ええ、企画制作課でトヨタやミツカンなど地元大手企業から中小企業までリクルーティング広告の制作にかかわりました。
当時、リクルート社内で開催されていた「アドコンテスト」というもので年間大賞を受賞したり、自分のアイデア発信で効果が出てクライアントとの取引金額が大きくなっていく面白さもあって、とても充実していましたね。
ただきつかったのはちょうどその当時、世間を騒がせた「リクルート事件」の影響をもろに受けたこと(笑)。
取材依頼をしても「リクルート」という名前を出すだけでことごとく拒否されて、本当に大変でした。
私が編集長として創刊した「ダ・ヴィンチ」の時もそうでした。
本の雑誌という、これまでリクルートがチャレンジしてこなかった事業設定の上、ほぼ未経験のスタッフを集め、なおかつ最低でも15万部売り上げるという高い目標が課せられましたから、非常に苦労しました。創刊号の表紙を飾った本木雅弘さんは大の読書家。協力を依頼した際、たまたま楽屋にいらっしゃった樹木希林さんが「面白そうじゃない」とおっしゃって下さりご縁ができました。
内容にもこだわり、当時まだ広く認識されていなかった「ストーキング」の特集を組んだりするなど、意欲的に挑戦したことで結果的に目標を達成できました。
またちょうど「ダ・ヴィンチ」の創刊時、「就職ジャーナル」時代に僕らが紙面で紹介した「就職氷河期」という造語が流行語大賞特別造語賞を受賞する、なんていうことも。この言葉は、バブル崩壊後の就職難の時勢をわかりやすい言葉でうまく表現できないか、いろいろ議論していた中で浮かんだ言葉だったんですけどね。
元々子供のころから漠然と作家になる夢があって、リクルートに入ってからもその夢をあきらめてはいませんでした。リクルートに入ったときの目標としては、30歳までには何らかの作品を出したいと思っていましたね。ただし、そのためには最低でも3年は習作期間を設けたいと思っていました。だから、入社から4年目、26歳の時に辞めたいと上司に言ったんです。
でも当時、名古屋支社長と話していたとき、ふと「クリエイターなのに、東京で一度も勝負しないの?」と言われ、確かに、東京に出て勝負してみるのもありかと思いまして。
そこで「本社に異動すればいい」「いや、こっちで引継ぎもあるし」といったやりとりがあって、名古屋と東京兼務というわけのわからないポジションになったんです(笑)。
週に半分は名古屋で引継ぎの業務を行い、東京では“ぶらぶら社員”という名で本当に好きなことをやらせてもらった。
それから3か月経て、さすがに会社から「何か目に見える成果を出せ」と言われて作ったのが、「ギャッピー」という学生調査マガジンでした。企画から制作まですべて一から作り上げて、多くのマスコミやアメリカ大使館から取材依頼を受けるほど評判も良かったんですよ。
それから先ほどお話しした「就職ジャーナル」や「ダ・ヴィンチ」を経て「21世紀には作家として独り立ちしよう」という決意のもと、リクルート在籍中の99年に「文學界」に小説を発表。
2001年にはリクルートを退職、それから現在まで執筆活動を続けています。
作家として活躍している方の中には、会社に就職してから作家デビューした人ってまだ少ないんですよ。でも小説の中には、会社組織や会社員を描くシーンもありますから、その点においては自分の経験が作品に少なからず反映できているかなとは思います。
また、メディアにかかわる人間の特権として、様々な立場の方に対して取材をして話を聞くことができたのはよかったです。
だって、22歳の若造が、一部上場企業の会長に対して何でも聞けるんですよ。飲みにつれて行ってもらえるし、「どうやったら会長になれるんですか?」みたいなことも興味があればどんどん聞いちゃう(笑)。特に若いころは知らないことばかりだから、一つ一つ聞いたことが新鮮で面白かったですね。
そう考えるとリクルートで仕事をしたことは、実際に小説を書く上でも貴重な経験をさせてもらったと思います。
また、会社員として仕事をするなかで嫌な思いもたくさんしたし、管理職のしんどさも十分すぎるほど経験してきた。ただそうした組織の中で仕事をすることは、ほとんどの社会人が実際に経験していることです。
特に明確な理由はなかったのですが、あえて言えば地元の文系で、私大を志望していたことが南山大学を選んだ理由ですね。その中で法律を選んだのは、「人の営みをルール化する」という法律の存在意義や目的に興味を持ったことです。法治国家である以上、法律に基づいて社会は動いていくことになりますが、そもそも人の営みをルール化するというのは、非常に難しいこと。その難しいことをどうやってルール化していくのか?法律として制定していくプロセスや、そこに携わる専門家の葛藤や思いに対して、特に興味を持ちました。
当時、私が講義で学んだ中で、今でもはっきり覚えていることがあります。「尊属殺人」という刑法200条(※)で規定していた条文で、自分や配偶者の直系尊属を殺す罪のこと。つまり身内同士の殺人に関する罪です。普通の殺人よりも罪が重く、その多くは死刑や無期懲役に処せられていたんですが、いつの間にか形骸化して「身内を殺したから特別罪が重い」ということがなくなり、今は普通の殺人罪の中に組み込まれています。こうした変化には、世の中の親族内での人間関係に対する価値観や考え方が少しずつ変わっていったことが多分に影響しているわけで、非常に興味深かったですね。
※この条文は既に削除されている。
子供のころから本が好きで、中学生のころから作家になりたいと思ってました。だから大学に入っても、就職する気はさらさらなくて(笑)。ただ、南山大学時代のゼミを担当されていた教授の指導は、後の創作にも役立っています。
所属していた国際関係論ゼミでは「日本人」や「日本社会」というテーマで研究をしていました。
例えば「日米外交」というと、とても大きく見えますが、その時の大臣や官僚による「人対人」による人間同士の交渉に過ぎない。だから、「そもそも日本人とは何か?」ということを深く認識していなければ、外交の本質を理解することはできないと、先生から言われた一言が今でも強く印象に残っています。そこで先生の勧めで『タテ社会の力学』『甘えの構造』『菊と刀』などの本を読み漁りました。それまで小説ばかり読んでいた私にとって、その内容はどれも非常に新鮮で、面白かった。その流れで3年生のとき、日本人や日本社会の特性が顕著に表れる「政治風土」を研究しました。ロッキード事件や金権政治がメディアで大きく取り上げられた田中角栄を選出した新潟3区に興味をもち、現地調査にも行きました。
調査をもとに執筆した論文を先生が非常に高く評価して下さり、「君は書く仕事をしたほうがいいのでは?」と言われ、コピーライターという仕事を紹介してくれました。
先ほども話したように、作家になるつもりだったので就職する気はなく、就職活動もよくわかってなかったんです。
その時、たまたま大学の友人に誘われて、リクルートの名古屋支社が開催したあるイベントに出席しました。「広告」というテーマで様々な事例を通して紹介するというもので、その内容は面白かった。しかし想定外だったのは、そのあと「波」というタイトルで原稿用紙3枚以内で作文を書くというお題を出されたこと。
実はバイトがひかえていたので、1枚半でササッと書き上げて一番早くその場を立ち去りました。
その数日後、リクルートから連絡があって「君のが一番よかったよ。うちでバイトしない?」と誘われたのが就職のきっかけです。当時、名古屋支社が本社だと本気で思っていたほどリクルートのことを何も知らなかったんですけどね。
聖書を読んだのが良かったですね。聖書ってなかなか自分から読んだり学ぶきっかけがないじゃないですか。でも欧米を中心に発信される文学や映画などの根底にあるのは、実はキリスト教ならではの考え方や価値観だったりするわけです。そこから興味がひろがって仏教やユダヤ教、イスラム教など他の宗教や歴史にも関心をもつようになった。それがやがて「なぜ中東での紛争は長年繰り返されるのか?」といった、世界各地で発生している問題を考える基盤になっていきました。
学生のころは一見、無駄なことを学んでいるように思えて、実はそれが、私たちが生きている社会や世の中に対する理解を深めることにつながります。
無駄に思えるようなことを学べる環境がある。実はそれが大学で学ぶ一番のメリットではないでしょうか。
ええ。今の時代、ネットで調べれば様々なことがわかりますが、それは一つの知識であって教養にはつながらない。一連のテーマや流れの中で知識を得て、それらが少しずつ蓄積されることではじめて教養になるんです。その過程の中で「あいまいなことが少しずつクリアになっていく」面白さを体感できるのは、社会に出てからも大きな価値になります。
教養は、その一つ一つが具体的に何らかの仕事に役立つわけではないけれど、教養があることによって新しい知識を受け入れる時の「最初の受け皿」として機能します。先ほど話題に出た「外交」のように、“あいまいなでかい言葉”に対して勘違いをするリスクを減らせるのは、生きていくうえで大きなメリットとなるはずです。
グローバル化を見据えて英語を学ぶのも大事ですが、それと同じようにキリスト教について学ぶことも重要なんです。信仰の基盤になるようなものを知っているだけでも、いつか役立つときが来ます。
実は、いつの時代も就職に対する不安は誰しも持っているんです。
バブル全盛期、黙っていても内定が取れていた時代に、少しでもいい学生を確保しようと企業は頭を悩ませていました。その結果、内定した学生をハワイに連れていく企業もあったほど。
普通であれば「就職ジャーナル」のような雑誌に頼らなくても困らないはずなんですが、その当時も売り上げ部数が落ちたことはありませんでした。
そればかりか、就職に関する相談に乗ってほしいと多くの学生たちから声をかけられました。
なぜ引く手あまたの学生たちが、私を呼んだのか?
それは「内定は複数社からもらえても、就職は1社にしかできない」という現実と、それを自分自身で選択し、決断しなければならないことに対する不安からだったんです。
就職は1社しかできない。本当に自分とその企業がマッチしているのか?
正直なところ、入ってみないと誰もわからないのです。
それはバブル全盛期も、今も、どんな学生でも同じこと。
でも、そこに就職ならではの面白さがあるんです。
自分で選択し、行動し、決断する不安と覚悟。
その面白さにぜひ気づいてほしい。
就職にしても、何にしても自分自身が決断して選んで進んでいく。それが人生です。失敗することもありますが、忘れないでほしいのは「その道を選んだのは自分自身」ということ。それを忘れて被害者意識ばかり強くなると、また同じ過ちを繰り返すことになります。
それと仕事は、本当に自分がやりたいことだったとしても、必ずしんどいことはある。心底楽しいと思えるのは365日のうち6日程度でしょう。
そうした認識を持ったうえで、世界と向き合って生きていってほしいですね。
(2014年2月)
2014年2月現在
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ながぞの やすひろ | |||
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長薗 安浩 | |||
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作家 | |||
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1983年3月 | ![]() |
法学部法律学科 |
1979年3月 | 愛知県立刈谷北高校卒業 |
1979年4月 | 南山大学入学 |
1983年3月 | 南山大学卒業 |
1983年4月 | 株式会社リクルート入社 |
1988年 | 『就職ジャーナル』編集長に就任 |
1994年 | 『ダ・ヴィンチ』創刊 初代編集長に就任。「就職氷河期」で流行語大賞特別造語賞受賞 |
1999年 | 「ウェルウィッチアの島」で作家デビュー |
2001年6月 | リクルートを退社。以後執筆活動に専念 |
など |