83 問題な日本語(2005年1月11日)
近年、「どこかおかしい」「何かおかしい」と感じる話し方をする人が多い。「おビールをお持ちしました」「コーヒーのほうをお持ちしました」「こちら和風セットになります」「よろしかったでしょうか」「っていうか」「すごいおいしい」「わたしって運動が嫌いな人じゃないですか」「なにげに」「2個上の先輩」「わたし的にはOKです」などなど。
こんな気になる日本語を“へんな日本語にも理由(わけ)がある”という立場から詳細に分析した本が出版された。北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店、2004年12月)である。わたしがエッセイで取り上げたいくつかの言葉にも触れていて、そこでの主張を補強してくれるものと否定するものとがある。以下4点を取り上げて検討してみよう。
【1】第一は形容詞+「です」表現である。国語審議会が1952年に、「大きいです」「小さいです」などは平明簡素な形として認めてよいと建議したということを、エッセイ77「うれしかったです」(2004年10月8日)で紹介しつつ、それにもかかわらずわたし個人は、このような形容詞+「です」を文章語としては使うことができないと主張した。
『問題な日本語』は、わたしのこの主張を“緩やかに”支持してくれている。形容詞+「です」という表現を詳しく検討した結果、「理由は特にないです」「大きいです」「うれしいです」などの表現は、「口頭語では問題ないものの、文章語としてはやや落ち着かない」という結論をくだしているのである(筆者は鳥飼幸二)。緩やかな支持ではあるが、心強い味方が現れたものだと思う。
【2】エッセイ30「充分」(2003年9月11日)で論じたこの言葉について、『問題な日本語』は次のように述べている。
本来の形は「十分」で、「充分」は「充足」などの類推から出たもの。教科書や新聞では一般に「十分に検討する」「必用にして十分」「不十分」「必用十分条件」などと使うが、「{十分・十分}煮る」のように意味が紛らわしいときは、「充」も。文学では「充分」も根強く好まれる。なお、「十二分に満足する」では、「充二分」とはできない。
「やっぱりそうだろう」という感じだ。ただ、「文学では『充分』も根強く好まれる」という主張には疑問形がつく。文学以外のところでも「充分」が大手を振って歩いているのを頻繁に見るだけに、この断定には直ちには同意できないのである。「いまや日本全国で『充分』が好まれる傾向にある」といったほうが正しいように思われる。
【3】第三は、エッセイ71「よろしかったですか」(2004年9月5日))に関わるものである。筆者の北原保雄は、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」を取り上げて、「ご注文」が過去のことと見なすことができれば、これは許される表現ということになるという。注文をいろいろして、し終った、それは現在の注文ではあるけれども、し終った過去の注文でもある。注文が過去のものと見なされれば、「先ほどのご注文はあれでよろしかったでしょうか」に準ずるような表現として許されるのではないかと言うのである。
この論法によると、「領収書を書かせていただいてよろしかったですか」という言葉は許されないことになる。受付の女性はこれから領収書を書こうとしているのだから、つまり領収書は未来のことだからである。
かといって、「領収書を書かせていただいてよろしいですか」と単に現在形に直すだけでも問題は解決しない。この表現はあまりにもへりくだりすぎだからである。そこまで患者に媚びることはないだろう。受付の女性は“できるなら領収書など書かなくて済むほうがいい”と思っているのだろうから、簡単に「領収書は必用でしょうか」と言えばよいのである。
【4】第四はエッセイ65「してあげる」(2004年8月31日)に関わるもので、わたしはそこで「猫に餌をあげる」とか「花に水をあげる」などという表現にいちゃもんをつけたのだが、『問題な日本語』は、「『猫に餌をあげる』『花に水をあげる』は、違和感を持つ人もいる表現ではありますが、『あげる』という言葉の使い方の変化として理解できます」と結論づけている。
しかしこの項目を執筆した北原保雄も言っているように、「あげる」は本来「やる」の謙譲語で、「やるという行為を及ぼす相手を尊敬して用いる敬語」であった。だから「先生にあげる」「お友達にあげる」などは正しい使い方だが、「猫」や「花」などに対して「あげる」というのは間違った使い方なのである。
ところが北原は、敬語に限らず言葉というものは、人がいろいろに使っているうちに変化することがあると言う。相手を尊敬するためではなく、上品な言葉遣いにするために使う敬語を美化語というが、「あげる」も美化語として使うようになっている。「現在では、変化がさらに進んで、『あげる』の謙譲性はほとんどなくなって、対等もしくはそれ以下の人に対してしか使わないというのが大勢になっている」と分析するのである。
そのほかにも、「あげる(やる)」という行為は相手に恩恵を与える行為なので、どうしても恩着せがましい感じになって、相手を尊敬することと馴染まなくなるとも言う。さらに、「あげる」は「差し上げる」という謙譲語があるために、その謙譲性が弱くなってきたと推測されるとも言っている。「やる」の謙譲語としては「差し上げる」が一般的になって、「あげる」の謙譲性が下がったというのである。
北原は、先生に対して「これをあげます」とか「カバンを持ってあげます」などとは言えない、という学生の言葉を紹介しているが、この学生にしても、相手が自分の先輩ならどうであろうか。「これをあげます」「カバンを持ってあげます」と言えるのではないだろうか。たしかに、わたしでも自分の先生に対して「これをあげます」とは言わないだろう。「これを差し上げます」と言うことになるに違いない。「あげる」対象の人物に尊敬度の違いがあって、「あげる」が使えたり使えなかったりするのであろう。
このように説明されると、なるほどと納得してしまいそうなのであるが、しかし「猫に餌をあげ」たり「花に水をあげ」たりして上品さを出そうとする試みは、やはりわたしにはできない。「あげる」という言葉の持つ“尊敬語”的意味合いが強いからである。
【追記】「あげる」の元の形「やる」について、気になる表現をときどき見る。具体例を挙げてみよう(井上健「必要悪としての学校文法」川本皓嗣・井上健編『翻訳の方法』東京大学出版会、1997年)
「関係詞節は、原文の流れ、事の生起した順序を十分に考慮して、適宜 and there 式に接続詞を補って訳し下ろしてやったほうがわかりやすいことになります。」(p.
19)
「真意が伝わる日本語表現を工夫してやる必用があります。」(p. 21)
「このように、名詞(名詞句)を名詞節(動詞構文)に読み替えてやるプロセスは翻訳作業にはもちろんのこと、原文を理解する上でも不可欠なものです。」(p. 21)
■「訳し下ろしてやった」「工夫してやる」「読み替えててやる」は少々乱暴だ。無神経すぎる。単に「訳し下ろした」「工夫する」「読み替える」としたほうがよいだろう。
蛇足ながら、ひとこと追加しておきたいことがある。「やる」の丁寧語は「あげる」なのだから、「訳し下ろしてやる」が乱暴だというのなら「訳し下ろしてあげる」とすればいいのかと考えてはいけない。上述したように、「花に水をあげ」たり「猫に餌をあげ」たりするように、「関係詞節」に敬語を用いることは避けたいからである。
■ところで、上の引用文のすぐ後に、次のような文がある。
It was a week before he got well. なら誰でも「1週間してようやく・・・・・・」と訳すように、原文の流れに棹ささぬよう心がけて訳出することが肝要なのは、こと関係詞節に限りません(p.
21)。
「原文の流れに沿って」あるいは「原文の流れに逆らわないように」心掛けるべきだ、ということが言いたいのであろう。それなのに、「原文の流れに棹ささぬよう心がけ」るべきだとは恐れ入りやの鬼子母神だ。
「流れに棹さす」というのは「棹を操って船を進める」(『岩波国語辞典』第四版)ことだから、「原文の流れに棹ささぬよう心がける」ということは「原文の流れに沿わないように心がける」「原文の流れに逆らうように心がける」ということになる。これでは筆者の言いたいことと逆の意味になってしまう。
本書の23ページでも「原文の脈絡を補足し、語順・文順に留意して、流れに棹ささぬように訳出する」という文を書いているから、この人は「流れに棹さす」が「流れに逆らう」という意味だと誤解しているのであろう。
「訳し下ろしてやったほうが」とか「原文の流れに棹ささぬよう心がけて」とかいう日本語を使う人に「翻訳の方法」が説けるのだろうか。翻訳は日本語の問題だというのはいまや常識である。