神認識の謎をめぐって

大森 正樹


  神が存在するかどうかを問うことは差しあたり脇に置いて(というのも仮にもし神の存在を精緻な論証で証明しえたとしても、その証明を聞いた人はおそらく、その論証の見事さに驚きの声を上げるであろうが、しかしそれでこれまでは神の存在を承認していなかったのが、途端に承認するようになるかは、保証の限りではない。実のところ神の存在論証などは一種の知的ゲームかもしれない。つまり「神が存在するか」ということは、論証によって確信しうるようなものではなく、論証以前に、「存在するか、どうか」はその人の心の中で既に決定されてしまっている問題であろう。加えて神なき現代では、論証などは一笑に付される。そうであるから)、「神は存在する」ということからいきなり出発してみよう。
 すると神はわれわれ人間とどういう関係をもつのかが問題になってくる。神はわれわれと全く関係をもたず、その関心は自己にのみ集中し、いわば自足して、われわれとは何ら交渉をもたぬのであろうか。しかしキリスト教や他のセム系の一神教(ユダヤ教やイスラーム教)では、神は人間と関係をもつどころか、人間の歴史の中に介入すらしてくるのである。それなのに、他方、神をいかに認識するかという場面では、これらの一神教では、伝統的に神の何たるか(本質)は、被造物・人間には把握不可能であるとされる。神は人間などと関係をもつと言いながら、その神の内実は人間には掴みえないのだと言う。このような論は矛盾ではないのか。
 しかし逆に、もし人間が神の何であるかを把握しえたとするなら、人間は神を十全に認識しうることになり、神はいわば人間の手中にある。つまり、神は人間の恣意のままに動くものとなり下がるであろう。だがこのようなものを人間は、決して神とは呼ばない。しかし人間は神を識りえないままの状態に満足しえない存在でもある。というのも人間は自分の状況を超え出て、何か自分を凌駕する存在に身を委ねたいという超越への根源的欲求をもっているからである。
 このような問題を前にして、ギリシア北部の大都市、テサロニケの大主教であったパラマスのグレゴリオス(一二九六/七年〜一三五九年)はある一つの解答を提出した。もっともそれは全面的にパラマスの創意というのではなく、パラマスが身を置いていた東方教会(歴史的には一○五四年にローマ・カトリック教会と袂を分かった教会)に伝統的に伝えられていたものをその時代の言葉で語り直したものであった。それによれば、神にそのウーシア(本質)とエネルゲイア(働き)を区別し、ウーシアについては人間・被造物は絶対に認識し得ないが、エネルゲイアには人間が親しく与りうるというのである。そしてウーシアは勿論神だが、そのエネルゲイアはウーシアとは分かたれない仕方で、分かたれ、しかも神である、と言う。勿論この考えには当初から様々な反論が提出された。何と言っても神にウーシアとエネルゲイアを分けることは、神がすぐれて「一」なるものであることに反し、二つの神を導入することになるのではないか、そしてウーシアとエネルゲイアがともに神ならば、どうしてそれを分ける必要があるのか、というのが主な反論である。
 ところでこのパラマスの考えは、「人間は神を認識できないし、また認識できる」と言い換えうる。この言い方は矛盾である。つまり「AはBでもないし、またBでもある」と言っているからである。多くの神学者がこれに異を唱えたのは当然と言えば当然である。
 ギリシア哲学の厳密な論理学から見れば、これは論理どころか誤謬であって、言うに憚かるものである。ギリシア哲学を少しは齧ったはずのパラマスは、しかし、こう言って憚らなかったのである。それはどうしてか。
 これを研究するのが、実は、私の課題なのである。
 この論理にもならない論理を臆することなく口にしえたのは、彼の背後に東方キリスト教の神観念あるいは、神認識の長い伝統があるからである。それに支えられていると確信していたからこそ、パラマスはこうした物言いをして恬として恥じることがなかったし、あまっさえ、彼に反対する人に向かって、反論をあびせかけたのである。
 パラマスを支えたのは、思うに、三位一体論であった。しかし三位一体論こそ、逆説中の逆説ではなかろうか。東方の信念によれば、神は三つのヒュポスタシス(ギリシア語で個的実存の意。西方教会でいうペルソナ、つまり父・子・聖霊のことだが、ギリシア語とラテン語の指し示す意味は同じではない)であるが、しかし一つの神である。つまり「神は「多」であって、しかも「一」だ」と言うのである。これは先の「人間は神を認識できないし、また認識できる」という言い方と相似形である。つまりキリスト教の神は多であることと一であることが同時に成り立つ神なのである。しかし「Aは認識できないし、また認識できる」という言明は通常は受け入れられない。だが神に対する場合は事情はいささか違う。「AはAであって、Aならざるものではない」という陳述は、いわば意識化された世界のものであるが、「AはAであって、またAではない」という陳述はこの世界の論理を超える。
 従って、後者の形をとるパラマスの言明は、神というこの世界を超えたものに通ずる論理としての存在理由をもっているように思える。一見たわごとのように思える発言が実は人間精神の奥底に宿る聖霊との通交の一つの道筋であること、その解明が私の仕事である。人間が「神の像」であることに気づくことは、あながち時代錯誤のようには思えない。そしてこのパラマスの思考方法は、三位一体解釈の過程で、「多」と「一」の統一という逆説を理解せず、己と神、己と他者をつなぐ聖霊の重要性を看過して、ロゴス(理性)を重視し、合理性を推し進めた西欧が見失ってきた神と人間の関係学を内から支えるものと私には映る。そこにはヨーロッパ東西の思惟構造の相違が露呈している。
(おおもり・まさき 人文学部教授 キリスト教学科)