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社会変動と
日常生活の変化
松戸 武彦




松戸 武彦 まつど・たけひこ 

総合政策学部教授、総合政策学科。
専攻分野は比較社会学。長期研究テーマは「比較社会変動研究」。短期研究テーマは「アジア社会の社会変動と社会意識」。担当科目は『比較社会学』、『社会学概論』など。


 私の専攻分野は社会学です。昔々、小学校の先生が、私の通信簿の所見欄に「熱中しやすいが、飽きっぽい」と書かれておられました。しかし、大学に入ってから30年あまり、一貫して社会学を勉強してきたのですから、どうも先生の人物評価に若干の誤りがあったようです。若干と書いたのは、もう1つの生涯熱中分野とあわせて、都合2つの分野以外は「飽きっぽい」という評価が、人生を省みると本当に的を射ているからです(もう1つの分野は秘密です)。
 ではなぜ私の性格からして、そんな奇跡的な持続が可能だったのでしょうか。この歳になって書くのは少し恥ずかしいのですが、社会学という分野がおもしろかったし、好きだからなのです。何かの加減で、もし他の分野に進んでいたならば、たぶん途中で放り出して、全く異なった人生を歩んでいたと確信しています。
 その大好きな社会学なのですが、実は「社会学って何?」という質問こそもっとも苦手な質問です。この質問をされるたびに、私だけでなく世の社会学者のほとんどは心拍数が3倍に跳ね上がるのです。本当は他の研究分野でも、まともに「その分野って何?」と聞かれたら同じような状況になると思うのです。でも、全く不公平なのですが、経済学や法学、経営学、政治学という、他の社会科学に対してこのような質問がなされることは少ないようです。
 たしかに「経済を研究しています」、「法律を勉強しています」という言い方は人がとりあえず納得するのに十分な響きを持っています。でも「社会を勉強しています」という言い方は、ものを知らないよっぽどの若僧が、これから人生の荒海に乗り出す覚悟を語っているかのように聞こえます。あるいは、人生の数ある起伏の中で謙虚に生き抜いてきた人が、これからもひかえめに、まっとうな人生をおくるという宣言のように聞こえます。いずれにしても、専門の研究分野に対する言及だとはあまり思えないのではないでしょうか。だからひとは「学」がついたとたんに「社会学って何?」と思わず訊いてしまうようです。
 さて私の専門分野をもう少し詳しく述べると、産業・労働社会学とか、その分野を基礎にした比較社会学的研究ということ になると思います。今、メインの仕事として最も力を注いでいるのは東アジア、東南アジアの社会変動と社会意識の関連をつかむことです。重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行でこの地域への旅行が下火になっていますが、とにかく上海や北京、ソウル、バンコク、シンガポールなどの都市を目の当たりにすれば、この地域が急速な経済成長を遂げていることが実感できると思います。M・ヴェーバーという社会学の巨人がいますが、彼の問題関心の中心に「近代的資本主義社会がなぜ西欧にのみ成立したのか」という問いがあります。そして、この問いは単に高い経済成長を指し示すのみならず、社会のあり方自体が根底から変動したという認識に支えられた問いだと考えられます。私は、上述した地域で近年生じている社会変動はこのような人類史的変動に匹敵する大きな社会変動ではないかと考えています。ひところ、この地域の成長を、日本を先頭とした雁行にたとえて論じることがありましたが、韓国や中国の台頭を見ていますと、もっと根底的なところで世界の中心への志向性すら漂ってきているように感じられます。
 中国はほんの20数年前まで「純正の」社会主義国として世界経済の中で認識されていました。しかし、改革・開放政策の展開と共に急速にわれわれの社会との相違を無くしているかに見えます。では、社会主義社会とはどのような社会であったのであり、市場経済化とはどのような社会の変化を指すのでしょうか。私の関心は、この問いに人々の日常生活のレベルでどのような変化があったのかという視点から接近することにあります。
 たとえば、次のような事実が浮かび上がっています。私は、中国の沿海都市部でここ15年ぐらい継続して意識調査を展開しています。その中で際立って来たことの1つに中国社会のジェンダーの問題があります。社会主義の中国が他の社会と比べて一定の前進として自他共に認めていたことに男女平等があります。この事実を反映して1990年代初頭の調査では、労働条件や就業意識に関して男女差はほとんど見られなかったのです。これは、他の社会での調査とはっきりした対照性を見せています。先進国社会でもこうした問題に対する男女の意見の差は社会的処遇差を反映して鋭い亀裂を見せるのがふつうです。しかし、中国社会ではそうなっていなかったのです。これは、私にとって当時は社会主義の成果として感じられました。
 ところが、その後の社会主義市場経済化の過程ではむしろ、労働条件や就業意識に関する男女差がはっきりするという調査結果が出てきています。つまり、市場経済化は、平等であった女性の労働条件を相対的に下げることに繋がり、それが意見の男女差に反映されたのです。これは、中国が「普通」の社会になったことを意味すると同時にわれわれの社会の特質がどのようなものなのかについて重要な示唆を与えてくれる事実だと考えています。
 市場経済化は必ずしも市民社会化と並行する過程ではなく、場合によっては逆行するプロセスかもしれないということをさえ垣間見せる事象なのです。