オルガンのこと




学生の頃、それこそ全身全霊を傾けて打ち込んだものがある。それは哲学でも神学でも聖書学でもなく、パイプオルガンであった。オルガンというこの楽器に、私は特別な思い入れがある。そのいきさつのようなものをお聞きいただきましょう(ちょっと長いですけど)。


初めてオルガンを習ったのは、幼稚園くらいの時であった。普通は「ピアノを習った」と言うのだろうが、レッスンを受けた教室にも自宅にもピアノがなく、使っていたのはヤマハの電気オルガンだったので、やはり「オルガンを習った」と言う方が正確だと思う。私にひょっとしたら才能があるかも知れんと期待してくれた両親が習わせてくれたのだ。私は今、このことを両親に深く感謝している。しかし、小さな子供だった当時は親の気持ちなどぜんぜん知らず、オルガンの練習はキライだった。小学生になると、ますます練習がおっくうになって、レッスンも止めてしまった。

中学に上がった時、私は将来神父になりたいと思い、親の承諾を得て、長崎南山中高等学校付属の聖ルドビコ小神学校に入った。ほんとうは付属ではないのだろうが、この小神学校は学校の敷地内に立っているのだ。小神学校とは、修道院の少年版のようなものである。単なる男子寮ではない。略して小神(しょうしん)と言う。ついでながら、本格的な修道院は大学生からで、そちらは大神学校と呼ばれる。略して大神(だいしん)と言う。

さて、当時この小神には、週に一回、「歌の練習」の時間があった。外から声楽の先生がやってきて、約1時間ほど発声やら聖歌の合唱やらを指導してくれるのである。私は実は歌を歌うのが苦手で、この「歌の練習」は、できればぜひパスしたい課目であった。だが、小神と言えども一応修道院。日課は神聖にして絶対であり、立ち上がれない程の病に伏していないかぎり、必ずや守るべき「義務」なのであった。私はこの歌の時間だけぜひ病に伏していたかったが、それはあまりにもバレバレなので、しかたなく練習に参加していた。

ところが、神さまは私をお見捨てにはならなかった(ほんとか)。小神ではその頃オルガン係を募集していたのだ。当時は50人ばかりの小神学生がいたが、オルガン係を志願する人は極めて少なかった。オルガン係は朝晩の祈りやミサの時に歌う聖歌を伴奏する役目をもつ。当時はたしか朝5時半に起床、45分に朝の祈り、6時からミサという日課だったと思う。オルガン伴奏者は他の人より少し早く聖堂に来て準備しなくてはならないし、どんなに眠くてもサボるわけにはいかないし、悲惨な伴奏にならないように前もって練習しておかなければならない。係は2・3人しかいないので、すぐ順番が回ってくる。けっこうキツイ仕事なのだった。

だが、オルガン伴奏者にだけ許される特権は、「一緒に歌わなくてもよい」ということなのだ。オルガン奏者だけは、歌の練習の時にも声を出さなくてよいのである。私はまったく迷うことなく、オルガン係になることを志願した。こういう、なんとも不純な動機からであったが、ともかく私は、再びオルガンを始めたのだった。そのかわり、当然のことだが、歌はぜんぜん進歩しなかった。そんな私が現在、こともあろうに「典礼音楽」という、まさに「歌の練習」の時間を担当しているとは、人生何が起きるかわからないものである。(もっとも歌の指導は西脇君で、私は伴奏だが)。


やがて私は高校を卒業し、名古屋の大神、すなわち神言神学院にやってきた。1979年春のことである。駅前の「大名古屋ビルヂング」を見た時にはちょっとこけたが、長崎以外には住んだことのなかった私にとって、名古屋は初めて体験する大都会であった。いろいろなことが長崎と名古屋では違っていた。言葉も習慣も人の接し方も。なにより、大学の学生生活は高校の時とまるで違っていたのである。女の子たちと普通に談話するということも、私には新鮮なことであった。長崎南山は男子校であり、しかも私は小神に入っていたので、中学高校生時代は、同年代の女性と接する機会は非常に少なかったのである。女の子と顔と顔を合わせて話しをするのはテレるので苦手だった。

さて、大学1年生の終わりごろ、私は自分でも理由がよく分からない不機嫌病にかかった。五月病みたいなものだったと思う。何をしても面白くないし、やる気が出ない。誰と話しをしてもつまらない。楽しくない。意味もなくふてくされてみたり、眠くもないのにやたらと布団にもぐりこんで寝ていたりした。具体的なことはぜんぜん覚えていないが、別に人間関係のもつれがあったわけではなく、また思春期にありがちな恋わずらいみたいなものでもなかった。

今考えてみると、たぶん私は、自分がおかれた新しい環境にうまく対応できていなかったのではないかと思う。自分を取り囲む新しい世界に、自分ではちゃんと順応しているつもりでいたが、私の精神はまだまだ未熟で、実はそうではなかったのだろう。新しい名古屋での生活に、私はついて行けてなかったのだ。そして自分が世間の流れの中に飲み込まれて溺れていくような不安を、無意識のうちに抱いていたのだと思う。不機嫌でふてくされた態度は、その不安に対する無責任な反抗ではなかったか。たぶん私は自分の殻の中に閉じこもって意固地になってしまっていたのだ。


その当時、神学院には小さなオーディオ室があってステレオ・セットが置かれており、クラシックのレコード(LP)がたくさん棚に入っていた。ある日私はふと、クラシック音楽でも聴いてみようかなと思った。それまで私は、まともにクラシック音楽を聴いたことがなかったのだ。クラシックと聞いて思い浮かぶのは、せいぜい「ペールギュントの朝の曲」とか「つるぎの舞」とかいった、小学校で聞いた曲の、それもさわりの部分だけだった。触れておくべき偉大な芸術だとは思っていたが、なんだか堅苦しそうだし、長いし、やたらとたくさんあるし、ついつい敬遠していたのである。

試しにちょっと何か聴いてみようと、ベートーベンの交響曲を聴いてみた。有名な第五番「運命」である。思いがけないほど、よかった。さすがベートーベンだ。たいへん聴きごたえがあり、元気が湧いてくる。それがきっかけで、私は、ブラームスやらブルックナーやらムソルグスキーやらチャイコフスキーやら、そこにおいてあるレコードを手当たりしだいに聴き出した。でも、クラシック音楽を神妙に聴くことが、何だか照れくさかったので、他の人がいない時にこっそりとヘッドホンで聴くことが多かった。今思うのだが、その部屋には、本当に良い曲の良い演奏のレコードが置いてあったのだろうと思う。私のような無粋者でさえ感動したのだから。

ある日、私は一枚の地味なクリーム色のジャケットのレコードを手にとった。バッハのオルガン曲集と書いてある。どんな曲なのかなと、別段の期待もなく、かけてみた。ところが、しばらく聴いているうちに、私はかつてないほどの大きな感銘を受けた。



曲もむろん良いのだろうが、それよりその演奏が、非常に真摯であり、凛(りん)としているのである。しかもそれでいてたいへん美しいのだ。なんだか清楚な茶席のお師匠様のお点前のようでもあり、修道士が聖堂でひたむきに祈りを捧げている風でもある。

「すごい」と思った。よく分からないが、とにかくすごい。私は、いったいどんな人が弾いているのか、ジャケットの解説をよく読んでみた。そして愕然としたのである。弾いているのはヘルムート・ヴァルヒャというドイツのオルガニストであり、彼は何と盲目なのであった。

ヴァルヒャは幼いころから視力に障害があり、だんだんとそれが悪化していったらしい。そして16歳の時に気の毒にも完全に失明してしまったそうである。しかし彼はオルガンへの情熱を捨てなかった。J.S.バッハの音楽に傾倒した彼は、親や先生の助けを借りて、バッハの曲をひとつずつ暗譜していったという。バッハのオルガン曲は両手両足をフルに使う難曲ぞろいである。それを少しずつ各声部を歌ってもらって覚えていったというのだ。まさに血のにじむような努力である。

そして10数年かけて、ついにバッハの450曲ほどもあるオルガン曲とチェンバロ曲をすべて暗譜してしまったのである。彼は1907年の生まれであるから、1914年-18年と1939年-45年の2つの世界大戦、そして東西分裂を経験している。まさに激動の時代を生き抜きながら、彼はひたすらにオルガンを弾き続けたのである。(ヴァルヒャは1991年に惜しくも亡くなった)。

彼の演奏のすばらしさはしだいに評判となり、録音がなされた。モノラル時代とステレオ時代に2回、バッハ・オルガン作品全集を完成している。私が聴いたのはアルヒーフから出ていた2回目の録音の一部であった。


私は、それからしばらくの間、ヴァルヒャのことばかり考えていた。視力を失い、バッハの暗譜を決意するまで、ヴァルヒャはいったいどんな思いだったのだろうか。しだいに消えていく視力。さぞかし辛く悲しかったであろう。音楽の才能に恵まれていただけに、くやしさはなおさらであったろう。ついにまったく見えなくなった時、どんなに失望したことだろうか。彼のもだえ苦しみは、考えてみるだけでも痛々しいほどである。しかし、彼は自分の悲運に屈しなかった。彼の心の中の火はどんな逆境にあっても決して消えることがなかった。そして彼は暗闇の中を前へ前へと歩み出したのである。

ヴァルヒャの弾くバッハは決して派手ではない。彼の演奏は自己顕示の手段などではないのだ。彼の技巧は超一流であり常人の及ばぬものではあるが、私が感動したのは、彼の卓越した演奏技術にではない。ヴァルヒャのバッハにはそういう技巧をどうでもよいと思わせるような、何かもっと高潔な精神が感じられるのだ。彼の心の目にはきっとバッハの音楽の本質が見えていたのだと思う。

私はヴァルヒャに非常な敬意を抱いた。そして同時に、うじうじとイジケている自分のことを非常に恥ずかしく思った。おまえはいったい何をしているのだ。情けなさすぎるぞ。私にはヴァルヒャの演奏が、まるで厳しい説教のように響いた。


私はそれからほどなくして、バッハのオルガン曲に挑戦し始めた。ヴァルヒャのつめの垢でも煎じて飲むようなつもりであった。幸い、名古屋の神学院の聖堂には、二段鍵盤でフル・ペダル付きの電気オルガンがあった。時間を見つけては聖堂の二階に上ってオルガンに座り、バッハの楽譜を開いた。

しかし・・・難しすぎて弾けないのだ。聖歌の伴奏がどうにか弾けるくらいのレベルでは、バッハは弾けないのである。二小節と続かない。手ももつれるが、足が出てくると、もうお手上げであった。ブツ切れの不快な不協和音ばかりが、広い聖堂の空間に響いては消えていった。しかし私は、バッハの曲を、たった一曲でもいいから、どうしても弾けるようになりたかった。そのくらいの努力もできないなら、自分はこれから何をやってもダメであろうと思った。その時どの曲に挑戦したのか実はよく覚えていない。たぶん「小フーガ」だったような気がする。何にしろ、めまいがするほど難しかったことだけは覚えている。それからほとんど毎日、時間があれば聖堂の二階に行き、ひたすらにバッハを練習した。

私が突然熱心にオルガンの練習を始めたので、それを怪訝に思う人たちもいた。ある先輩は、「おまえ、何か発表会でもあるのか?何のためにそんなに頑張ってるんだ?」と聞いた。私にはしかし、それに対する答えがなかった。私はバッハの曲を、何かのために練習しているのではなかったからである。その時の私にとっては、バッハを弾くことそのこと自体がいわば目的であった。

また別の先輩は、「いいなあ、楽しい趣味があって」と言った。しかし、その時の私にとって、バッハの曲の練習は、ぜんぜん楽しいものではなかったのである。むしろ逆につらく苦しいものだった。楽しいから弾くのではなかった。たとえ苦しくても弾くのだ。どうしても弾きたいから弾いていたのだ。


人間、忍耐があれば、なんとかなるみたいである。私のバッハの練習も、毎日ほんの少しずつではあるが進歩した。聖堂に響く不協和音は少しずつ少しずつ、澄んだ音色に変わっていった。そして、それとともに私の心の中も少しずつ整っていったのだった。オルガンの練習は依然として苦しかったけれど、困難をひとつひとつ乗り越えて行けた時の嬉しさも知ることができた。

オルガンの練習は、山登りに似ているかも知れない。ひとつの山をがんばって登っていくうちに、だんだんと歩き方が分かってくる。一歩一歩はとても小さいけれど、それが前向きな歩みであるかぎり、どんな一歩も無意味ではない。小さな努力の積み重ねがなければ、目標には決して到達できないのだ。小さな一歩一歩が私を少しずつ山に登らせる。そしてやがていつか山頂に到達する。それはひとつの達成であり自己の成長の証しである。

しかし、山頂に至って、より鮮明に見えてくるものは何かというと、自分の偉大さなどではなくて、むしろ大自然の雄大さと自分の存在の小ささなのである。自分が頑張って成し遂げたことは、雄大な自然の中ではほとんど無に等しい。

だが、それでよいのだ。ちっぽけな者のちっぽけな達成に過ぎないかも知れないが、私は今ここに立っている。来し方を振り返れば、私がそこに立つことを可能にしてくれた多くの力添えがあり、励ましがある。心は感謝の念に満たされる。一つ目の到達が次の努力への勇気付けとなる。そして、二つ目、三つ目の山を登る時の私は、もはや最初の私ではない。山から山へ尾根伝いに進むのもよいだろうし、いちど地上まで降りて再び新たに別の山に登りだすのもよいだろう。苦しさやつらさは、やがて喜びへと変わるだろう。

人生におけるさまざまな努力もまた、これと同様ではないかと思う。前向きに歩んで行くことの意義を、私はヴァルヒャから学んだ。その後、私はヴァルヒャのバッハ全集のCDを手に入れた。私の大事な宝物である。しかし、今でも彼の演奏を聴くたびに、「おまえはまだまだだ」としかられている気がする。