなということです。その時代に生きている人が,ある意味で広く受け入れられることを意図しながら創ったものですから,そのような側面があることはあたり前なのですが…。ちょっと話は飛ぶのですが,この間から車の中でずっとサザンの「さくら」というアルバムを聴いていました。その中に「私の世紀末カルテ」という曲があります(サザンの公式ページから歌詞を見ることができます)。著作権があるから触れにくいのですが,これは面白いと思います。聴いて(見て?)みてください。その通り!と思うし,ため息モノでもあります。こんな世界を生きていくのかと思えば空しいけど,そんなヤツを横目に生きていける楽しさ(かなり悪趣味)もある。時代の見方次第,自分の生き方次第…そんなに嘆く必要もない…
 聞き手として歌をどのように利用するかというのにはいろいろあるのでしょうし,利用の仕方も時代によって変わってきているように思います。当然,人生勉強,教訓に使うことだってできると思います。本を読むのと同じように,歌詞を見ても面白いなあと感じます。

■ ぶつぶつ7/4/2000
 結局,今年はホタルを発見できないままに終りました(一度だけ,あれかな?という光を見たような見なかったような,という状況には遭遇したのですが)。これを読んでいたある助手さんが,意を決して暗い駐車場を探検したのですが,発見できずでしたという連絡ももらいました。今年ダメだったものが来年復活する,なんてことはあるのでしょうか。
 先日来,腹が立つやら情けないやら,どうも自分の中で収まりのつかない問題があります。一部の高校の先生が「大学に入ったら遊べるから…」という言葉をいまだに使っているということです。立て続けに,違った場面で複数の学生から聞いたので,「しこり」のように心に引っ掛かってしまいました。正直なところ,世の中の流れについて行っていない,浅はかな言葉だと思います。学歴が力を持っていた時代や,「大学には自分のゆっくりした時間を得るために行くんだ」なんて思っている生徒にはそれでもいいでしょう。今どき大学で4年間遊んだら,就職活動の時に「私は人の3倍は遊びました。その結果はこうです」なんて胸を張って語れるようになるとか,遊び倒す中で自分の力を発見して,さっさと大学に見切りをつけて社会へ飛びだしていくようでなければ,どうしようもないと思います。当然,大学も遊びに来ているヤツを指導しようとまではしません。あっそう,で終りでしょう。改心するなり辞めるなり,自分でお決めください,という立場をとることが多いと思います。
 おそらくこんな意見もあるでしょう。「大学へ入れば嫌でも勉強させられるだろうから,今は餌で釣るようなことをしても勉強させればよい」という論法です。方法はどうであれ,結果オーライの思想と言ってもいいでしょう。私は,結果で方法を正当化することはあってはならないと思っています。極論ですが,平和を守るためには戦争もOK,という発想と全く同じなのです。人間は,そこまでバカではないと思います。
 教師をやっている間は,プライドにかけて言ってはいけない言葉があると思います。私の中にもひとつのラインのようなものがあります。それを言ったら,そう言った自分をおとしめてしまうことになると自覚しているラインです。皆さんは,どんな線引きをしていますか?

■ ぶつぶつ7/3/2000
 日曜日の夜10時から,古舘さんがやっているトーク番組がある。その時間帯は,いつもならばウルルンを見ているのだが,昨日はさんまさんがゲストということで,ちょっと浮気をしてしまった。さんまという人,素人相手だろうが玄人相手だろうが,笑わすためのしゃべりは上手だなあとほとほと感心してしまった。
 面白いトークというものには,一つには内容の面白さというものがあるけど,他には相手の言ったことをどのように受けとめ,どのように返すかというところに妙があると思う。ここに,古舘さんとさんまさんの大きな違いが出ていて面白かった。全く私的な評だが,古舘さんという人は,相手の言ったことの内容をちゃんとふまえて返す人だと思う。そして返すときに使う表現がとても面白い。一方でさんまさんは,相手の言った言葉そのものやその雰囲気をとらえて反応する。だから,聞いているほうが「どうしてこんな展開になったの」と不思議に思うくらいに話が二転三転していく。それも笑いをとる方向で。「ところで」なんて回りくどい接続詞は使わないから,活字媒体には合わないだろうけど,テレビやラジオにはぴったりなんだろう。
 いろんなトークを聞いていると,圧倒的に古舘スタイルが多い。たまに,この2つをごっちゃにしたようなしゃべり方をする人もいるが(いわゆる天然ボケ系が含まれる),1回2回は面白いけど,連発されると単なる中身の無いヤツでしかない。素がボケなんだろう。古舘スタイルは訓練で何とかなりそうな気がするが,さんまスタイルはどうなんだろう。笑いをとろうとして作為的に文脈を全く外した答えをする人もお笑い系には多いが(「私は小さいころ何になりたかったでしょう?」に,「水槽」なんて答えるやり方である),それはさんまスタイルとは違う。これははっきりと文脈がわかっている場合にしかできないから,どちらかといえば古舘スタイルである。さんまスタイルは,さんまさんにしかできない芸当なのかもしれない。まねしようとか学ぼうと思っても,どうしようもないものなのだろう。だから10年以上も,それでメシを食っていられるのだろう。
 私もしゃべりを商売としているものとして,そんなスタイルを持ちたいとつくづく思う。何をしゃべるかから,どうしゃべるかまで,オリジナリティのあるものを創りたい。Aという大学での発達心理学と,Bという大学の発達心理学で学ぶことが違っていてもよいのか,という問題もあるが,私はそれでよいと思うことにしている。さらに受講生の半分(欲張り過ぎか)が「まあ,いいんじゃない」という反応をしてくれれば上等。うーん,難しい。

■ ぶつぶつ6/30/2000
 選挙の楽しみ第2段がはじまりましたね。選挙違反の摘発です。今回は何人検挙されるのでしょうか。後援者全ての活動をチェックすることは難しいのでしょうが,金をばらまいて票を集めてる人に後援してもらっている人って…。子は親を映す鏡とも言うし…。よーくチェックしておこう!
 私のHPへのアクセス数が,今月はえらく多くなりました。これが学科HPとの相乗作用であればよいのですが。多くの方に見ていただいているのですが,時に「書き込みができるページは作らないのですか」というような声を聞きます。今のところ作る予定はありません。作りたいとも思っていないのです。なぜかというと,現状のネットはコミュニケーション手段としてあまりにも貧弱だと思うからです。直接会って話しをすることを最大の情報が行き来するコミュニケーション手段としたら,ネット上のコミュニケーションはどうでしょう。現在のところ,言葉しか行き来しません。言葉といっても,電話なら微妙なニュアンスや間なども伝わってきますが,文字だけではそれも無理です。それをできるだけ伝えられるように文章を綴ることもできますが,それには推敲を重ねなくてはならず,時間的なロスが大きすぎます。文字だけでやり取りするメリットがあることは否定しませんが,私にはデメリットの部分が大きすぎると映るのです。
 ネットは,自分も参加していることを感じられるよいコミュニケーション手段だという人もいます。しかしそれを認めるには,参加するすべての人が自分の思っていることを少なくとも誤解を招かない程度の正確さで文章に表現でき,また人の文章を正確に解読できるという前提を踏まえなければなりません。ここが私には?なのです。私自身も,このページを見ている人に言いたいことがちゃんと伝わっているかと不安を感じます。私は,多くの人々の文章能力を過小に評価しすぎでしょうか?

■ ぶつぶつ6/26/2000
 選挙も終り。選挙に行かなかった人は,昨日の夜のテレビは面白くないのでしょうが,選挙に行った人,考えた人にとっては,いろいろ感じることも多い興味深い放送だったのではないでしょうか。天気も悪いし寝ていた人も多かったようですが。
 当選者とか落選者のインタビューを聞いていると,情けなくなるような質問や回答が聞かれることがあります。テレビ局に入社するにも,議員になるにも,それなりに勉強していないとなれないと思うのですが…。人の揚げ足をとるような議論の仕方しかできないのかな。それに加えてハラがたったのは,落選者の中に「今回のマスコミの報道が…」というヤツ。マスコミがどういう姿勢で報道するかによってイメージが変わってくるのはある程度仕方のないことと思いますが,それを過大に評価するということは,有権者はマスコミの意のままに操られている人形に過ぎないと確信していることにほかならないと思います。まあ,選挙カーから名前を連呼するような選挙活動をし,それが票に結びつくなんて思っている人もまだまだいるようなので,こういう認識があっても別におかしいことではないのでしょう。でも,有権者をその程度にしか見ていない人が,「私を選んでくださった有権者の皆さんのために…」なんて言ってもバカらしい猿芝居としか見えないのです。有権者をなめてんじゃねえ!なんてね。
 何か選挙というものは,国民性が反映されているように思います(そうでなければ困るのですが)。地盤,看板,カバン,っていうやつがまだまだ生き残っている国なのでしょう。そんな目で見ていたら,この人が落ちたの,こんな人でも当選するの? なんてことが連発で,下手な漫才を観ているよりずっと面白いと思うのですが。

■ ぶつぶつ6/21/2000
 昔,カメラが無性に欲しいと思った時期があった。中学校の時で,友達数人と,あれもいい,これもいいと言っていた記憶がある。結局その時は購入しなかった。お金がなかったためだったか…。確か,CanonのAE-1などが販売されていたときのことである。それ以後,写真,ビデオなどの記録媒体には,ほとんど興味がなかった。今でも,コンパクト・カメラさえ持っていない。数年前に買ったテレビデオ(今はもう無いのかなあ)は,ビデオデッキがテープの進入をかたくなに拒み,お手上げの状態のままである。ただ,物欲第2弾が3年ほど前におとずれた。誰の写真だったか,モノクロの気持ちの良い写真に出会い,自分も撮ってみたいと思ったことがきっかけだった。ただし,これも長続きしなかった。
 今,デジカメが欲しい。無性に欲しい。なんてったって,現像に出さなくてすむ。結構照れ屋の私は,バカな写真を現像に出すことが気恥ずかしいのである。現像している人が,いちいち「こいつ,バカな写真を撮ってるな」とか「下手くそだな」なんて見ることは無いことくらいはわかっているのだが…。
 それと,何となく記録を残しておきたくなった。これまでは,「記録なんて心に残しておくものだ」と思っていた。ファインダー越しに見るのは邪道で,それをそのまま自分の目に焼き付けたい,なんて思っていた。その気持ちが少し変化してきたようである。そのきっかけはわかっている。2年前に初めて自分のお金で車を買った時のことである。納車の時に,ディーラーの方が写真を撮ってくれ,額に入れてプレゼントしてくれた(余談ではあるが,この車,ガソリン漏れはおこすわ,エンジンは勝手に止まるわで,結構てこずらせてくれているのだが,それがまた自己主張しているみたいでかわいいヤツである)。今でもちゃんと飾ってある。今まで,写真を飾るなんて習慣がなかった私には,何か新鮮なものなのである(またまた余談だが,外国の映画その他で会社のデスクに家族の写真などを飾っているのを,バッカじゃねえかと思ってみていた)。“あの時”を否が応でもよみがえらせてくれる写真を,面白いものとしてとらえることができるようになった,ようである。この気持ちの変化を大切にするためには,デジカメが必要なのである(?)。絶対買ってやる…と思っていたのだが,ほしいブツが現在ないそうである。次の入荷は来月中旬とのこと。このまま熱が冷めてしまったらどうしてくれよう…
 そのうち,Web上で個展でも開こうかな。ただこの個展,売るためでもなく,人に見てもらいたいためでもなく,自分のためだけに開くのである。なんて贅沢な…。

■ ぶつぶつ6/19/2000
 夜に暴走族の騒音を聞かされるのも不愉快だが,朝に選挙の街宣カーからの叫び声で起こされるのも,同様に不愉快である。同じ土俵で比べるなと言われるかもしれないが,聞く(聞かされる)方にとっては,どちらも同じく無意味な騒音でしかない。そもそもアルバイトを雇って,手を振らせ,名前を連呼するなどは,選挙民をバカにしきった行為としか思えない。アルバイトに払うお金があるのなら,それできちっとした政策の冊子をつくって配付してほしい。
 今回の選挙の争点に財政赤字の問題がどれくらいの重要性をもっているのかはわからないが,先の日曜日の中日新聞(中日サンデー版)には,「645兆円 借金大国ニッポン」という一面(2面使いだが)があった。読んでいて寒けのするような数字が並んでいたが,10兆円を100万円に換算し(1/10000000),国家予算を家計に例えたところが面白かった。ローン借入326万円を含んだ849万円の年収で,ローン返済額219万円を抱えている家庭に相当するのである。加えて,ローン残高は3640万円。そんな家庭があるか? あきれてしまうというよりは,笑ってしまうような感じであった。そんな家庭だったら,おそらく両親は下を向いて歩いているのだろうが,国となるとちょっと違うみたいだ。それから,赤字の根源みたいに言われている公共事業の予算であるが,歳出全体の11.1%(9兆円強)でしかない(?)ことも,無知な私には発見だった。ということは,これを全廃しても借入(32兆円強)をしなくてもよいということにはならないようである。っていうことは,公共事業の見直しで,その分を福祉に回し,そして減税まで…?? そんなことできるの??? うーん,経済は難しい。それとも私の理解が単純すぎるのか?
 無駄な歳出を削ってというのも考えられるかなと思うが,借金返済額が歳出の1/4までになっていたら,ちょっとやそっとじゃどうしようもないかなと思う。どうみても増税なしにこの状況を切り抜けることは難しい,というのがこれを見た私の感想である。この選挙,耳の痛いこの問題にどう立ち向かう人が出てくるのだろう。それとも,君子危うきに近寄らず,かな。(ちなみに,あれを読んで円という紙幣に不安を覚え,「やっぱ金(Gold)かな」と考えたのは私だけではないだろう。)

■ ぶつぶつ6/10/2000
 暑い…。着任当初は,どんなに暑くても授業の時くらいはネクタイをしておこう,という決意があったのですが,最近はもう全然…。我慢してやっているくらいなら,季節に合った服装で気持ち良くできたほうがいい,という方向に変わりつつ(完全に変わっている?)あります。私が大学生だったころは,まだ国立大だと教室にクーラがなかった時代でしたが,先生は大変だったろうなあ。
 最近,“いい眼をしている,いい顔をしている”学生が目に付くようになったと感じます。当然のことながら,視力がいいとか,かっこいい/かわいい学生が多くなったというわけではありません。“いい目つき,顔つき”ということです。ですが,これがいい状況になってきていることを示しているわけではありません。状況は悪化しているためと見ています。“いい眼をしている,いい顔をしている”学生が目に付くようになったのは,そんな学生が多くなったのではなく,そのような一部が目立つようになっただけのことです。つまり,残りの多くの人の目つき,顔つきが,一部の人の引き立て役になってきたということと感じています。その差は,どんどん広がっているように思います。大学生くらいの子どもさんをおもちの方,お子さんはいい眼,いい顔をしていますか?
 でも自分自身,人の目や顔で人の中身を判断することは好きではありません。小学校や中学校の先生などで,「子どもの目つきが…」と力説する人がいるのですが,教育効果を語るときにそれは一つの指標でしかなく,頼りすぎは危険だと思っています。では大学生を相手になぜこんなことを言うかといえば,一つは就職の問題があるからです。面接なんかでパッと会ったときに目に入る情報としての目つき,顔つきは重要です。目が死んでるようなヤツとは一緒に働きたくない,と思われて当然だと思います。また,多くの人と出会い,交流していく中でも,自分というものの一つの看板である目つき,顔つきは雄弁であると思います。
 学生の多くは,毎日鏡をよく見ていると思います(そうとしか思えない。授業中でさえ見ているヤツがいるのだから)。そのときに,髪形や化粧だけでなく,表情もチェックしてほしいと思います。髪の毛の色やラメ入りアイシャドーよりも,そっちの方が雄弁にあなた自身を語っているはずなので。

■ ぶつぶつ6/10/2000
 アクセス総数が10000件を越えてきました。ありがたいことです。薬にも毒にもならないのにと思わないこともないのですが,書くことは嫌いではないのでこれからも書き続けてみようと思います。私自身にはストレスの発散的効果もありますし。
 土曜日の11時からやっている大前さんの番組(以前にも触れたことがあります)はお気に入りで,時間があれば(起きてきたら?)見ています。今日は英語教育のことを話されていました。同感と思うところもあり,そうかなあと思うこともありで,寝起きの頭の正常化に一役かっていただきました。同感なのは,英語はツールであるということ。多くの日本人は,中学以降英語を勉強しているのにしゃべることすら満足にできない,という批判はいろんなところから出されています。しかし,これまでは英文を正確に読み取るということに主眼が置かれていた(そうとしか思えない)ため,この批判は“いちゃもん”に近いと思います。しゃべることに主眼を置いていて,そのような教育をしたうえでしゃべれない,というのが今の現状であれば,その批判は正当なのでしょうが。
 ハワイに行くことがとてもリッチな一握りの人しかできなかった時代(そんなに大昔のことではない)には,生の英語を聞いたり,英語で会話をしたりすることなどは,普通の人には一生出会わないイベントだったのかもしれません。そうであれば,会話よりも,手に入れやすい英字新聞や書籍を読むための力が必要だったでしょう。だから正確に読むことが重視されてきたことは,間違った教育ではなかったと思います。英語というツールの,正しい(?)使い方の教育だったと評価してもいいのではないでしょうか。問題は,人や情報の交流が変化してきたことに対応しなかったことだと思われます。外国語と触れる機会が,印刷物から音声や生身の人間同士に変わっていくことを先取りできなかった点は批判されるべきだと思います。
 おそらく,英語というツールの使い道は,読むから話すに変わっていくのでしょう。そしてその次が,情報を発信するために使うことになるはずです。大問題はここにあるように思います。発信する情報を持たない者にとっての英語とは何だろう? 日本語ですら満足に自分の考えを表現できない者が,英語で何を表現できるのだろう? 日本人は英語は話せるけど,世界に何も貢献していないと言われたくはないのですが。

■ ぶつぶつ5/31/2000
 昨日,自分のHPを見たら,学外アクセス総数が8000という,なんとも気持ち良い数字になっていました。いつもこのカウンターを見ながら思うのですが,だれが見てるのだろう?と不思議になります。知り合いの中に,コンスタントに見てくれている人がいることは知っているのですが。
 毎年5月には,学内のホタルのことを書いています。でも,今年はまだ見ていません。先日来,もうそろそろと思い,帰るときなど注意して探しているのですが。去年から今年にかけて変わったことといえば,新しく土を入れるなど駐車場が少し改修されたことでしょうか。でも駐車場を取り囲む雑木林の中までは手は入っていないと思います。なのになぜ出てこないの?? ちょっとした改修(人間にとっては)が,かれらに甚大な被害を与えたのだろうか?? 別に1時間も2時間も見ているというわけではないのですが,夜帰るときなど,心和む一時になるので楽しみにしているのに…
 去年は,雨の降った後に多く見ることができたという記憶があるので,今日,明日あたりを期待しています。

■ ぶつぶつ5/27/2000
 また,土曜日に学校に来てしまった。忘れ物を取りに来たのだが,外はじゃじゃ降りになってしまって,ちょっと待とうと思い,そのままHPのトップをいじってしまいました。
 昨日,車イスに乗ってみました。もちろん電動ではなく,手でタイヤを回すやつです。おかげで今日は肩から腕にかけてが痛い。うちの大学は学内にも坂があって,普通に歩いている時にはそれほどではないのですが,車イスだとそれがとてつもなく労力を必要とすることがわかりました。しんどいので休憩していたら留学生が押そうとしてくれましたが,体験中なので断り,下り坂では“楽だ”と思っていたらそのまま道をそれ植木の中へ,なんて初体験でした。大学でも街中でもスロープなんかを設置していますが,これは基本的に電動の車イスか,サポートしてくれる人がいることを前提にしているんだと思いました。これはやってみなきゃ分からんだろうということで,早速,教職をとっている学生に経験してみることを半強制してみました。そこで出てきた感想は,いつか別ページに載せようと思っています。
 ちょっと乗ってみただけですから,通常それを利用している人とは感じ取り方が違うのでしょうが,いろいろ考えることがありました。また,その留学生を含め二人の学生が声をかけてくれたことは,とても気持ち良く(心強く)感じました(私の顔を知っている学生は,“また浦上は何をやってんだか”と思ったことでしょう…)。

■ ぶつぶつ5/22/2000
 本日,心理人間学科のホームページを立ち上げました。スタッフも多くなったので,自分がイメージする“読める”ホームページ,各大学開設のどれよりも“まし”なホームページをと欲張っています。
 大学(やその学部,学科)が作っているホームページって,ろくなものが無いように思うのは私だけでしょうか? いまだに,雑誌や駅の看板程度にしかとらえられていないように感じます。駅の看板なら,否が応でも目に入ってきますが,HPは,見ようと思ってもらえないと見せられないものです。また自分がページを運営していて,中身を更新し続けないと人が離れていくというのは身をもって感じました。言い方は俗なのですが,週刊誌的に情報発信をしないとHPの効果(宣伝という意味もあるし,教育の一方法という意味もある)なんて生まれません。そういう風にHPを運営しているところは,私の知るかぎりではありません。
 大学のHPの理想型がどこにあるのかはわかりませんが,とりあえず行けるところまで行ってみよう! 年間10000アクセスビュー目標! なんて言ってみたりして。

■ ぶつぶつ5/18/2000
 昨日2000年度教育学科卒業生の卒論要旨をPDF化して,教育学科のホームページへ掲載しました。ファイルが比較的大きくなってしまったので,ダウンロードにしばらく時間がかかりますが,かれらの力作(?)なので,興味をお持ちの方は見てください。私のが出てる,っていう人は,感想など頂けたらうれしく思います。ただ,ヤメテというお願いは無視しますが。
 自分で作った何かを,広く一般の人に見てもらうということは,恥ずかしくもあり,またどことなくうれしいことであったりします。自分の判断における出来栄えによって,どちらの気持ちが勝かが決まってくるようです。私が今までに書いたものについても,二度と見たくないものから,結構気に入っているものまでありますが,それは「でき」の判断ではなくて,自分が投入した力によって決まるのかもしれません。要旨が公表されて,恥ずかしい気持ちだけの人は,もしかしたら力の入れ方が足らなかったのでしょうか。恥ずかしいけど,でもいいよ,と思える人は自分のがんばりを認めているのかもしれません。少し飛躍しますが,あきらめとか割り切りも,それができないときは,まだまだ力の入れ方が足らないときのように感じます。
 さて,今年の4年生たちはどんな姿を見せてくれるのでしょうか。来年の今ごろ,どんな気持ちで自分の要旨を見るのでしょうか。ニヤニヤしながら見ていようっと!

■ ぶつぶつ5/15/2000
 高等学校に対する,生徒のニーズ。これは昨日ある集まりに出ていたときに,ちょっとひっかかった言葉です。どういう文脈に出てきたかというと,進路指導としては生徒のニーズに応える必要があり,その一つが大学進学であるため,進学指導にも力を入れている…,という感じでした。
 これはあたっていると思います。ただ考えねばならないのは,大学進学のためというニーズは本当に生徒のニーズなのか,ニーズに応えることが学校の役目なのか,という点でしょう。第1点目は,それは親のニーズかもしれないし,今の社会が醸し出しているニーズかもしれない。ひょっとすると教師の側が,それを生徒のニーズだと思い込んでいるのかもしれない,という疑問が出てきます。
 後者の方だと,突き詰めると学校教育って何だ?というところにまで行き着きます。進学希望の高校生の多くは,大学に行くか行かないかという選択をしないとゼミ生が言ったことがあります。つまり,行かないということは考えず,行くことが前提であって,その上でなぜ行くのかという理由を見つけだすのだということです。それじゃあ大学へ入ったのにやる気の無いやつが出てきても仕方ないな,という話をしたことを覚えています。こんなことを無くするために,つまり大学へは進学するのだというあやふやな前提を,一旦ブチ壊すことも学校教育のあり方ではないか,生徒のニーズなんか信用できない,というスタンスもアリということになると思います。
 こんな話をしたりして,結構面白い時間を過ごすことができました。進学を希望している皆さんは,なぜ進学しようと思っているのですか?

■ ぶつぶつ5/9/2000
 どうでもよい人には,本当にどうでもよい話(全く分からない?)。私はずっとMacを使って仕事をしているのですが,久々にこいつに手を入れてやりました。PM7300/180をメインで使っています。昨年はG3/366を入れました。それでも何か遅く感じ,さらにHDも一杯一杯になってきたので,HDの変更を決意。ATA/66の13Gをボードとともに購入し装着。再インストールに5時間くらいかかったものの,極めて快調。体感的に速くなった,としみじみ…
 おそらく仕事でコンピューターを使っている人は多いでしょうが,遅いとイライラしますよね。最近のものは遅いといっても速いので(?),テキスト入力にイライラするってことはないでしょうが。この商売をやっていると,メインはテキスト入力なので,このような仕事をやっているときは少々遅いマシンでも大丈夫です。でも,雑用的に使うときは全く別です。ページメーカを開いて,ワードを開いて,エクセルを開いて,あっちのものをこっちに張り付け,これをこのように配置し…なんてやっているときに,裏でメールソフトがメールをとってきたりしていると,「フ,フリーズ…??」なんてドキドキしたり…。精神的にこれは良くない。
 ということで,しばらくはストレスが少なくなるはず。でも,代筆はしてくれないんだよなあ。

■ ぶつぶつ5/1/2000
 GW! 山のようにあった仕事がなんとか落ち着いてきて,あとはこの休み中に原稿を一つ仕上げれば…。
 私は,自分とこの大学と非常勤とで2つの教職(教員免許取得のために必要な単位)の授業をもっています。だいたい同じ内容で話しをするのですが,これが面白いようで辛い。例えば,「教師の仕事とは」という問いで意見を聞いてみると,「教科を教えることに集中するのが理想」といった意見から,「家庭でできていないしつけまで面倒をみるべき」といったものまで,様々な意見が出てきます。これらの意見は,それはそれで面白いのですが,辛いのは結論が出ない(出せない)ことなのです。いくら話が盛り上がっても,結局はうまい結論が出ない。教育に関する議論ってそんなもんだ,と言ってしまえばそれまでなのですが,授業をやっている方も不完全燃焼的な気持ちになります。本当に教師のやるべきこと,やらなければならないことって決まっていないんですよね。だから,いろんなことができる,という側面もあるのですが,サービスでやっていることを職務と間違えられてしまうって側面もあるし…
 GWの予定がない方。ちょっと考えてみてはどうでしょう。

■ ぶつぶつ4/26/2000
 つい最近わかったこと。このページを更新した直後は,見てくれる人が増える! Explorerの最新版を使っている人が多いのだろうか? 登録したページの更新状況がわかるようになると,更新回数が多くないようならば,見てくれる人が少なくなるんだろうなあ。
 授業が始まってから,3週間目に入ろうとしています。1年生が大学に入学して最初に戸惑うことの一つに教員の板書があると思います。高校までの先生は,「ここがポイント!!!」と,否が応でもわかるように書いていたのでしょう。それに慣れた人たちは,「大学の授業って何がポイントか分かりません」なんてことを言ってくる。もしこんなことを思う人は,「なぜノートをとっているのか」という基本的なことを考えてみてください。大学では,「ノートは必ずとりなさい」なんてことは誰も言わないと思います。ノートをとることなんて,勉強することの極々一部なのです。自分の理解を助ける,もしくは忘れてはいけないことを記録しておくといった,あくまでも補助的な行為なのです。ノートをとって満足しているようでは,はっきり言ってダメです。大切な何かを抜かしてしまっています。ノートをとるという行為を,もっと自律的に行ったほうがいいと思います。
 もうちょっとタネあかしをすると,私は授業用のノートは作っていません。授業中に配るプリントに少しメモがしてあるだけです。だから,まともにノートをとろうと思っても,かなり難しいのではないかと思います。大切な(と私が思っている)ポイントを3つくらいと,その周辺の話をしているだけです。それ以上でも,それ以下でもありません。それから先は,聞いている人の判断に任せるというのが私のスタンスです。
 社会に出たら,人と会って話をしたり,人のレクチャーを聞いたりしても,誰も「これがポイントだ」なんてことは言ってくれません。自分の判断で,メモをしたり録音したりするしかないのです。その練習と考えたら,大学の授業の板書はこれでいいのかな,と思っているのですが…

■ ぶつぶつ4/25/2000
 あれ?アレ?と言っているうちに,もう4月が終ってしまうではないか。シャレにならないくらいにやらなきゃいけないことが溜まっている。雑務の間に授業をやっていて,研究の時間なんてない,という寂しい状態。
 先日,岡山にちょっとだけ帰省しました。私が高校への通学の時に見ていた風景とは,かなり変わってきていました。でも,全体的には,やっぱり華の無い街…。それはいいとして,岡山にもやはりいました厚底履いたガキ,いや,お嬢さん。何度見ても,どっから見ても,不細工! あれとルーズソックスのセンスはわからん。池袋にも生息していたし,新宿にも,栄にもいた。逆さパンダのメイクも入れると,不細工になることがトレンドなのか? 世の中には美人もいるから,トレンドにしたがってみんなが不細工になろうとすれば,見た目に均質化してきて,美人とは言い難い人も目立たない。さらに,これがトレンドだと胸を張ることができる。いいことだ(かなり言い過ぎ?)。
 装うとか化粧をするってことは,個人の欠点を隠し,良いところを引きだすことだと思っていました。どこまでも,個が主体だと。でも,どうも違うみたい…

■ ぶつぶつ4/6/2000
 締切りを過ぎた原稿を抱えているのですが,いまいち乗れないので,ちょっとさぼってこんなものを書いています。言いたいこと,書きたいことはたくさんあるのですが,それがあるからまとめられるってわけではないんですよね。
 先月,引っ越しをしました。自宅の方ではなく,研究室のです。今までは南向きだけど古くて狭い部屋だったのですが,引っ越して,新しく少し広くなりました。でも窓が東にあるのです。南山大学には正門付近に大きな桜が何本かあり,以前の研究室からはそれがよく見えたのです。研究室にいながら,一日中花見ができました。でも新しいところでは,それが見えません。正面に東山タワー(ローカルですみません)が見え,その向こうには雪をかぶった山々が見えます。小牧の空港へ降りていく飛行機も見えます。緑もけっこうたくさんあります。でも,あの桜は見えません。
 雲一つない空を,今,ANAの飛行機が西日を受けながら通っていきました。でも,私の頭の中は曇りのまま…。桜が見えてても同じかな。

■ ぶつぶつ4/3/2000
 状況的には新年度なのですが,私の中と周りは,未だ3月頭くらいの進捗状況のままで止まっています。まずい。いろんな意味でまずい。どうしようもなくまずい状況なのですが…
 先日のニュースで,小学生の化粧が取り上げられていました。「小学6年生」というあの雑誌で,メイクの特集が好評だということです。しかしインタビューに対する編集者の声が,今一つ歯切れの悪いものであったことが印象的でした。どうも,小学生が化粧をすること自体については積極的に勧められるものではないと思われているようなのですが,ちょうど興味を示しはじめる年ごろであり人気があること,その時に間違った知識を持ってほしくないことなどのために掲載しているというようなコメントだったのです。「結局,人気取りじゃないか!」と,突っ込みを入れたくなるような言い方に聞こえました。
 その後,ローティーン向けの化粧品が出ていることも紹介され,一つのマーケットとして狙われているなあと感じました。どこかで誰かが購買意欲を刺激している,子どもたちはそれにさらされているだけ,という状況をまざまざと見せつけられたような気がしました。このような子どもたちの状況に,親はどのように対処していくのだろう? どうするのがいいのだろう? なんて考えていると,ある人は誰かの購買意欲を触発し,それで給料をもらい,その人は違う誰かの刺激にあおられて,もらった中からお金を出している,というつまらない連鎖が頭に浮かびました。人のことは言えないけど。

■ ぶつぶつ3/31/2000
 えらく久しぶりの更新になってしまいました。いろんなことが,いろいろとオーバーラップし,パラレルな進行になってしまって,私の頭はハングアップ,という感じです。まだまだ何も終らないまま,とうとう明日から新年度。
 今年も,学生の入れ替わりの時期です。こんなままで卒業させていいのだろうかと思いつつ,外の風に吹かれてみたら何か新しいことをつかめるかもしれないとも思いつつ,2度目のゼミ生を送り出しました。卒業式・謝恩会というのは,私にとって悲しいわけではないけれども,単純に喜べるものでもないんです。
 そんな感傷に浸っている暇もなく,新しい学生を迎える準備も進めなければなりません。今度入ってくる連中は,どんな顔,行動,思考を見せてくれるのでしょうか。これもまた,期待と不安が…。この商売をやっていると,年度の変わり目はどうも落ち着かない…。

追記:この1年間で7000件を越えるアクセスがありました(どうも今月は,一時的にカウンターが止まっていたといううわさあり)。多いのか少ないのか判断に迷うのですが,来年度もいろいろ考えて,書いてみようと思う今日この頃。

■ ぶつぶつ3/9/2000
 痛みもひき,チューブもとれ,健康はなんていいんだろう…。風呂にも入れる!
 前回,「不便に思う人が手を上げるしかないのでしょうね」と書きました。書き終わってから,自分もやらなきゃ,ということで,お世話になっている病院宛,椅子が低すぎるんですがという要望をメールしました。
 こんなページを作っていると,時々面識の無い人から何らかの依頼を受けることがあります。節度のある文面と,どう考えても自分勝手な文面とがあったりするのですが,それによってこちらの対処は大きく変わります。何度もメールをやり取りしながら依頼に応えたこともありますし,カチンときたため,それに対する抗議のメールを返信したこともあります。だから,自分が意見を示すときにも気を使ったつもりです。
 正直なところ,読み捨てられるのがオチかなと思っていたのですが,なんと回答が帰ってきました。意見を提出したことに対するお礼に加え,いろいろな都合もあり,急にはすべてを取り換えられないこと。しかし,順次見直し作業をすすめていること,などが書き添えられていました。当たり前といえば当たり前のやりとりなのですが,当たり前が当たり前としてできていることをうれしく感じましたし,このような体制であるなら,そこは信用できる病院かなと思いました。ちょっと単純すぎるかな?

■ ぶつぶつ3/4/2000
 おへそにチューブをさし込まれたのが月曜日。毎日欠かさず病院通い。また病院から大学までが歩いてすぐなので,結局は毎日出校している今日この頃。昨日,1.5センチもあるヘソのゴマ(医者いわく。私にはそうは見えなかった)が出てきて,これで治まるのではないか,とのこと。これで,切らなくても済むか…
 そんなこんなで,お腹が気になって普通に歩けない日々です。ゆっくり歩くことは,自分の視野を少し変えてくれました。まず横断歩道。ゆっくりしか歩けないおじいちゃん,おばあちゃん並の時もあったのですが,これが結構怖い。大学と病院の間には,片側2車線の道があるのですが,向こうに着く前に信号が変わったらどうしよう,なんて思いました。走れないし。点滅でせかされても,どうしようもない人だっているんだ,ということを身をもって体験できました。それから,椅子に座るときもお腹が気になります。病院の待合室や,応接セットの椅子は低すぎる。車の座席も。足腰の弱い人には,もう少し高いほうが座りやすいし,立ちやすいと思うんだけど。
 やはり,普通の人が普通に生活している場合には,気がつかないことがたくさんあるみたいです。それはそれで当然だと思うので,不便に思う人が手を上げるしかないのでしょうね。

■ ぶつぶつ2/29/2000
 痛み止めの効き目が薄れてきたか。ちょっと痛くなってきた。という,変な状況の中で書いています。皆さん,お身体を大切に。
 先日来,病院にお世話になっています。眼科と歯科以外で病院にかかるのは,大学に入学以来だと思います。十数年間,それほどたいした病気をしなかったのは幸運だったのでしょうか。以前から,病院は病人を病人らしくさせるところだと思っていたのですが,久しぶりに行ってみて,そのイメージを変えようという姿勢は見られるものの,でもまだ“病院”から抜け出せないなあという印象を受けました。病院は病院だから仕方ないのでしょうが,もっと大胆にイメージチェンジをしてもいいのではないだろうか,ぜひそうしてほしいと思います。個人的希望として,待合の椅子を何とかして! 背もたれのある椅子を! でも病院の雰囲気は,結局は病人が作っているんだろうなあと思います。その雰囲気作りに貢献している今日このごろ。

■ ぶつぶつ2/20/2000
 私は現在,自分のものを含めて,3,4のホームページの作成にかかわっています。そういうものを作るのが好きということもありますが,情報発信手段としてのホームページ(インターネット)の可能性に興味があるということろもあります。ただしテクニカルな点,cgiやjavaなんかには,今一つそそられないのですが。
 現在,実験的にやらせてもらっている(?)仕事に進路指導学会のページがあります。その中に,会員のリレーエッセイのページを作っています。これが結構面白い(と自分では思っている)。学校の先生はもちろん,子どもをお持ちの方などにも読んでもらいたいと思っています。進路指導なんて,夢を語り始めればきりがないのですが,現実を語ってもしょうがないものです。時に,「そんな理想を言ってみても」という人も出てくるのですが,理想を語り,理想に向かって動かないかぎり,現実は変わらないのです。子育てはもちろんですが,教育に携わる者が理想をあきらめたら,そこでおしまいだと思っています。学歴の問題など,その最たるものでしょう。いけないと言いながら,現状から“自分の意志”で降りられない人が多いだけの話です。降りたいけど,降ろさせてくれない社会だという側面は否定しませんが,そう訴える人は,その程度でしかないのだと認識するようにしています。降りることを禁止している事実は,どこにもないのですから。
 話が,あっちこっちしてしまいました。教育に携わっている人は,理想をあきらめないでおきましょう,と言いたかっただけです。

■ ぶつぶつ2/9/2000
 昨日の「万物創世記」という番組を見た方はどれくらいおられるでしょうか。ああいうのが大好きな私は,エンディングでの分析・ナレーションにはため息をついたものの,非常に面白く見させてもらいました。録画しとけば良かったと思うくらいに。
 最初に出てきた岡野さん(リチウム電池のパッケージを作った人)は,この年末(年始だったか)の番組でも取り上げられていました。確か社員一人あたり1億以上の売り上げを出している町工場の経営者です。この人が以前の番組で,「町工場の経営者でも,自分の車は手入れをするが,工場の機械や車は手入れをしない人がいる」というようなことを言っていました(記憶が確かならば)。自分や自分の家族を養うためのものには手をかけず,趣味・道楽のものに手をかける。仕事よりも自分のプライベートな生活を大事にするという発想は,私自身も否定はしません。ただ,それぞれへの比重の置き方は注意しておかなければならないでしょう。ここらあたりでも,自己責任という言葉が重くのしかかってきます。ついでに,そんなことも思い出しました。

■ ぶつぶつ2/1/2000
 大学院生や,大学院を希望している人に「ぶつぶつ」言いたいことをまとめたページを作り始めました。トップページ「その他」の中にあります。刺激を欲している人は読んでみてください。
 このようなページは,以前から作ってみたかったものの一つです。幸い(不幸にして?),出身大学院まで歩いて7,8分で行くことができ,中の様子ももれ聞こえてきます。あきれたり,嘆いたり,怒ったりしているOBの話も耳にします(当然私もその中の一人ですが)。これらは,その人の人生の中における大学院の位置を客観的に考えたとき,どうしてそのような態度・姿になってしまうのだろう,という疑問から出てきていると思います。後輩を見ていると危なっかしくてしょうがない,という気持ちから出てきていると解釈しています。自己責任だから潰れても仕方がないと思ってしまえば楽になれるのでしょうが,そうとも割り切れない優しい人がたくさんいます。人の言うことに耳を傾けるか,耳を塞ぐか,院生や院希望者の人は考えてみてください。

■ ぶつぶつ1/27/2000
 こないだうちから(方言かな? この前から)書きたいことはたくさん出てきたのですが,時間がとっても無いので,シャボン玉のように消えてしまっています。やはり,メモをとっておかないと駄目かな。
 学生と話をしていて,時々,とても腹立たしく思うことがあります。あきれる,と言い換えたほうがいいのかもしれません。そのことを考えていると,ふと「要求」と「欲求」という漢字が頭の中に出てきました。それで辞書をひいてみたのですが,「欲求」は「ほしがりもとめること」,要求は「強くこいもとめること,しいてねがい求めること」なんて書いてありました。私の感覚は間違っていなかった。腹が立つのは,「要求」するべきところで「欲求」をぶつけてくる時なのです。「要求」のなかにはあるはずの,「ねがい」というところが見えない(見せない)時なのです。要求は考慮しますが,欲求は聞き流す,もしくは無視する,もしくは「だから?」と聞き直すというのがスタンスになってきています。おもしろいのですが,「だから?」と聞き直すと,それまでは個人の欲求として語っていた(本人はそれを要求の表現だと思っているのでしょうが)ものが,ちゃんと要求の言葉に変わったりします。できるのなら,最初からそういうように言え! ガキじゃあるまいし。
 てなことを思っていたら,意を尽くすためには,ちゃんと言葉をあやつるすべが必要なんだなと我が身を振り返ってしました。私も下手なんですよね,これが。

■ ぶつぶつ1/13/2000
 今年もいろんな方から,年賀状をいただきました。ありがたいことです。私も,何とか30日には一通り出し終えて,ぎりぎりで危機回避となったのですが,手を抜いたところが無いとも言いきれないのです。
 カラープリンターの普及や写真をはがきに印刷してくれるサービスが普及したためだと思いますが,写真入りの年賀状が結構ありました。でも,これは面白いことなのですが,2つのパターンに分かれるようです。一つは毎年家族の写真を印刷しているパターンで,もう一つが毎年子どもの写真を印刷しているパターンです。「生まれました」の連絡ならば子どもだけの写真でもいいなと思うのですが,毎年年賀状で子どもの姿だけが届くのは,なんとも寂しいなあと思ってしまいます。私の知り合いである,“その人”が写っていないからです。私もフケたし…なんて言わないで,せっかくの写真入り年賀状なんだから顔を見せて欲しいなあ。
 そういえば,以前ばあちゃんが,「世の中,子どもが欲しいのにできない人もいるのだから,年賀状で子どもを見せびらかすのはいかがなものか」と言っていたことも思い出しました。

■ ぶつぶつ1/5/2000
 あけましておめでとうございます(はたして誰に言っているのやら)。飲み続け,食べ続けの正月でした。リハビリを兼ねて学校に顔を出し,近日中にやらなきゃいけない仕事を見つけました。いつもと変わらぬ年明けです…
 昨日の夜,車でこちらにもどってきたのですが,これまでとはちょっと違った走り方を発見(それほどたいしたものでもないが)しました。いつもは,高速を私より速い車はそうはいないくらいのスピードで走っているのですが,今回は私より遅い車はそうはいない,くらいのスピードで走ってみました。まあ,80から90キロくらいですが,これだと車の中がけっこう静かなのです。そうすれば,ハイテンションではない曲(昨日はジャズでしたが)も十分に聴ける(聞こえる)のです。ちょっとやかましいバー,程度には音楽を聴くことができます。右側を流れていく車のテールランプを見ながら,一人違う世界を楽しんでいました。これで酒でもあったらと思ったのですが…
 爺臭いかもと思いながら,新たな発見をしたようで気分の良いドライブでした。