ぶつぶつ(1997年〜1999年)

…単なる独り言…

■ ぶつぶつ12/29/1999
 これで最後。帰省しよう。
 今日,学生といろいろと話しをしていたのですが…。親,教師,社会…。親や教師は,子どもに対していろいろと援助する。かれらにとって良かれと思われることを。じゃあ,かれらにとって良いものって何だろう? 個性?自主性? かれらは次の社会を生きていくわけです。あと数十年後の社会がかれらの活躍の場なのです。その時に,個性が必要なのか,自主性が必要なのか。
 今の社会では,個性は不要なのかもしれません。個性の強すぎる人は排除される場合もあります。親はいろいろな場で働いていると思われますが,一緒に働きたいと思うような人間はどのような人ですか? もし子どもの将来(就職という意味で)を考えるならば,一つのあるべき姿は自分が一緒に働いてみたいと思えるような人間であるのではないでしょうか。そこにどのような条件が出てくるのか。それが子育ての差として出てくるはずです。自由に伸び伸び育てて,末は公務員に,というのは何か違うような気がしますし(ちょっと固定的に考え過ぎかな)。武士の子は武士になるように教育され,商人の子は承認になるように教育される,という雰囲気は現在にはマッチしないように思いますが,ある側面では,教育の一面を的確に言い当てているような感じもします。よね。

■ ぶつぶつ12/25/1999
 メリー・クリスマス! だけど学校にいる私って… これで今年も書きおさめかなあ。もう一度くらい書くかなあ。
 京都の事件といい,いろんな意味で社会問題になりそうな事件が続発しています。心理学をやっている人間として,このような問題とどのようなスタンスをとるべきなのか?ということは常々感じる問題でもあります。マスコミを見ていると,何人かの識者がいろいろとコメントを発していますが,私にはできそうにないことです(誰も頼みには来ないけど)。研究者としてコメントするべきだという考え方もありますが,私はすべきではないと考えます。我々がコメントすべきなのは,事件が起きる前と,すべてが終った(明らかになった)後だと考えています。人々の関心が高いのは,この間の時期だということはわかっていますが,その時は肩書きをもってしゃべるべきではないと思っています。別に捜査を頼まれているわけでもないし,情報を持っているわけでもないし。すべてが明らかになったとき(といっても分析できるだけの情報は一般には公表されない),原因を究明し,それが次につながらないようにコメントするというスタイルが,研究者の仕事だと思っています。
 今できるのは,マスコミの報道姿勢を客観視するだけ。世の中をもう少しよくするための報道か,ウケをねらった情報の垂れ流しか,私の目にどう映るやら。

■ ぶつぶつ12/16/1999
 来年度から,結構多くの大学で健康や臨床に関する心理学をメインとする学部・学科が立ち上がるようです。時代の流れ・要請といえばそれまででしょうが,今一つ納得いかないところがあります。
 具体的なカリキュラムなどは知らないし,それも見ずに言うのは変ですが,ちょっと不安というのが私の心境です。何が不安かといえば,視野が決して広いとは言えない学生が,健康や臨床といった社会的な問題も影響している問題にうまくアプローチできるかという点です。学部で臨床心理学中心に学び,大学院に進んで臨床心理士の資格を取って…,という進路で本当にいいのかな? できないことはないだろうし,それが将来役に立つ可能性も否定できません。でも,こればかりは…と思わないこともないのです。教員養成にしろ,臨床心理学にしろ,大学院レベルで入学は25歳以上,とかとやっちゃった方がいいのかなと個人的には思ったりします。
 それから,もう一つ考えさせられたこと。マツダの次期社長38歳。38,社長。ほー…。

■ ぶつぶつ12/13/1999
 日曜日のとあるホテルのロビーでのこと。4,5人の子どもが元気よく走り回って遊んでいました。ここが公園ならばほほ笑ましい光景ですが,ホテルのロビーなんです。あなたが自分の子どもをそのような場所に連れていっていたとしたら,どうしますか。
 そこにその子たちの親らしい人たちもいました。その子たちに目を配っていたところ(こけたりしたらそばに行っていたし,ロビー外に行こうとしていたら止めていた)はいいのですが,ロビーで走り回らせることには抵抗を感じていなかったようです。そこにまたまた別の大人登場。何をし出すかと思えば,子どもと追っかけっこを始めてしまいました。唖然…
 多分,この子たちは「場所をわきまえる」ことを教えられずに育つんだろうなあ。かわいそうに…。親も知らないようだから,仕方ないか…。それから,その光景に何も言わなかったホテル側の姿勢。そういうホテルになることを目指しているんでしょうね。それも生き残る一案か…

■ ぶつぶつ12/10/1999
 パソコンが使えるってどういう意味なんだろう。パソコンの学校は何を教えてくれるのかな?
 こんな疑問をよく感じます。キーボードを打つスピードが速くても,実際キーボードを打っている時間よりも,何を打つかを考えている時間の方がよっぽど長いのです。何かしなくてはならないもの,したいことがあって,初めてパソコンが役に立つのかそうでないかが決まってくると思います。でも,何かそこが逆転しているように思います。パソコンができれば何かできる,というような考え方がまん延しているような感じがするのです。
 それから,パソコンの売れ行きが伸びているといった話を聞きますが,いったい何に使っているのだろうと疑問に思います。普通の家庭で何に使うのか?私の利用は,90%以上は仕事絡みですので,家に無くったって別に問題にはならないと思います。そうであれば,一時の気の迷いか,ファッションか? 躍らされているだけじゃなければいいのだけど…

■ ぶつぶつ12/2/1999
 ここのところ,出だしに年末話題が続いています。Y2Kも問題ですが,個人的にはこの年末問題のクリアが先決だったりして…
 書こう書こうと思っていて,ついつい忘れてしまっている話題があります。それはスーパーのレジのスピードです。キーからの入力は,最近ほとんど見なくなりました。だから,“おいおい”と思うほど待たされることは無くなったのですが,最近ペースが速すぎることに不快さを感じることがあります。特に高校生くらいのバイトと思われるレジの人にいるのですが,「○○円になります」から,こっちがお金を出して,それを打ち込んで,おつりとレシートを出して,「ありがとうございました」までのピッチが速すぎると感じるのです。手早く作業をしているのはいいのですが,「速くしてよ」と暗にせかされているような気がしてしまいます。効率を上げるには速いほうがいいのだろうけど,気持ち良いスピードというものもあるよなと感じてしまう今日この頃。

■ ぶつぶつ11/30/1999
 今日で11月も終り。明日から12月。師も走る師走とはよく言ったものだと思う今日この頃。来年度の計画,後期の試験および採点,卒論の審査,入試など,仕事てんこ盛りのこれからです。
 11月のアクセス集計をしてみたのですが,これがけっこう伸びていて,1日平均の学外からのアクセスビューが26.21件。ちなみに学内からは1日平均約4件で,私がチェックのために毎日見ているので1引いて,約3件。Yahoo! に登録されてからの8月と比べると,学外からのアクセス数は約2.5倍に増えているという状況です。でも多分来月ぐらいがピークになり,その後減っていくと想像しています。なぜならSPSSおたすけマニュアルへのアクセスが減るだろうと予測されるからです。(もしかすると来年度は,R.9.0 for Win 版を作る羽目になるかもしれない)
 今,必死でSPSSと格闘し,疲れた…ということでこれを見ている学生,院生の人たち。お疲れさまです。あと一踏ん張りしてください。

■ ぶつぶつ11/26/1999
 今朝ごみを出そうとして家を出たら,「何かいつもと違うぞ」っていう感覚に襲われました。何だろうと思ってキョロキョロしていて,見通しがよくなっていることに気づきました。広葉樹が葉を落としているんだ。
 ああ。今年もあと一月ちょっと。今年は何ができたんだろう。研究…ほんの少しした(少ししかできなかった)。執筆…何冊か書いたけど,量としてはそんなに多くない。教育…成果が見えない。うーん。いろんなところで雑用はたくさんした。
 振り返るのは恐ろしいことです。振り返って考えているより,とりあえず年賀状のことを考えよう。

■ ぶつぶつ11/16/1999
 久しぶりにゆっくり本を読んだ。大前研一氏の「一人勝ちの経済学」(光文社)である。別に,経済学を知りたかったからではない。大前さんの番組で紹介されていて,サブタイトルの「選択をやめた日本人」というところに惹かれたからである。内容紹介はしないので,興味のある人は読んでみてください。
 現在の日本では,「選択肢を与えられれば与えられるほど,人は選択しなくなる。」うんうん。あたっている,と思う。心理屋さんとしては,次になぜそなるのかを知りたくなるのだが,氏は人と一緒でない恐怖,一緒である安心などという表現を用いている。うん,これも納得できる。でも,私はもう少し違った分析もしている。まず,選択肢は与えられているが,それらは本当に選択肢として選択者の中にあるのかということ。選択肢は,選択者の中で迷いを生じさせてこそ選択肢であり,第3者から見て選択状態にあっても,その人にとっては選択事態ではないことはよくある。私がPCの購入を考える際に,Windows系のNECや富士通やDELLなんかは選択肢にならないように。そう考えると,選択をやめているのではなく,ムードに流され,選択肢を持てなく(持たなく)なっているのかもしれない。
 それから,選択するということ自体への恐怖。選択(これは決定を含むのだが)につきまとう,その先にあるかもしれない失敗への恐怖や,他の選択肢という可能性を失うことへの恐怖,それに対して責任を取らなければならない恐怖,といったものである。もし正しい(そんなものがあるかどうはは疑問だが)選択肢が一つしかなければ,選択肢が2つの場合と10の場合では,当たる確率が全然違う。選択肢が増えれば増えるほど,このような恐怖は大きくなるのかもしれない。
 興味柄,就職先の選択,人生の選択などという選択事態を見て見ると,こんな分析もあたっているんじゃないかと思う。授業でも言っているのだが,選択肢が増えると,選択は難しくなる。だからといって人に続くと,気づかず赤信号を渡っていたりする。自分で選択しなかった責任はとりたくない(選択していないので責任のとりようもないのだが)ので,自分をそのように流してしまった社会や制度のせいにしてしまう。なんてことを考えてしまいました。

■ ぶつぶつ11/15/1999
 先日,いい天気なので,自転車で出勤。名古屋大の中を貫けてきたのですが,結構な数の亀が池のほとりで首を伸ばして日向ぼっこをしていました。ただし京都の鴨川の河原のように,等間隔にはならんでいませんでしたが。人と亀は違うんだ…
 自転車に乗りながら,なぜか自立について考えていました。どこから考え初めてここにたどり着いたのかはよくわからないのですが,親も子どもも学校から自立しようよ,という自分自身の結論に至ったのです。いろいろ考えていると,親も子どもも学校によりかかりっぱなしではないだろうか。特に自分でやることが面倒臭い部分について。勉強はもちろん,しつけや友人関係,はては将来のことまで。学校と家庭って,子育ての分業をしているわけではないと思うし,先生が子育てのプロだとも思わない。教職の科目を担当することもあるけど,その時に,子育てのプロになるためなんて事は考えていないし(まあ,重なるところもたくさんあるけど)。学校って所,先生という仕事,利用者としてこれをどのように使うかってことも考えないと。学校から自立するってことは,学校に任せる部分と,自分(たち)でやる部分をきちんと認識するってことだと考えています。当然,利用者には権利だけでなく,利用者としての義務も生じてきますし。

■ ぶつぶつ11/10/1999
 久しぶりに,このページをざっと見直したら,誤脱字が多い,言い回しのおかしいところがある,はおいてて,長くなってきたなあと感じました。とくに今年に入ってからのものが,それまでに比べて長いし,書く回数も多い。つまり,ぼやきたいことが増えたわけだ…
 ほとんどがテキストなので,ダウンロードに時間がかかるってなことは無いと思いますが,いらないものまでも表示させる時間を待つというのも嫌なことだと思います。私自身,あまり意味があるとは思えない画像を読み込む時間を待たなければいけないようなページは好きではないので。ということで,1998年度までに書いたものを分離することにしました。ただそれだけです。

■ ぶつぶつ11/8/1999
 あっというまに,もう11月中旬に突入。何年か前から,10月末から11月初旬にかけてが,一年で最も体調の悪い時期になっています。季節的にはいいはずなのに,なぜか体はそれに対応しないようです。
 私の所属している学会の大会シーズンも無事(?)終り,来年度の時間割作成と卒論と入試のシーズンに突入です。時間があれば学会には顔を出すようにしているのですが,最近自分が教員になってきているような気がして嫌になることがあります。教員であることは確かなのですが,学会では院生も教員も区別なく,すべての人が一人の研究者として他の研究者と話しをするところだと思っています。でも最近,若手の人と話しをしていると,ついつい指導的な言葉をはいている自分に気がつきます。まるで,自分とこの学生を指導しているみたいに。これは悪いことではないと思うのですが,何かしっくりこないのです。時には,もっと反論してくれたり,意見を押しだしてくれてもいいのにと思うこともあります。顔色をうかがわれているような感じがするときもあります。
 これは自分が歳をとった(もっと若い人が出てきた)ためなのだろうか? 最近,「若いねえ」と言われることも減ったし。あと10年たつと,私はどのように見られる人になるんだろう?

■ ぶつぶつ10/28/1999
 頼みもしないのにやって来るものの一つが,新聞屋さん。新聞屋と言っても,記者ではなく配達の方。チケットをピラピラさせながら我が家にもやって来ます。
 「今何をとっておられます?」「今ならビール券○枚!」「○○の入場券も!!」「洗剤もつけますよ」「半年先から6ヶ月だけでもダメ?」,まあ,このあたりまでならよくある話。この間は,通算2回目になるのですが「今の世の中なら,新聞なんてどこでも一緒ですよ」とほざきやがった(言葉が汚い)。一緒にしか見えない(読めない?)のなら,えさで釣るしかないのもよくわかる。でも,大手のものだけを比べても,カラーはある(二度ととるか,と決めたものもある)。それさえ気づいていないのか? 自分が配っている新聞に,プライドは持てないのか? 記者さんたちは,この現実をどう思っているのだろう? 「ウチの新聞は文化・社会面に力を入れてますから。他のとはちょっと違いますよ」なんて勧誘は受けたことが無い。
 ということで,今は勧誘に来ないところの新聞をとっています。

■ ぶつぶつ10/27/1999
 先日,古いMacを引っ張り出す機会がありました。030CPU,メモリは8メガ,80メガのハードディスクという状況のものです(iMacよりもずいぶん高かったものなのに…)。今これを使いながら,この文章を書いています。
 文章を書くだけなら,これくらいの性能で十分なんですよね。画像を使うのであれば,最新のものでも遅いくらいなのに。そんなことを考えながらキーを打っていると,私の頭の中のスピードは,ここ数年で変わったのだろうかと久々に考えてしまいました(コンピュータの進化の話を聞くと,時々考えることなのです)。少なくとも,コンピュータの進歩のように劇的には変わっていないように感じられます。でも,考え方というか,これをこういうふうに考えれば考えが進むというような,思考のスキルというようなものは身に付いてきているように思っています。職人さんが,仕事をするときに使う勘のようなものでしょうか。でも,自分なりの考え方のスタイルが確立されてくると,違った考え方をするのが難しくなってきていると感じることもあります。学生と話をしていると,そういうふうに考えるのかと思う時があります。そんなときは,素直に面白いなあと思う半面,そのような考え方が思いつかなかったことが悔しくもあります。
 そんなふうに考えていると,思考のスピードが速くなることに,どんなメリットがあるんだろうと思ってしまいます。「速く」「正確に」に加えて,「多様に」ができるようになったらメリットと言えるのだろうか…

■ ぶつぶつ10/13/1999
 ゼミ生の指導を始めて3年目。最近,一つの傾向がわかりました。これを乗り越えないと,論文なんて書けないよと言いたいほどのことですが。
 次までにAについて考えてこい,というと,Aの周辺の事について調べてくる場合がほとんどです。こっちがそれを期待している場合もあるのですが,ゼミとかで期待するのは,Aについて人々はどのように思っているのか,どのような研究がなされているのか,どのようなことが現在の問題になっているのかなど,周辺の事ではなくて,Aという問題の厚みのようなものである場合がほとんどです。どうも,平面的な広がりを考えることはできるようなのですが,立体的な厚みを持たせるような考え方は下手なようです。(この表現,わかっていただけるでしょうか?)
 Bという現象とCという現象を平面的に考えていくと,その共通性は見えてきません。重ねてみると,それがぼんやりと見えてきたりします。知識を横並びにせずに考えていくことが大事だと思うのですが。これがまた,表現するのも難しいし,指導するのも難しい…

■ ぶつぶつ9/28/1999
 校内に学生が戻ってきました。これから年明けまで,わさわさとした雰囲気が続くのでしょう。これの雰囲気が,いいのか悪いのかは一概には言えませんが,まっいいか。
 久しぶりに若者の大集団を見て,変だなあとつくづく思います。小学校,中学校は義務教育ですから,該当する年齢になると通わなければなりません。同年齢を集めることは,様々な側面での発達の程度が類似しているので,一斉指導を行いやすいのです。でも,大学はちょっと違います。できれば様々な年齢の人がいて,経験してきたことも大きく違っているというほうが面白くなります。でも,徐々には変わってきているものの,現状は20前後の学生が大半です。もう少し年齢構成が多様になったほうが,「ふつう」のコミュニティーになるような気がしてなりません。
 世の中の30代以上の方々。大学に来ませんか? いろんな文化教室に通うのもいいけど,大学もいいですよ。お子さんが勉強しないとお嘆きの方。身をもって勉強している姿を示しませんか(家でテレビを見ながら,子どもに「勉強しろ」といっても説得力はないですし)。いいモデルになれますよ。親子で勉強を競っているというのも,結構いいのではないでしょうか。

■ ぶつぶつ9/20/1999
 頭の体操に,お金の話についての考えをアップしました。それがベストな回答かと問われても返事のしようがありませんが,今考えているところを整理してみました。当然,別の考え方もあるはずです。(全くの私信。K市のK高校のY先生。もしご覧になられたらご意見お寄せください)
 お金の話というのは,非常に扱いにくいものです。お金に執着する人に対するステレオタイプの影響もあると思います。「お金,お金」と騒いでいる人には,なんとなく人間味のない,否定的なイメージを持ちやすいのではないでしょうか。でも,表には出さずとも,裏ではどうしようかと考えている人,お金とどう付き合ったらいいかよくわからないと思っている人は多いでしょう。この2重性が,今一つお金についてすんなりと語れない原因のように感じています。
 私見の中でも書いたように,お金とのつきあい方は生き方によって決まるといってよいと思います。収入によって生き方が決まる,という考え方もあるでしょうが,前途ある青少年に語るには「ちょっと」という気もします。なんとも難しい… (ソニー生命のHPなど,結構身につまされて…)

■ ぶつぶつ9/16/1999
 またまたHPネタで恐縮です。
 ここ数日,というかもう数週間になると思いますが,PDF形式のファイルがすべて白紙になってしまっていたようです。どなたからも指摘がありませんでしたが,本日修正しましたのでこれからは大丈夫だと思います。
 原因は,ホームページProのバージョンを変えたことにあったようです。以前ver.2を使っていたときは,PDFファイルだろうが何だろうが,別の転送プログラムを使わなくてもうまくアップロードできていたのですが,ver.3に変えたらPDFファイルだけうまくアップロードできなくなってしまっていました。バイナリとPDFの相性が悪いようです。これで3時間も使ってしまった…。べつに誰のせいでもないのだろうけど,このむなしい時間の使い方はねえ。

■ ぶつぶつ9/8/1999
 私のホームページを大改造してから,半年が過ぎました。飽きっぽい私としては,変えようかなあなんてことを思ったり…。新しいコーナーを作ろうかなあ,なんてことも思ったり…。
 一番に思いつくのが,本格的な心理学のコーナーを作ることです。でもこれは,考えては止め,考えては止めしている問題でもあるのです。なぜか。私は大学に在籍し,給料のいくらかの部分はそこで講義をしてもらっているといってよいと思います。非常勤先とか,その他で話をするときも,話をしてお金をもらっています。ホームページだと,無料で講義をするのと同じだから割に合わないから止めている,という意識もちょっとだけあります。
 でも大きな理由は,儲からないからではありません。私の話を,お金を払って聞いている人がいるということが重大なのです。お金を払っていても払わなくても,同じ情報を得られるという状況を作ってしまったら,払っている人に申し訳ないと思うのです。受講生用のページでも同じことで,出席せずにページだけを見ていても,出席したのと同じだけの情報が得られるという状況を作ってはいけないと思っています。このあたりは,商用の他のページと同じような状況と言ってよいでしょう。
 だから,何となく自分でも中途半端だなあと思ってしまいます。でも,このページを見ていると,何となく私がどんな話をしているのかを想像できるような気もしますが。

■ ぶつぶつ8/31/1999
 Yahoo!に登録されてから1ヶ月がたちました。大体ですが,現在学外からのアクセスが日に10件程度です。これは,それ以前の約2倍のアクセス数になります。これが,じり貧にならないように。
 時々,この学外からのアクセス者はどんな人なんだろうと考えることがあります。研究仲間や大学生,大学進学希望者あたりかなあと思っています(心理学領域では有名な「こころの散歩道」というサイトがありますが,そこの訪問者とは,ずいぶん違うだろうなあ)。基本的には,“固い”話(と自分では思っている)が多いし,説教臭いし,はやりの臨床心理学には手を出していないし。それでも,日に10件!? 迷い込んでくる人が多いのかな?
 たぶん,今後も今のような路線で書いていくことになると思います。このようなものがお好きな方,今後もおつきあいを。

■ ぶつぶつ8/12/1999
 先日旅行に行き,そして今日学生のレポートを読んでいて,それらがくっついてぶつぶつ言いたくなったことがあるので,帰省する前に書いておこうと思います。
 それは“しつけ”。夏休みということもあって,行楽地には子ども連れが多かったのです。そんな中で,子ども連れ親子の(特に親の)観察をしてみたのですが,これが結構おもしろい。別に観察をする気はなかったのですが,周りに迷惑をかけているガキ(あえてこのように呼びます)が,やっぱりいます。その時,親がどのように対応しているか。知らん顔をしている親,かわりに謝っている親,子どもだけを叱っている親,などなどけっこうな種類があります。どれが良くてどれが悪いとは言いませんが,行き過ぎたら叱れよ!!と思う親もいます。
 これが学生のレポートとどのように重なるか。親子に関する授業もするのですが,その感想にしつけのことを書いてくる者もいます。電車の中でくつを脱がずに座席に上がっている子どもを,なぜ親は注意しないんだろう,みたいなことです。これと先の経験がくっついて,ぶつぶつ言いたくなったのです。
 これを読んでいる小さい子どもを持つ親御さんは少ないと思いますが,みなさんのしつけの基準はどこにあるのでしょうか? どこまでが,「やっても問題ない」ことで,どこからが「やってはいけないこと」なのでしょう。こんなことを考えながら親子連れを見ていると,結構楽しめます(腹が立つこともあるので注意!)。

■ ぶつぶつ8/10/1999
 前期のテストの採点に追われながら,ちょっと。学生も「何でテストをするんだろう」と思うでしょうが,教員である私も,「何でテストをするんだろう」と思うことがあります。
 この問題は,その根底にあるものを考えると簡単に解決します。つまり学生は,私の担当している,たとえば発達心理学という科目について,教員が身に付けて欲しいと望むものを,自分がどの程度まで身に付けたかを示すための公的な証を得るためにテストを受けるわけです。こちらが,その学生の答案を見て,授業を受けたということに値しないと判断すれば落とすわけです。それ以上でも,それ以下でもありません。この点は,入学試験などとはちょっと違います。
 でも,これがなかなか難しい作業なのです。私の場合は,人情を挟むことはしません。泣き言が書かれていても無視します。採点作業は,答案を書いた者とのせめぎ合いではなく,自分の中にある基準とのせめぎ合いになるのです。だから,疲れてしまうんですかね。

■ ぶつぶつ7/28/1999
 最近お気に入りの番組に,「愛の貧乏脱出…」があります。「みの」さんが司会をしている番組です。どこがお気に入りかというと,「“がんばる”って何だろう?」と考えさせてくれるからです。
 番組を見たことのある方はわかるとおもいますが,うまくいっていないお店をやっている人が登場し,その人が再起できるように番組が援助していくというものです。このような店主たちが,今の己の未熟さに気づかされたとき,しばしば口にする言葉に,「がんばってきたつもりですが」というものがあります。この言葉が,私にはとても気になるのです。
 子どもたちの好きな言葉に関する調査というのはよくあります。そこでは「努力」という言葉が,常に上位にランクされます。学校でも,がんばることが強調されます。大学生と話をしていても,「がんばったんだけど」という言葉をよく聞きます(この場合,逃げが入っている場合が多いのですが)。「がんばる」至上主義みたいに感じます。でも,これは社会に出るまでしか通用しないでしょう。学校は「がんばる」至上主義,社会は「結果」至上主義のように感じています。社会では,がんばって当たり前,それに結果が付随してなんぼ,という世界だと思っています。このズレにどれくらいの人が気づいているのだろう,特に社会に出ていく寸前の大学生,それから小・中・高の先生はどうなんだろうと思っています。
 私は結構頻繁に,「がんばるのは当たり前だ」と学生に言っているつもりです。がんばっている自分に安住するのは問題外。結果がついてくるようにがんばる,つまり自分がやっていることを常に監視しながらがんばるのが,「がんばる」ではないか。がむしゃらに努力するのは,がんばっているうちに入らない,と考えています。でも,これを子どもに要求するのは無理でしょう。大きくなるにつれて,どのようにがんばるのがいいのかということも考えていかなきゃ。ねえ。

■ ぶつぶつ7/20/1999
 今日は,オープンキャンパス(公開授業をやったり,教員が相談に乗る日)でした。私も相談窓口に座り,何人かと相手をさせていただいたのですが,いくつか気づいた点がありますので,書いておこうと思います。
・「心理学って何を勉強するのですが」
 めちゃめちゃ難しい質問です。でも,それを聞きたい気持ちもよくわかります。しかし片っ端から紹介すると収拾がつかなくなりますので,そういう人は大きめの本屋さんに行ってください。そして「心理学入門」的な本を“何冊か(重要!)”ぱらぱらとめくってみましょう。基本的には,そのようなこと+αを勉強することになるのです。
・「心理学をいかせる就職先ってありますか」
 学部卒では,心理学だけで飯が食えるような就職先は,はっきり言ってほとんどありません。公務員の一部には,そのような就職先もありますが。でも,心理学をいかせない就職先は無いと思います。人のためにものをつくる,人と一緒に仕事をする,人にサービスを提供する,などなど。これらはすべて心理学をいかせる可能性がある職場なのです。心理学のスペシャリストとしての就職先は非常に限定されますが,心理学が使えるスペシャリストになる道は多くあります。
・「カウンセラーになれますか」
 非常に多い質問ですが,これも答えにくいものです。学部卒では,まずなれないでしょう。臨床心理士という資格がありますが(ただし,臨床心理士=カウンセラーではない),これを取得するには大学院へ行く必要があります。また,大学院に行ったから,もしくは臨床心理士の資格を取得したからカウンセラーになれる,というものでもないのです。人の数倍の努力と運,人間としての器の大きさが必要です。興味があって勉強することと,カウンセラーになるということの間には,深い深い溝があるのです。「なれたらなりたい」というくらいに思っている人には,勉強することは勧めますが,カウンセラーになろうとすることはお勧めしません。
 このような質問が,とても多かったような気がします。参考になるでしょうか。

(追記)高校の先生によっては,「心理学(or 人文系の専攻すべて)なんて勉強しても,就職先がないぞ」といったニュアンスで生徒さんに情報を伝えている方がいるようです。数十年前の就職状況ならいざしらず,それを現在の状況にあてはめるのはいかがかと思いますが。

■ ぶつぶつ7/19/1999
 ちょっと前になりますが,前期の授業が終了しました。教員をやったことの無い人がどう思っているのかはわかりませんが,授業って結構大変なんです。学生のころは,自分の好きなことしゃべって終るんだから楽だよな,と思っていましたが。
 何が大変か? 別に準備が大変なわけではありません。その時間の雰囲気をどのように創っていくか,というところです。この行き当たりばったりの部分のコントロールが難しいのです。同じ内容の授業を2コマやって同じことをしゃべったのに,片や成功,片や失敗になる可能性は非常に高いと思います。そしてこの点は,聞き手に依存しているところが大きいと最近感じています。
 やりやすいのは,こっちを乗せてくれるような聞き手です。別に「目をキラキラさせながら聞いてくれ」というのではありません。わかった表情,わからない表情,面白そうな表情,つまらなさそうな表情…これらを見せてくれれば,それでいいのです。やりにくい聞き手は,「さわがしい」聞き手と,「無反応」な聞き手の場合です。「さわがしい」場合,授業なんかやめて帰ってくればいいのですが,「無反応」の場合はそうは行きません。「反応せよ」なんてことも言いにくいし。自分がしゃべっていることが,伝わっているのか伝わっていないのか,面白いのか面白くないのか,これらがわからないと,非常にやりにくいのです。別に,直接言ってくれなくても,顔を見ていればわかるので。
 最近の学生は,何かに追い立てられているように授業に参加するようです。面白いとか面白くないとか,わかるとかわからないを別にして参加するようです。だから顔を見ていてもわからないのかな。そんな無駄な時間つぶしはやめましょう。授業に参加するだけでは,意義も意味もありません。わかっているはずなのに…。

■ ぶつぶつ6/29/1999
 社会調査と心理学的調査の違い。この無いようであるような微妙な違いが,研究を難しくしてしまい,またこちらとの意思疎通を邪魔しているように感じます。
 学生が,「こんなことを知りたい」という研究計画を持ってくる時,たいていの場合は「私は全然わからないから知りたい」という意識でいます。例えば,「青年の出産についての意識」を研究題目として掲げる時は,「みんなどんな気持ちでいるのだろう」という問題意識があって,それに従って研究したら,おそらく,「こういう意識の人が何%いて…,性差は…」というものになるでしょう。これはこれで大切な知見なのですが,「こういう意識」の人が何%なのはなぜなのか,「性差」があるのはなぜなのか,というところまで示すことができる研究をこちらは望みます。心理学の研究は,そのような状況にある理由を心理的に解明するところにポイントがあると,私は思っています。
 このような場合によく使う手が,仮説検証と呼ばれるものです。対象となる現象がおこる理由を仮説として考えておき,その仮説がいかに正しいかということをデータで示すという方法です。「特命リサーチ…」というテレビ番組がありますが,そこで使われている手法がこれです。不可思議現象を説明する仮説をいくつか挙げておく。次に成り立たない仮説を消していく。残った仮説を採用する。こんな流れですよね。
 仮説検証型の研究が全てだとはいえませんが,十分参考になります。「私は全然わからないから知りたい」という意識で研究に入っていくのは,全く問題はありません。しかし,その入り口から入ったら,すぐそこに心理学の研究があるわけでは無い(ちょっと言い過ぎ)ことには注意しておいてください。大学に入って心理学を勉強してみたいなあ,と思っている人もね。

■ ぶつぶつ6/25/1999
 大学の教員をやっていて,こういう物言いをするのはいかがと思うが,大学に行く意味はあるのだろうか? 特に“勉強する”ということに関して。
 特に,“勉強しろ”と子どもに言っている親御さんに考えてもらいたいなあ。それから,進路指導を担当している先生。20年後,30年後に,この社会がどのように変わっているだろうから,大学に行く意味があるのか。そのあたりを,どういうふうに認識しているのか知りたいと思う。難関大学には入れたらその後は安定した生活が送れる,なんて事は,昨今の事情をみれば迷信にすぎないことが明らかだし。
 意味は,大学にあるのではないだろう。意味は,各個人が持たせるものである。パソコンは便利だとみんなが言うから買ってみたのだけど,使う用途がないんだよなあというのは,よくある話である。ある人にとっては,パソコンは意味あるものだし,違う人にとっては全く無意味なものなのである。大学も一緒だと思う。そこに意味をもたせることができる人にとっては意味があり,持たせることができない人にとっては全く無意味なもの。そこに入ってから意味を探すには,4年間は短すぎるし,社会に出たらわかると言っても,説得力の乏しい社会になりつつあるし。その個人の人生設計の中(これは決して親や先生が代筆するべきものではない)に置いてみて,はじめて意味が出てくる大学なのに,違う側面から無理に意味を持たせようとしている感じがしてならない。というのは気のせいだろうか?

■ ぶつぶつ6/19/1999
 発達心理学のレポートに追われる日々。でもちょっと気になってきた点がある。青年期の性についてのレポートを求めたのだが,どうも「青年期の性行為」→「妊娠の可能性」→「中絶」という連続性が大前提になっているように感じられる。性行為の結果として妊娠してしまったら,学校など辞めてしっかり働けばよい,というニュアンスのものは非常に少ないのである。
 青年期では,経済的にも精神的にも親となるには不十分という認識がはびこっている。どうも自分たちの世代を,まだまだ「甘ちゃん」だと認識しているようである。それが正しいかどうかは別として,そのような認識でいいのか? もしかして,自分たちはまだまだ甘えていたいと思っているのか?なんて思ってしまう。
 極端な話,性教育の中で,避妊の話をしないという方法も考えられるのではないだろうか。妊娠のメカニズム,妊娠から出産までのプロセス,親など身の回りの人の反応,保健・税金・福祉などの妊娠・出産をとりまく制度,親となるための勉強方法などをしっかりとたたき込む。つまり「産むこと」を前提とした構成にするのである。その上で,自らの性行為を考えろ,というような性教育はどうだろう。性教育と称して避妊の話しなどをするのは,青年を自立させない機能を持っているような気がしてきた。

■ ぶつぶつ6/2/1999
 心理学は面白いのか? Yahoo!の書き込みを見ていて,ちょっと書いてみようかなと思ったので書きます。ちなみに,各大学のことなんかの話題もあって,これは面白い。偏差値でしか大学を評価できない旧式な人も,まだまだ沢山いるってことがよくわかる…。
 心理学の授業を始めるとき,心理学は皆さんが期待しているほど面白いものではない,と前置きします。実際,授業もそうだと思います。心理学の授業を受けていて,「そうなんだ,わかった!」なんて感じられることは少ないでしょう。「ええ?????」というように,?マークだらけになることの方が多いと思います。でも個人的には,この?を感じることが心理学を勉強(言葉としては良くないかも…人の心理を考える,と書いたほうがいいかなあ)していくうえで重要だと思っています。
 おそらく,多くの人の場合,自分の見聞きしているものは正確なものと感じているだろうし,自分の中の考え方は矛盾していないと思っているだろうし,当たり前は当たり前ととらえていると思います。心理学の面白いところは,これらのことに?を投げ掛けてくれるところにあると思います。ちなみに,?に対する答えは与えてくれたり,与えてくれなかったり…。
 だから,心理学をやってみて,面白いという人と面白くないという人が出てくるのはあたりまえだと思っています。すぐに答えを求める人,答えが出ないことを気持ち悪いとか嫌だと思う人には,心理学は面白くないでしょう。正解にはたどり着けないかも,と思いながらも,考えていること自体が好きな人には,そのきっかけを与えてくれる学問として面白いと思います。
 心理学を勉強してみたいと思っている人。あなたは,正解にはたどり着けないかもと思いながら考え続けることができますか?

■ ぶつぶつ5/31/1999
 去年も書いているのですが,今年も学内でホタルを見ることができます。ちなみに去年は5/15付けで書いています。学内でホタルにお目にかかるのはいいけど,できれば川の流れの音がして,あっちこっちでカエルが鳴いていて,お星様がきれいに見えるところの方がいいなあ。
 名古屋でも,川にホタルを,という活動がけっこうあるみたい。新聞にもよく出ています。でも,何となくイメージが違う。そりゃあ,いないよりいた方がいいし,いるような環境にすることもいい。でも,こんなに明るい街中にホタルがいても…。星さえ満足に見られないんだから。“暗くて静かな夜”を取り戻す運動は…無いだろうなあ。

■ ぶつぶつ5/13/1999
 うぅ。GW開けから調子が悪い。頭も身体も,おまけに商売道具の口まで不調…
 万物創世記で,温泉の効能についてやってましたよね。結構好きなので,ふーんと見ていたら,何と温泉療養をするには1週間以上かかるとのこと。最後のナレーションで,昔はそれくらいの日数がとれていた,うんぬん,今では難しい,うんぬん,といっていた。確かにそうだろう。1週間か…。時間に追われるサラリーマンにはなれないだろうと思って選んだこの仕事だけど(それだけが理由ではないが…),この商売もなかなか…。自分が大学生をやってたころは,先生はけっこう暇そうに見えたんだよなあ(すみません!)。

■ ぶつぶつ4/21/1999
 天気もいいし,気温も適度。こんな日には,どこかでのんびりしていたいと思いながら,授業とその他の仕事に追われているのが現状。
 先日,非常勤先で「2030年にはどのような社会になっているか?また,どのような人間が求められているだろうか?」という質問をしてみた。当然,正しい答えを求めているわけではなく,妥当な推論に基づいた想像を聞いているのである。その回答の中に,「持つ者と持たざる者の差が拡大する」というようなことを書いたものが何人かいた。これは私の考え方とも一致する。おそらく技能や所得の面で顕著になるだろうが,総中流意識というのは,意識の面でも現実面でもなくなるのではないだろうか。そうなれば,投資対象としての教育というものが見直されるのではと思う。勉強したい人が,どん欲さを持って学校にやって来る。教員をやっている身としては,これは恐ろしいことでもある。容赦の無い評価が下されるんだろう…。楽しいような,恐ろしいような…。
 でも心理学はゼニになりにくいから,そうでもないのかな?

■ ぶつぶつ4/14/1999
 今日から私の新学期が始まりました。今年度初めての授業をやったのですが,どうも乗り切れない!自分で自分の授業の様子を思い浮かべながら(ちなみにこれをメタ認知と言います),変なの!!と思いながらやっていました。
 授業というものは,始まってみれば何とかなるのですが,始まる前は,私にとってはかなりな精神的負担になります。いろいろ考えて,「もういやだ」というような気持ちにもなります。大学の教員も結構辛い立場に立っているのです。想像してみてください! 100人が白けている状態を! 聞き手が乗ってくれば,ハイテンションで進められるのですが,白けた人たちの前に立っているのはかなり辛いですよ。笑いをとれない漫才師みたいな感覚を味わうことができます。
 さて,夏休みまで一頑張りしますか…

■ ぶつぶつ4/5/1999
 選挙,選挙。もうちょっと中身があれば聞こうかなという気にはなるけど,現状じゃあうるさいだけ。でも,これが結構おもしろい。おもしろいというより,滑稽と言った方が,さらにはバカにしていると言った方が正しいか。
 自転車で街宣をしている人(政治家に一番必要なものは体力でしたっけ?),日が暮れてからも街宣カーでどなりながら“環境問題”をアピールしている人(規定で許されていたら,日が暮れてからも街宣カーでどなっていいのか? 環境問題っていったい??),裏付けがまったく書かれていない政策パンフを配る人(情報開示はどうなってんの?),名前と「よろしくお願いします」だけを留守電にいれてくる人(だから何よ)…。誰かに何かを伝えたいときには,内容や方法をちゃんと考えろと言っている私からすれば,これは極めて滑稽なことである。もうちょっと考えて,これが我々の代表候補の言動なのかと思えばさみしくなるし,それで票を獲得しようとしている態度は,有権者をなめてんのか!なんて腹が立ってくる。
 中身の無い街宣カーを走らせるくらいなら,中身のあるパンフ(少なくともきっちりと現状分析がなされ,それに基づいて可能性のある政策が書かれていて,さらにその政策のデメリットまで考えられているもの。当然ボリュームのある冊子になるはず)を配ってほしい。大学生のレポート以下じゃあねぇ。

■ ぶつぶつ4/1/1999
 今日から新年度。べつにこれといって書くことはないのだけど…
 先日,学会(大会)へ出かけた。久しぶりに出会う人たちと歓談し,研究もちょっと発表し…で終り。メインはロビー活動。学会に入会したころの心構えとは,ちょっと変わってきている。以前はもっと人の研究を聞き回っていた。
 自分の知識が増えてきたとか,研究の大きな流れがわかってきたとか,いろいろな意味での慣れがあるんだと思う。慣れることは悪いことではないんだろうけど,停滞という怖い側面を持っているとつくづく思う。どれだけ自己管理していけるか,自己研鑽に励むことができるか,そこがすごい人と普通の人の分かれ目なんだろう。すごい人の方へ行きたいけど,普通の人の方が楽なんだよなぁ。
 私もこの仕事について3年目。さてさてどうなるか??

■ ぶつぶつ3/21/1999
 今日は卒業式。無事卒業できた方,おめでとう。
 私にとっては最初の卒業生を送りだすということで感慨もひとしお… というよりは,正直反省がいっぱいという感じです。具体的に何を反省するのかと言われても答えるのは難しいし,もっとこうすればよかったという反省も具体的には無いのですが,これでよかったのかなあという漠然とした不安みたいなものがあります。
 でも,まあ何とか生きていってくれるだろうという期待(?)があるこことも事実です。そこから先は,個々人で頑張っていただくとして… 私は影で応援するだけ。

■ ぶつぶつ3/10/1999
 何かに感動したり,感銘を受けるには,まあそこまでとはいかないまでも,例えば桜の芽が大きくなってきたなとかと感じるには,こころにゆとりが必要なのだろうか? こころにゆとりがないと,感性が鈍ってしまうのだろうか。
 私は,忙しいときとか嫌なことがあったときには,キョロキョロしている。意図的に何かを探すのである。何とかこころを潤そうとする,いじましい努力をしているのである。そこで何かに出会えたら(何かに出会えなくても私はこじつけてしまいます),少しはすっきりするように感じられる。反対に調子の良いときは,そんなことをしなくても平穏に過ごせる。
 私流にいうと,こころにゆとりのあるときの方が,かえって感性が鈍くなっているようだ。緊張の合間を,意図的に作り出した時の方が,いろんなものを感じられる気がする。芸術家の人たちに,「こころにゆとりがあってうらやましい」なんて言うと,「我々も忙しいんだ」と怒られるかもしれない。そんなに平和な仕事だとも思えない。もしかすると,「忙しすぎて感動なんて感じられる暇はない」なんて言っている人は,感動するチャンスを逃しているだけかもしれない。ああもったいない…
(“こころ”なんて書くと,柄じゃないなあと自分で思ってしまうのはなぜだろう。これでも一応心理学を専攻しているのだけど。)

■ ぶつぶつ3/3/1999
 年寄りが,最近の親はとか,昔の親は良かった,とかと言う。これは考えてみれば非常に面白い言い方だと思います。
 考えてみてください。最近の親は良くないと言われる親の親は誰か。良くない親を育てたのは誰の世代か。つまり,おじいさん・おばあさんの世代が最近の親の世代のことに苦情を言うのは,ほぼ間違いなく,自分の子どもの世代のことを言っていることになります。つまりその世代に対して不平不満を口にすることは,自分の世代の教育の間違いを指摘しているに過ぎないのです。「親の顔を見てみたい」と言う人は,自分の顔を見てみればいいのです。
 でも親とはこんなものでしょう。自分の子どもと,他の大多数は別という意識があるに違いないと思います。親でない私は,仕方ないかなと思う反面,バカだなとも思います。それが親なんだとも思います。決してそれを否定するわけではありません。もしかしたら,今の若者・子どもの親がバカであれば,バカな親の子どもが親になったときの子ども,つまり数十年後の子どもには期待できるかな,と考えてしまいます。

■ ぶつぶつ3/1/1999
 頼まれ仕事で,新入生に贈る言葉なんぞを書いてみた。書いていて,腹が立ってきた。別に,新入生に腹が立っているわけではない,まだ会っていないのだから。腹が立つ対象は,私が色眼鏡を通して見た結果つくりあげた,私の中のイメージ像としての学生である(もしかしたらそのような学生は存在しないのかもしれないが)。それは,能天気な学生である。卑屈になる必要はないが,もう少し危機意識があってもいいだろうと思う。新聞の社会面や経済面とは,全くかけはなれて存在している。おまえ,そのままで社会で生き延びられると思ってんの??と言いたくなるような学生に対してである。
 ある意味では,かわいそうと言うべきかもしれない。淘汰されるまで,ほっておくべきなのかもしれない。その事実に気付いたとき,次世代をうまく導ける存在になるかもしれない。もしかしたら,うまく世の中を渡りきるかもしれない。うー。このやり場のない腹立たしさをどうしよう…。(授業期間中だったら,受講生を生贄にするのだが…ウソウソ)

■ ぶつぶつ2/22/1999
 お買い物バッグを買った。税抜き¥1,200なり。以前からゴミを捨てるときに,お店でくれるあの白い袋を活用しているのだが,増えすぎるのである。昔を思い出してみると,わたしが小さかったころは,母親(母親しか行かなかったと思うが)が買い物カゴをぶら下げて行っていたはず。買い物カゴと財布がワンセットだった記憶がある。いつから無くなったんだろう…。
 ゴミ問題が派手になってきているけど,お店は相変わらずという感じがする。新聞紙が山積みになっている魚屋さんも見ないし,袋はたくさんくれるし。確か神戸の生協は袋を売っていたような気がするけど,違ったかな? 「買い物袋をご持参ください」なんて(ちっちゃく)書いてあるけど,どれくらいの人が持ってきているんだろう。今後は,家の袋(ゴミ出し用)の数を見ながらお買い物バッグを使おう。
 でも1円,2円の価格差をつけるのに必死に頑張っている(はずの)スーパーが,税抜き¥1,200で買い物袋を売ってるようじゃあねぇ。どうせ汚れたりするものなんだから,1年くらいの耐用年数で,当然自然に還る材質で,一家に2,3個買っておけるくらいの値段のものが作れないものなんだろうか。結構回転しそうなのに,商売にならないのかな?

■ ぶつぶつ2/21/1999
 先日,あるアニメを見ていて考えた。詳細ははしょらせてもらうが,ある男子生徒が,ちょっとしたトラブルから,泥棒になってしまった。それをなるべく穏便に終結させるために三文芝居をくわだれるのだが,主人公(?)の男子生徒にばれてしまう。見つかった生徒は,「何も聞かずに協力してくれ」と頼む。主人公の生徒はそれを承諾し,まあ何とか三文芝居を演じ続け,泥棒の汚名をかぶらずにすむ。というような話なのだが,何か変,というか後味の悪い思いをした。この主人公がとった行動は,それでよかったのだろうか。友だちが困っているのを助けたし,知っている事実を隠すことによってまるく収めたことは,ある意味で評価されるべきなのかもしれない。でも,個人的には友情の悪用の典型例だと思う。悪用するのは悪いが,それを知ってて乗ってしまうのは,もっと悪いと思う。あかの他人ならいざ知らず(?),友だちの悪いところを見逃すなんぞもっての他である。これを友情だと作る側が思っていたのなら,お話にもなんない。見ている側に,アレッ?と思わせることを意図しているのなら拍手である。でも,そういうふうには見えなかったけど…。
 ついでだけど,ドラえもんを見ていて,のび太に対して腹が立つことが,以前よりも多くなったように感じるのは気のせいだろうか?

■ ぶつぶつ2/8/1999
 私は,書くことは好きである。いつから好きになったのかを考えると,答えがなかなか見つからない。小さい頃といえば,書くといったら日記と作文。どちらも,いやいや書いていたという記憶しかない。宿題だったから書いていたというレベルである。それが,なぜ今は違うのか。書くことの楽しさって何だろう。ありきたりかもしれないが,そこに何らかの自分の世界を作り出すことができる。絵や写真が好きな人の感じるものと同じなんだろうと思う。
 じゃあ,どうすれば書くことが楽しいと思えるようになるのか。書きたいことがある,言いたいことがあれば,書くことは楽しくなるだろう。とすると,学生にレポートを課してイヤーな顔をされるのは,かれらに言いたいこと,書きたいことがないからだろうか。世の中に対して不平不満の多い者,つまり私みたいな人間しか,書くことが楽しいと思えないのかなあ?

■ ぶつぶつ2/6/1999
 うーん。部屋が汚い。こんなものを書いている間があったら,掃除をしろと言われそうだが,それもできない。なぜなら… 今ものを動かすと,何がどこへ行ったのかわからなくなってしまう!
 でも,こんなことを一年中言っているから部屋がきれいにならないんだろうなあ。出したものは,あった場所に戻せばいい,ということはわかっているものの,これが難しい。やっぱり“整理術”というテクニック的なものではなく,モチベーションの方が問題なんだろう。掃除の動機づけなんかを研究している人はいるんだろうか?

■ ぶつぶつ1/28/1999
 受験シーズンも本番を迎え,これから春先までは予備校の宣伝も多くなる。そこには受験体験記なるものが出ていて,これが結構面白い。ある予備校の宣伝では,早稲田大学政経,早稲田大学商,早稲田大学教育,早稲田大学社会科学,…に合格したと報じていた。ふーん,早稲田に行きたかったんだと思ったが,同時に入学後大丈夫かなとも心配になる。この人は,大学で何を学びたかったんだろう? 政経,商,教育,社会科学の接点?? 落ちた学部もあるだろうから,早稲田はぼろ儲けだなあ… ということで,これを読んでいる南山大受験生の皆さん,どうか全学部を受けてください!
 まあ,これは冗談ですが,まだ偏差値や大学名にこだわっている人が多いのだ,ということは予備校の宣伝を見ているとよくわかる(若干,予備校によって色が違うけど)。将来を読み間違ってはいけない。大学のブランド名は,現在でも徐々に力を失っている。そこから先に必要なのは,個人の力である(と思う)。年功序列の崩壊や能力給は,個人の力をもって対処できるはず(理論的には)。
 ある大学のある学部の卒業生は,それぞれが同程度の力を持っていると考えることは間違っている。他の教育機関と同様に,入学時にはそれほど個々人の力に差は無いが,卒業時にはそれが非常に拡大する教育機関だと思っている。当然,学力だけでなく,人間としての様々な面で大きく差がつく。受験生の皆さん,この現実をしっかりと認識しておいてください。大学で色々なことを“教えてもらおう”と考えている人,あなたは負け組になるかもしれません。自分が成長するために,大学を“利用してやろう”と考えている人,お待ちしております。

■ ぶつぶつ1/26/1999
 先日の中日新聞(1999.1.25)の投書のページに,「お辞儀」と「ありがとう」についてのものが掲載されていた。そこでちょっと。
 スーパーやコンビニに買い物に行くと,よく高校生と思われる店員さんがいる。よく(中途半端に?)教育されているので,「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」という言葉が必ず発せられる。無いよりあったほうがいいのだが,普段は気にも留めない。「いらっしゃいませ」といわれて,「あ,どうも」と言ったらどういう反応が返ってくるのだろう。
 話がそれたが,「ありがとうございました」と言われて,「そんなに嫌そうに言うのなら,言わなくていいじゃない」と思ったことはないだろうか。「このウソつき野郎!」とカチンときたことも何度かある。反対に,「ありがとうございました」と言われて,そこで始めて店員さんを見たことはないだろうか。この間,「ありがとうございました」と言われて,ふと店員さんを改めて見直したことがあった。上手に「ありがとうございました」と言えるなと感じたからである。高校生の女の子であった(ルーズソックスを履いたフリーターや大学生バイトはいないだろう)。あいさつも才能なのだろうか。

■ ぶつぶつ1/25/1999
 新年が明けて,ずいぶんたちます。
 ただいま,このHPの大改築に突入しています。定期試験の採点とかもあるのですが,急ぎやっております。今年1年で,何とか自分の(HPの)形を作ってみたいと思っているのですが,どうなることやら。自己確立できるかな?
 もし不具合や,アイデアがありましたら教えてください。

■ ぶつぶつ12/27/1998
 今年も残りわずか。またまた長い間書いていなかったので,ちょっと書きます。
 最近,経済学の本を少し買いました。なぜかというと(私は発達心理が専門です),人の発達に経済的なものがかなり大きなインパクトを与えているのではないかと思ったからです。当たり前といえば,しごく当たり前のことなのですが,(日本の)発達心理学ではあまり扱われてきていないようなのです。人の発達と経済(言い換えれば「お金」)を結び付けるのは,やはりあまりにも「ナマナマシイ」のだろうか,と考えてしまいます。
 「貧乏だからハングリー精神を発達をさせた」とか,「お金持ちだったから甘やかされて歪んでしまった」などの結果は一般に受け入れられやすいような気がします。でも,「貧乏だから歪んでしまった」とか,「望ましい発達は,家庭の収入に比例する」なんて結果が出たら,それを世に公表することができるだろうか? 結果には責任が持てるが,その結果が独り歩きを始めたら怖いなあ,なんて考えてしまいます。ちょっと危険な香りのする研究分野…

■ ぶつぶつ9/14/1998
 私は,なぜ飛行機が嫌いなのか? 私は乗り物に弱い,というか強くはない。以前(自分が運転できるようになる以前),時々父親の車で祖母のところへ行っていたのだが,約1時間の行程でも,窓を全開にして,ひたすらしゃべりながら(注意をそらすという意味で)乗っていた。酔うのである。沖縄からの帰りには,空港で某酔い止め薬を買った(薬を買うのに苦労した。探し回った)。ちなみに自分で運転していると酔わない。自家用ジェットでも買うか?
 もう一つ理由がある。飛行機が空中に浮くということに“納得”できない。物理的には“理解”できるが,情的に“納得”できないのである。安全に飛べることが頭ではわかっていても,「何で何で??」と心が叫んでいる。この状況を10時間以上も続けていたら,まいってしまうだろう。つまりファーストクラスであろうが何であろうが,私が“快適”に空の旅を楽しむことは,今のところできそうにないのである。雲に沈む夕日がどれだけきれいであろうと,空からの富士山がどれだけ壮大であろうと…

■ ぶつぶつ9/4/1998
 テレビを見ていたら,人間が生きるために生き物を獲る(つまり命を奪うこと)ことは“正しい”が,必要以上に獲ることは“間違っている”と言っている人がいた。私には,これはちょっとひっかかった。後半部はいいとして,前半部の「生きるために生き物を獲ることは“正しい”」ということは,本当に“正しい”のだろうか? というか,“正しい”と表現することが“正しい”のだろうか?
 個人的には,最初の表現は“しかたのないこと”の方が良いと思う。後半部は道義的な意味での“正しい−間違っている”のモノサシをもって考えても良いと思うのだが,前半部はどうだろう? 真か偽かという意味では“正しい”かもしれないが,それでは一文の中でねじれが生じてしまう。だからといって,前半部を道義的に“正しい”とは,私は言えない。“正しい−間違っている”以外のモノサシが必要ではないだろうか。
 学生のレポートを読んでいると,これと似たような,あれっと思う表現に出会う。真か偽かという意味で“正しい−間違っている”を使い,一方で道義的な意味でも“正しい−間違っている”を使うのである。言葉の使い方としては間違ってはいないのだが,読んでいると,何かヘンと思ってしまう。
 それに,“正しい−間違っている”のモノサシを無理に使っているなと感じることもある。“正しい−正しくない”,“間違っていない−間違っている”というモノサシもアリだとすれば,“正しい”=“間違っていない”なのだろうか? これは無理だろう。意見表明のために,積極的に“正しい”という表現を使いたいことはわかるのだが…。“正しい”という表現を正しく使うのは,やっぱり難しい。

■ ぶつぶつ7/23/1998
 先日,函館へ行ってきた。往復とも寝台列車に乗ってである。その時に,トータルで30時間ほど景色と持ち込んだ本しか刺激が無い状況に身を置いた。いつもは「忙しい,忙しい」とぼやきながら「ボーっとしたい」と叫んでいるのだが,いざ何も無い状況になると,しばし呆然としてしまった。でもこれが慣れるもんで,帰りの列車ではそれなりに時間を楽しめた。やっぱり,「ボー」っとすることはいいことだ。
 列車に乗りながら思ったことだが,乗り心地と音は,もうちょっとどうにかならないものだろうか。先日,新しい寝台列車が運行を始めたことがニュースになっていたが,あれはどうなんだろう?

■ ぶつぶつ6/29/1998
 ある授業で,出席代わりに今日の授業で考えたことを書いてもらっている。時に,友達が出ているから遊びに来た,という学生からの感想が混じることがある。個人的に,登録学生と“もぐり”の学生が半々といった授業ができたらなあと思っているため(大きな声では言えないが),履修学生以外の学生の参加はうれしい。
 で,先日の“もぐり”の学生は,他大学の学生だったのだか,「やはり先生が一方的に話す授業であるのは全国的なのかなーと思い,少しがっかりした」という感想を書いてきた。痛いところをついてくるなあ。150名教室で,どうやったら相互作用のある授業が行えるか。苦肉の策が,学生の提出したレポートを中心に構成した授業なのだが,そうしてもこちらが一方的に話すことには変わりがない。ゼミ形式の授業だったら,こちらとしても楽なのだが,はたして何名までの授業で可能なのだろうか。150名教室で発表形式…。一度やってみようかな。

■ ぶつぶつ6/22/1998
 現在午後8時ちょっと過ぎ。今までかかって,授業の資料を作っていた。まあ,私にとって午後8時まで学校にいることは珍しいことではない。
 何が言いたいのかというと,授業の時の資料についてである。私は,毎回資料を配る。教科書そのままの授業はやりたくないし,OHPだと学生の記憶に残りにくいだろうということから配っている。資料が多すぎるという学生からのクレームもあれば,紙のむだ遣いではないかという反省もある。
 顧みれば,大学の時もらった資料はどうしていたのだろう(ちなみに授業には出なかったほうなので,資料は友達のコピーである場合が多かった)。ふーんって言いながら見て,そのままファイルへ。試験の前にちょっと見て… その後どこへやったかなあ。
 自分のことを思い出すと,資料を作っているのがバカらしくなってきた。いかん。いやいや,きっと後生大事に何度も何度も見直してくれる学生がいるに違いない! 言葉にしたら,よけいにバカらしくなってきた…。

■ ぶつぶつ6/17/1998
 ふと気が付けば,長い間書いていなかった…(その2)
 授業評価に関する研究(?)をやっていて,不思議に思ったこと。学生は「興味のもてる」「おもしろい」授業を望んでいるようだ。でも,「興味のもてる」「おもしろい」とはどういう意味なのかと問うと,今一つはっきりした答えがかえってこない。自分でもこの2つの言葉の意味を考えていると,それぞれの意味は??,もしかして同義??と悩んでしまったので辞書をひいてみた。やっぱり,ほとんど同義であった。
 そこで2つ「おもしろい」ことを見つけた。その一つは,「おもしろい」に,目の前が広々とひらける感じという解説があったこと。ふむふむ。授業を聞いて目の前が広々とひらけるという感じを持ちたい。納得。もう一つは,「おもしろい」の現代語的意味の,滑稽だ,おかしい。漫談に近い講義は「おもしろい」。ふむふむ。
 この2つを取り違えると,これこそ「おもしろい」ことになりそう。くわばら,くわばら。
 (ちなみに,「くわばら」は「桑原」と書くそうである)

■ ぶつぶつ5/15/1998
 ふと気が付けば,長い間書いていなかった…
 桜の後の話題が,いきなりホタル…。本校の北東のスミに,ホタルがいるのを発見!!学校の近くに生息していることは聞いていたのだが,学内にいるとは! 小さい,陸生のホタルなのだが,やっぱり「いーなー」と思って見てしまった。
 そういえば,小さいころは竹ぼうきを持って振り回していたなあ(ホタルの乱舞している辺りに向けて竹ぼうきを振り回すと,竹の間にホタルが入り(竹にしがみつく,かな?),獲ることができるのです…といった注記が必要なのかな)。その後,川がキレイになって(護岸をコンクリートで固めたものをキレイというかどうかは問題だが),いまでは帰省してもあまりお目にかかれない。あの田舎でお目にかかれないものに,こんなところで出会うとは。ちなみに大学のパンフには,ホタルのことは書いてありません。

■ ぶつぶつ3/24/1998
 校内の桜が咲き始めました。春です。最近私は,自転車を衝動買いしました。
 まあ,そんなことは置いておいて,着任以来一年が経過しようとしています。バタバタ,ガタガタしていたら,あっという間に過ぎていきました。反省することばかりで,充実感は今一つ。授業とゼミ生指導に頭を抱え,自分の研究はどこへやら。正しい大学教員の有り方とは?悟れないまま続いていくのか?? 来年はもう少し…どうしよう…

■ ぶつぶつ2/13/1998
 おわりー! 一般入試終了!
 今日は,英語の監督。必死で(?)がんばっている受験生に,キビシイ目を光らせながら,ふと窓の外に目をやると,そこに2羽のハトが…。“ハトは受験せんでもえーよなー”と,訳のわからないことを考えていたら,ハトさんたちがおもむろにキス(?)を始めた。ホーと思いながら見ていたら,なんと行為は進展し…。目を覆うだけの時間もかからず終了。“新しい生命の誕生”なんて言葉が頭の中をめぐるが,目を室内に戻すと,何とも現実的光景。その差がやけにおかしくて,ヒクヒクしてしまった。ハトさんたちと受験生の間は約2メートル。そしてガラスが1枚。これが,ハトじゃなくてヒトだったら,受験生とは言え,目が点(クギヅケ?)になってしまうことだろう。(もしそんなことがあったら,試験監督者として,どのように対処すればいいのだろう?)何かおかしくて,奇妙で,空想をひろげてくれる光景でした。
 付記:今日,春を感じた。今年初。

■ ぶつぶつ1/30/1998
 年が明けたと思ったら,あっという間に月末…の話題をもう一つ
 春のにおいがしない。雨がふる前に雨のにおいがするように,毎年,1月の中ごろには春のにおいがしていたハズ。タバコの吸い過ぎで嗅覚がやられたか??忙しすぎて…(それはない!)。
 そういえば,去年はどうだったのだろう?おととしは?ちょっと思い出せない。名古屋に来る前には神戸にいたが,あっちでは毎年感じていた。これは間違いない。出身が岡山だから,地域的な類似性から,こっちでは感覚が反応しないのだろうか?
 久しぶりにこのこと(春のにおいのこと)を思い出したら,気になって仕方がない。名古屋で生まれ育った人は,私には感じられない春のにおいを感じているのだろうか?

■ ぶつぶつ1/26/1998
 年が明けたと思ったら,あっという間に月末…
 まあ,そんなことは置いておいて。最近は,成績をつけるためなどで,学生の書いたものと毎日のように付き合っている。びっくりするくらいうまい学生もいれば,ため息連発,ウーンと頭を抱え,「こいつは何が言いたいのだろう」と探偵にならなければ理解できないような文章もある。このような場合は,大抵,結論として「わからん」ということになる。大学入試などでは,現代文に出題される文章が難しすぎるという批判があるが,それを解こうとした結果,こんな文章を書くようになったのだろうか。(そんなわけはない)
 そんな中,今日,一つの特徴を見つけた。学生のレポートには,「〜について考えた」という表現が多いのである。これは良いことである。多分。でも,考えた内容が書かれていないのである。つまり,書いたオマエは分かっているんだろうが,読むワタシには何も分からない,のである。考えたという事実の報告はいいから,何を考えたのか教えてくれ!と,文章を読みながら独り言…。

■ ぶつぶつ12/27/1997
 面白いことがあった。ある駅の前で待ち合わせ時間をつぶすために煙草を吸っていたら「すみません」と声をかけられた。高校生らしい男の子が,「火,貸してもらえません?」。高校生か?と聞いたらそうだと言う。悪いが,職業上貸してやれないと言うと,スミマセンと言って去っていた。
 大きな声で言えたことではないが,私にも非合法に煙草を吸っていた時があった。しかし,それが非合法であることはわかっていたし,そのため,人に(見ず知らずの大人に)火を借りることは“できなかった”。自分にそうさせない何かを感じていた。彼らは,それができる。何が違うのだろう。彼らに火を貸す,バカな大人もいるのだろうか?

■ ぶつぶつ12/3/1997
 寒い・寒い・寒い・寒い・寒い…。昨日の夕方から,えらく寒い。バイクで登校するのも考えものだなーと思いつつ,オーバーパンツを履いてまでなぜ乗っているのか。車もあるのに…。 で,このぶつぶつに書いてやろうと思って表現を探していたら,これに行き着いた。私は子どもか?
 「きのう,ゆきがふった。
 とってもさむかった。」

■ ぶつぶつ11/26/1997
 大学院に思うこと。何のための場所なのか?何のために人は集まるのか?
 大学院に行きたい人に聞きたい。何のために行きたいのか?もっと深く勉強したいため?学歴をつけたいため?大学の先生として就職したいため?その自分の目標に向かって努力している?… なぜ大学に行くの?と同じ問いが,今,大学院志望の学生に向けて問われているような気がする。

■ ぶつぶつ11/18/1997
 このホームページのタイトルバックを変えよう(秋バージョンにしよう)と思いながら,気づけば世の中,完全に晩秋…。冬バージョンがすでに必要か。
 でも学校の中は,とても美しい。比較的緑の多い大学で,さらに落葉樹が多い。カサカサと音を立てながら落ち葉を踏んでいると,何か昔に返ったような気がする。この音は,自分の中では,神社へ向かう道というイメージとつながっているようだ。カサカサと“いわせながら”初もうでに行った子どもの頃の記憶。…今は,そのイメージを抱きながら仕事場へ向かう私。秋だー!

■ ぶつぶつ10/20/1997
 休日のドライブは嫌いだ。メンタルヘルスによろしくない。久しぶりに休日の昼間,高速道路を走った。まあ,休日,昼間,いい天気などなどの要素がからむと,走行台数が増えるのはわかる。でも,“どうしてそんな運転になるの”という事態にも出会うことが多くなる。まず,カーブの手前でなぜかブレーキを踏むやつ(その程度のスピードで怖いんだったら,はじめからゆっくり走れ)。後ろの車との速度差がよめないやつ(追い越し車線が空いてから進路変更してくれ)。後方確認と,ウインカーを出すことと,ハンドルを切ることを同時するやつ(体当たりだけはよしてくれ)。法定速度プラスちょっとのスピードで追い越し車線を走るやつ(文句は言えないが…)。これに比べれば,トラックがうじゃうじゃいる夜間の高速の方がよっぽど走りやすい。

■ ぶつぶつ10/17/1997
 授業の前後で気分が変わる。これはよくあることかもしれない。でも,時に授業中に気分が変わることがある。「あれっ,面白くないのかな?」と思ったら終りである。自分ではペシミストだとは,全く思わないのだが,こうなったら悪循環を繰り返す(ようである)。“サムク”なり,あらあらと思っているうちに,話がどこに行ったか自分でわからなくなる。表面上はつくろっているが,疲れは倍増する。まあ,二日程度で忘れることができるのだが…。聞いている学生は気付いているのかな??