南山大学

 

南山大学 キャンパス・校舎探訪「この宇宙の中に何か不思議な秩序があり、宇宙の万物はこの秩序の絶対価値に従って創られている。
その価値の把握に努力し続けるのが建築だ。」建築家アントニン・レーモンド

[歴史・沿革] 名古屋キャンパス

南山大学山里校舎ができるまで、いりなか周辺には市電の停留所はあったが、周辺にはそば屋「守鍵」と食堂「清栄」に、たばこ屋と一、二軒の家があるのみでそのほかは田圃であった。聖霊病院から東には家はやはり一、二軒しかなく、八事療養所のみがあった。新校舎建設予定地には人の背丈ほどの松と雑木がまばらに生えている荒れ地で、道路の境界もはっきりしないほど雑草が生い茂っていた。

1961年8月、当時の南山学園理事長ゲルハルト・シュライバー神父は、山里地域における南山大学総合計画を依頼するため、知人でチェコ人の建築家アントニン・レーモンドの来名を招請した。レーモンドは、直ちに来学し、新校舎建築予定地を歩き回り、計画の基本構想を得て、学園にこう伝えた。「敷地を南北に貫く尾根の細い道、敷地の背骨のような道、東西南北に素晴らしい眺望を持つので、この尾根を敷地計画の基本とすることを決めた」。自然との調和と機能を重視し、簡素で堅牢な設計の基本理念は、学園理事会の意に沿うものであった。その後すぐ当時の南山大学長であった沼澤喜市神父を委員長として、新校舎建設委員会が発足され、着々と山里の地に南山大学の校舎が建っていったのである。

レーモンドが山里の地に立ち、その土を手のひらにのせ、こう呟いたという。

「校舎外装のメインカラーは、この赤土と同じ色に。」
その後、レーモンドの意向をうけ、建設会社の塗装担当者は何度も何度も色素材を調合し、あの南山大学校舎独特の赤土色のペンキを作り出したのである。

1964年3月に建設工事は完了し、5月に祝別式、落成式が第2代学園理事長・松岡孫四郎司教の手で執り行われた。
1960年代半ば頃から、日本では高度経済成長が顕著となり、南山大学においても大学紛争へつながる運動が見られるようになった。校舎の壁にペンキで抗議声明が書かれ、学生が立てこもる教室に機動隊が突入することもあった。

その後、幾多の増設を経て、現在の南山大学名古屋キャンパスにいたる。

【参考文献】

  • 『南山大学五十年史』(2001)
  • 『HOMINIS DIGNITATI 南山学園創立75周年誌』(2007)

完成した山里校舎(1964.7)

礎石に名簿などを納めるボルト神父(1964.5.29)

赤土色の校舎(第1研究室棟)

2015年度3月竣工のS棟

日本建築学会賞受賞(本部棟1F石碑)

1965年 日本建築学会賞受賞

[受賞講評]

「高価な仕上材の美しさや特異な構造体の奇抜さに頼ることなく、与えられた自然との調和と機能的な校舎群との結びつきのなかから、これまでに見られなかった大学校舎群の新しい空間的秩序を創造したことは、高く評価されなければならない。」

日本建築学会賞受賞(本部棟1F石碑)

2002年 第12回 BELCA賞ロングライフ部門受賞

[受賞講評]

「小高い丘陵の屋根と斜面を最大限に活かしたいわば自然共生型の大学であり、豊かな緑の中で学園生活が送られている。日照、通風を享受し、根強い日差しを制御するルーバーは立面を引き締めるとともに外壁を守る役割を果たしている。初めから設けられた屋根地下の共同溝は、今日までのさまざまな設備の更新に寄与している。設計の高い質と日常の手入れの良さが施設を経済的に長持ちさせている好例である。」

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