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南山大学の歴史南山大学国際交流の歴史と文化活動

南山 中学校・小学校の設立

1909年9月に来日し、私立女子職業学校の校主代理となったヨゼフ・ライネルス師は、1912年、布教地に富山県・石川県・福井県を加えた新潟教区長に就任し、1922年に教区が再編されると愛知県・岐阜県・富山県・石川県・福井県からなる名古屋教区の教区長を兼任、1926年に名古屋教区長の専任になった。

ライネルス師は、1931年4月、ローマの神言会総本部からの定期援助金と、米国神言会からの借入金を基金に、日本名古屋市東部の南山(みなみやま)に土地を購入し、1932年1月21日、財団法人南山中学校と南山小学校を設立した。創立者兼理事長のライネルス師が中学校長に就任。

敗戦直後から、産業、経済の中軸として急速に発展を遂げつつあった名古屋には、名古屋帝国大学以外には高等教育機関はあまりなかった。ましてや外国語を専門とする教育機関は全国でも3、4校にすぎなかった、こうした中でライネルス師の後継者パッヘ師は外国語専門学校の設立を決意した。

1946年9月14日、英語科、華(中国)語科を擁した南山大学外国語専門学校が開校した。地元の新聞『夕刊新東海』(1946.9.15付)は、「ベレー帽を制帽にしようというモダンな外国語専門学校」が文化系専門学校の少ない名古屋に誕生し、初年度の合格者の中には4名の女子学生(英語科)がいて、男女共学の新しい道を歩み始めたことを報じた。

開校当初から一層の発展を志向し、1974年4月、独語科と仏語科を増設し、8月に名古屋外国語専門学校と改称した。

南西部から望見した中学校本館(1933~34年の冬)

中学初期の教員。中央はライネルス師、その左パッヘ師、右端は音楽担当の長松一枝(1933年)

至誠堂玄関前での外専第回卒業記念撮影

学長室での勤続教職員表彰。後列左から古屋二夫、中川龍一、齋藤龍助、岸田準一、前列左より藤木敦實、パッヘ、工藤粛(1951年3月)

1950年3月10日至誠堂にて行われた外専第2回卒業式。英語科46名、仏語科27名、独語科18名、華語科21名、計112名が卒業した。

南山大学の発足

1945年の敗戦を契機に、カトリック教義に由来する個人の尊重、自由と平等、基本的人権などの理念を公教育の基本とすることが可能となった。この理念を実現するため、パッヘ師は、新制大学の開校を構想した。

1948年に大学設立準備が始まり、49年2月に南山大学文学部設置が認可され、11,732坪の校地、2,195坪の校舎建物で英文学科・仏文学科・独文学科・中国文学科の4学部からなる小規模な大学として出発した。同時に第二部も発足した。5月2日、開学式と第1回入学式が行われ、5月26日に開学記念式典および、記念行事が開催された。初代校長にはパッヘ師が就任した。

1950年に文学部哲学科・教育学科・社会学科、52年に社会学部社会学科・人類学科、60年に文学部西語学科と経済学部経済学科、62年に文学部神学科、63年に外国語学部英米科、イスパニヤ科、経済学部経営学科がそれぞれ増設され、大学は順調に発展した。

東西両翼校舎、プール、大講堂、図書館など第1期工事完成記念式典。ローマ教皇使節も出席した(1951年11月11日)

現在の聖霊病院付近から南山学園を遠望。下手前に南山大学の看板が見える。

A.ハッツェ師の「文学としての聖書」講義。

英語学部英語学科H.ウィーゼン師のクラス。筆記代の付いた椅子が使用されている。

フランス政府派遣芸術使節として来日したピアニストのラザール・レヴィ氏に手を差し伸べるパッヘ師。後方の女性はピアニストの安川加壽子氏で、同氏はパリ音楽院でレヴィ氏の指導を受けた。

原、レヴィ、安川、小津恒子諸氏の音楽家との交流。右端は本学教授であった山本直忠

1960年文学部に西語学部が設立された際、スペイン政府より1620冊の図書が寄贈された。正面の女性はM.サラシン、その左はJ.ゴンザレース・バリェス師、右端はJ.クラネビッテル師

日独修交100年記念講演のために来学したH.プリンツ・ツー・レヴェンスタイン氏。講演題目は「最近100年間の日独関係」(1961年4月21日)

山里キャンパスの建築と設備

終戦間もなく、新しい時代の到来を感じたパッヘ師は、山里町、楽園町、八雲町にまたがる地域に約15平方メートルの土地を神言会本部の支援により購入し、将来の発展に備えた。五軒家町キャンパスが手狭になったため、また総合大学を目指して、1962年8月ついにこの地に、新校舎が建設されることに成った。設計を担当したアントニン・レーモンド氏は「自然という巨匠の手になる作品に敵うものはない」という信念のもとに、自然を出来るだけ生かし、起伏する丘を巧みに利用して、8棟の建築群を配置した。電気の配線は、美観上の点と台風の被害を考え、全て地下に収められた。建物の方位についても注意を払い、ほとんどすべての部屋は冬は太陽、夏は涼風を受けれるよう南向きに設計された。

落成式当日の正門。落成式は1964年5月30日E教室で行われた。

ボルト理事長が、新校舎の礎石の中に教職員の名簿、アルバム、工事関係者の名簿、写真、式典参列者の署名などを納めた(1964年5月)

新校舎落成式で挨拶するA.レーモンド氏。南山大学の設計により、1964年度日本建築学会賞を受賞した。

東南より見た新キャンパス。北端の空地は体育館用地。野球場は後にグリーンエリアになる。

東ニューギニア学術調査のためトヨタ自動車販売株式会社より自動車の寄贈を受ける(1964年7月)

沼澤嘉市と東ニューギニアの学術調査(1964年度)

フランス語弁論大会(1971年11月6日)

M.フーコー氏の講演。講演演目は「狂気と社会」(1970年)

飛躍の時代・国際化の始動

国際化が進展するなか、南山大学は積極的に世界各地から留学生を受け入れ、また在学生が海外の大学で学ぶ留学制度を推進してきた。国際化をいっそう発展させるための国際化プロジェクトの下に、1982年には国際部を発足させた。

1974年9月、外国人留学生別科を設立し、南山大学は、国際色豊かな大学として定着してきた。別科で日本語を習得して、学部への進学を希望する留学生も少なくない。外国人留学生と日本人学生との親しげな語らいの光景は南山大学の風物詩となっている。

この間、アメリカのネブラスカ大学、イリノイ州立大学、オークランド大学、デポー大学などと留学交換協定が成立し、また、交換留学ではないがフランス、イギリス、メキシコ、スペインなどの大学への留学も定着してきた。

日本研究を志す東南アジアの学生を対象として、1984年に、民間企業の寄付金と大学醵出金によって東南アジア留学生奨学基金を設立し、留学生への援助も始まった。

海外の大学のクラブの来学や、南山の学生クラブの海外での活動も盛んとなり、交歓演奏会なども催された。とりわけ1978年2~3月にヨーロッパ演奏旅行を行ったメイルクワイヤーは西ドイツの音楽家たちからも高く評価され、現地のテレビとラジオでたびたび放映・放送された。

早くから国際化プログラムの一環として創設された外国人留学生別科は、40年以上にわたり質の高い教育を提供してきた実績から、海外の大学で高く評価され、当初の5ヵ国26名から、近年では20ヵ国以上約100名が入学している。

この評価を維持するのに多大な役割を演じている海外の大学との留学生交換協定も、世界30を越える国・地域、100以上の大学との間で締結されており、300名以上の外国人留学生を受け入れている。

これによって、南山大学の学生の海外留学生も増え、短期、中・長期あわせて800名以上の学生が世界各国の大学で、異文化を体験しながら語学と専門分野の勉学に励んでいる。学生の勉学意欲を増進させ、4年間で卒業できるように、留学先の大学で取得した単位を本学の単位に認定する、本格的な単位認定制度がとられている。

海外からの視察も多く、外国人学生との交歓会や学生会議なども積極的に行われ、多角的な国際交流が推進されている。

パッヘ・スクエアに面したM教室棟壁面装飾

外国人留学生別科の授業風景(1975年9月)

外国人留学生別科の習字の授業

ハーバード大学グリークラブが中国・日本への演奏旅行のときに来学し、メイルクワイヤーとの交歓演奏会を催す(1982年6月)

日独学生会議。約50名の学生が来日し、独学科学生を主体に行われた。(1983年4月1日)

本学茶室における日独学生会議に参加者の茶の湯

ウィーンフィルのコンサートマスター、R.キュッヒル氏が南山大学管弦楽団を指揮

外国人留学生のホストファミリーの集い。(1984年8月)

外国人留学生別科の生花の授業(1986年5月)

外国人留学生別科の授業風景

オペレーションローリー一行の来学(1987年5月)。D.カイチェスが応接した。

中国国家教育委員会15名が図書館施設などを見学(1987年4月)

外国人留学生別科の学芸会(1987年11月)

外国人留学生たち(1988年10月)

外国人留学生との交歓(1991年4月)