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南山大学社会倫理研究所
2005年度第4回懇話会 ■講師 佐々木 拓先生■

講演の概要

2005年6月18日(土)、南山大学名古屋キャンパスJ棟1階Pルームにて開催された社会倫理研究所2005年度第4回懇話会において、日本学術振興会特別研究員・佐々木拓先生による「責任に関する言い訳アプローチ:自由意志の場合」と題する講演が行われた。まず、今回取り扱う「責任」は、レトロスペクティヴなもの、帰責の文脈でのものに限定する、と述べた上で、哲学的な自由意志論争の奇妙さの考察を重ねる中で自ら編み出した「言い訳アプローチ」を説明する。その後、古典的な自由意志論争の主要な立場(強い決定論、弱い決定論=「両立説」、自由意志説)が簡単に紹介される。その上で、そうした古典的な論争の問題点を知るために、マーク・ティモンズの「内的調整プロジェクト」/「外的調整プロジェクト」という考え方が参照され、自由意志論争の主要な立場がティモンズ的観点から吟味される。さらに、古典的な3つの立場とは明確に異なる、現代における自由意志論争の注目点も言及される。これらの議論を踏まえて最後に、「言い訳アプローチ」独自の強みと課題が論じられ、今後の展望が提示される。(文責|奥田)


*以下のコンテンツは、懇話会で録音したものを活字化し、講演者本人の校正をへて作成されたものです。無断の転用・転載はお断りいたします。引用、言及等の際には当サイトを典拠として明示下さるようお願いいたします。

責任に関する言い訳アプローチ:自由意志の場合

佐々木 拓 (日本学術振興会特別研究員)

もくじ

1. 自由意志論争2. 言い訳アプローチ3. 言い訳アプローチの問題

佐々木です。今回こういう場で発表させていただくことを大変うれしく、ありがたく思っております。声をかけていただいた社倫研の皆様に厚く御礼をさせていただきます。

きょうの話ですが、さきほど奥田さんから紹介していただいたように、もともと私はジョン・ロックという古典的なことをやっていまして、その中でも自由意志論という現代では通用しそうもない議論をやっているわけです。しかし、なんとかしてそういう話を現代でも使うことができないかと考えているうちに、本日のような1つのアイデアを考えたわけです。そのアイデアをどうやって説明したら皆さんによく伝わるだろうかということで、ここ数年苦心しているわけですが、この中にお聞きになった方がいらっしゃれば幸いですが、実は2年前、日本倫理学会で「責任」というタイトルのワークショップで発表させていただいたのが始まりでした。それから2年たつわけですが、ようやくこういう形でまとまりましたということで、今回お話しさせていただくことになりました。

一応原稿を用意してきたのですが、わかりやすくレジュメを作りましたので、そちらと突き合わせながらお聞きいただければと思います。

今回、紹介する「責任における言い訳アプローチ」、以下「言い訳アプローチ」と言いますが、これを考えたのは、自由意志論争をずっと勉強していくうちに1つの変な考え方があるのではないかということに気づいたからです。

倫理学上の論争に多いのですが、「俺の考えはこんないいところがあるぞ、完璧だ」という学説はあまりなくて、「相手の立場のここが悪い、ここが駄目なのだと相手をやっつける、おまえの悪いところはこういう形で俺のほうでいいことになるぞ」と自分の欠点は棚に上げておくというような、ある種の水かけ論によって自由意志論争は続いてきたのではないかという感じを私は抱いています。しかし、「そうではいけない、そういう状態をなんとかして解決しようではないか、今のところは答えは出せないにしてもとりあえず方向性を定めたい」と考えるようになりました。

さて、自由意志論を勉強していくと、いくつかわからない点が出てきます。何がわからないのかと言うと、論者の考えている「責任」というものの中身がよくわからない、ということが1つです。それと、「責任」の発生プロセスがもう1つです。誰かに責任が生じたとか、われわれが誰かに責任を問うとか課すとか、誰々が責任を負っているといったときに、その責任はどういう形で出てくるのか。当然のことながら、自由意志論みたいな話を勉強していくと、行為論なども勉強していくわけです。そういうときに「行為」をいろいろ分析していくのですが、実際どのような形でわれわれは行為の要素を認識して責任が発生したと見なすのかということがわからなくなってきたのです。

きょうは自由意志論争における問題点を考えていくことによって、どこが不合理なのかという話をきっかり出したい。その上で、先ほどの「わけのわからない」不透明な点を言い訳アプローチという形で「責任」の発生プロセスを考えることによって、自由意志論争の議論の方向付けをしたい、論争の出口を与えたい。その結果、私のロックの研究が何か貢献できればいいと思っています。

今回は『責任における言い訳アプローチ』ということで、責任について何か新しい知見が得られると期待された方もおられるかと思います。しかし、議論の中で責任とはこういうものだ、こういう責任がいいのだという話は行われないし、そういう正当化もしません。きょうお話する内容の目的を完全に達成するためには、個々の責任概念をはっきりさせていろいろな検討をしっかり行わないといけないのですが、おそらく1時間では無理ということもありますし、現在、私の研究的な時間もまだまだ足りません。そのうち何か書きますので、その論文なり発表なりを期待していただきたいと思います。

とは言いながら、責任概念を規定せずにずっと「責任」と言っていると、皆さんの中でいろいろ混乱が生じるかと思いますので、恣意的ではありますが、責任という言葉を使う際の約束を決めておきたいと思います。こういう考え方には賛同されない方もいらっしゃるかと思いますが、今回はあえて「責任」を道徳的責任、それも道徳的評価に限定させていただきたい。つまり、今回「責任」という語を使うにあたって、「花子がお年寄りに席を譲った」といった誰かが行ったなんらかの行為に対してレトロスペクティブに行う評価、たとえば「花子のした行いはよいものだ」といった賞賛または「花子のした行いは悪い」といった非難に、責任の意味を限らせていただきたい。必ずしも皆さんの頭の中ではぴったり重なるものではないと思いますが、とりあえず今回はそういうものとして限定させていただきます。

さきほど神崎さんが使われた責任という概念は、どちらかと言うと、いわゆる役割責任です。ある主体にはこのような役割がある、もしくは期待されていて、その主体はそういう役割上の仕事をしなくてはいけない。簡単に言うと、両親は子供の面倒を見なければいけないというようなタイプの責任です。そういうものに置き換えたとしても、きょうの話は通じると思っています。それは後で、皆さんで確認していただけたらと思います。というわけで、今回はどちらかと言うと、自由意志論争の話が多いかと思います。

ここで、もう1つお断りをしなければいけないのですが、実は、自由意志とは何かという話もきょうはしません。皆さんに具体的なイメージをつかんでいただくために幾つかの類型は示しますが、その自由意志概念のうちのどれがいいということも言いません。ちょっとがっかりされるかもしれませんが、今回の目的はなんとかして議論の方向付けを行い、その方向付けが有効であるかどうかということを吟味したいというところにありますので、そこら辺はどうか御容赦ください。

本題に入る前に、「言い訳アプローチ」とはいったい何かということを御紹介したいと思います。言い訳アプローチは2つの中心的な主張から構成されています。

1つめはこういうことです。すなわち、われわれは自らが行う「行為」を自らのもの、もしくは自らに責任のあるものとして受け入れる際に、自分がした行為には責任を成立させるための何らかの要素があり、かつその要素が満たされているがゆえにその行為は責任あるものとされる、と考えられがちですが、それは間違いだという主張です。こういう考えは分析的な行為論などによくあります。ここでデイビットソンを例にとりますと、「行為」が物理的な行動と意図に分析されるとすると、意図と行為が両方あれば「行為」は成立するということです。つまり何か分析されて「行為」、責任のある行為と言っていいでしょうが、そういう「行為」の条件が示され、その条件を満たす行動、これは行為とはまだ見なされないような身体運動のことですが、この行動が、その条件を満たした場合のみ真正な行為だと考える立場が、分析的議論の典型的な考え方だと思います。しかし、これは違うだろうというのが1つ目の主張です。

むしろ、われわれはある行動が真正な行為であるかどうかを問わずに、まず責任を帰す場合があるだろう。むしろ、そういう場合が一般的だというのが言い訳アプローチの1つ目の主張です。さらに、話を進めるならば、極端な話ですが、行為では動作がなくても責任が生じてしまうというような話もおそらく言い訳アプローチでは扱えることになるかと思います。

言い訳アプローチのもう1つの主張は、これまで行為を成立させると考えられてきた行為の構成要件、つまり行為の分析の結果出てきた行為の必要十分条件のすべてが成立することによって行為に責任をくっつける、という考えの否定です。必要条件というのは、それが成立することによって行為に責任を付与するようなものというよりは、むしろその条件がない、今回扱うのは自由意志なので、自由意志がないことが証明された場合に、いったん生じた責任が免除されたり、軽減されたりする事態を引き起こす条件だという、つまり、役割の転換です。成立させて責任を発生させることから、不成立が責任をなくすというような役割転換をしようというのが、言い訳アプローチのもう1つの主張です。

以上のことから、自由意志は責任ある行為を成立させるための「行為」の必要条件ではなく、不成立が成立したときに責任の免除、もしくは軽減をもたらす免責要件として機能するようなものであるというのが今回の話です。

前置きの最後のお断りになりますが、言い訳アプローチにおいて言い訳として機能するようなものはおそらく自由意志だけではないというのもすぐお気づきになられると思います。普通、責任を成立させるための条件は幾つかあると思います。特に主体の条件、つまりわれわれ主体がもっている能力としての条件、一番わかりやすい例でいくと、人格同一性とか、もしくはこれはちょっと難しいところですが、理性能力というか、ちょっと未来のことを推論できる、こうなったらこういう帰結が起こるというような予測の能力、そういうもろもろの、主に心的な能力や特性にかかわることが多いかと思います。今回は一応自由意志という私の研究があるので議論しませんが、そういうものも一応言い訳として機能するファクターとして考えられると思います。

1. 自由意志論争

そもそも言い訳アプローチを考えた動機が自由意志論にあるので、これから自由意志論争とはどういうことかというのを見ていきたいと思います。

レジュメ1ページの表のように、自由意志論争における立場を区別するのに一番よく用いられるのが、「因果的決定論」と「非決定論」という二分法です。「因果的決定」という言葉が正確に何を意味するかというのは難しくて、その意味を特定するのはそれ自体一仕事なのですが、因果的決定論とは、古典的には、機械論的世界像が想定し得るような世界観です。もっとも代表的な者としてはラプラスです。すなわち、あらゆる物体の位置と関係と運動法則がわかれば、世界は最初から最後まで予測し得るという完全な予測可能性をもつような世界像です。そういうものが存在できるような世界像を肯定する立場が「因果的決定論」です。そして、機械論的な因果連鎖を免れるような自由意志の存在を認める立場を「非決定論」として区別することができます。さらに因果的決定論の立場を、行為に責任が生じるためには非決定論的な強い自由意志が必要だとしつつも機械論的な世界を認めるといった「強い決定論」と、行為に責任が生じるためにはそのような変な自由意志は必要ないと考える「弱い決定論」に二分するのがオーソドックスでポピュラーな方法だと思います。

つまり、世界は最初から最後まで1つの因果的な連鎖によって決められている一方で、責任にはそういうものを免れたような自由な選択、実際生じた行為以外のものを選んで行為する能力、魂的なものと言ったら一番わかりやすいかと思いますが、そういうものを想定する。そうでないと責任は成立しない。しかし、機械論的な決定論が正しいので、責任は生じない。これが「強い決定論」の立場です。逆に、責任にはそういうものが必要だ。現に、責任はある。ゆえに、機械論的な世界像は間違っているというのが「非決定論」になると思います。ちょうど中間をいくのが「弱い決定論」です。魂的なものは責任には必要ないという形で責任を保持しつつ、機械論的な世界像を保持する。それが「弱い決定論」ということになります。

1つずつ詳しく見ていきたいと思います。古典的な弱い決定論は、われわれは責任を伴った自由な行為を実際行っているが、それは非決定論的な自由意志(魂的なもの)によって実現されるものではないと主張するわけです。そして、自由意志ではない形の自由及び責任と決定論の両立、もしくは調停のプロジェクトを実行する。このことから、「両立説」とも呼ばれます。この両立説のパイオニアの位置には16〜17世紀の学者であるトマス・ホッブズを挙げていいでしょうし、代表的にはヒュームだと言えるかと思います。特に、ホッブズが提示した「内的な欲求が外的な障害によって妨げられないことが自由の本質である」という外的障害不在の原理は、教科書的にはヒューム、ミル、ラッセル、シュリック、エアーといったイギリス経験論の立場に継承され、かつ修正されていくことから両立説の基本的原理を構成していると言っていいかと思います。

つまり、暑いのでこの場で冷たい水が一杯飲みたいと思って冷たい水がすぐ飲めるというように、思った行為がそのとおり実現されることが自由の本質なのだと言ったのがホッブズです。逆に、われわれの意志や欲求を決定しないような、原因を持たない事象を「偶然的もしくはランダムな」事象とみなしました。一定のものが一定の仕方で一定のものを生じさせないようなものは何が起こるかわからないようなランダムなものだろう、何が起こるかわからないようなランダムなものによって生じた行為には責任がないだろうということです。そのように、因果的決定論が成り立たなかったら逆に責任はないのだと彼らは言うわけです。

こういう考え方に対して、単に「やりたいことがそのままできる」ことが人間の自由なのではないというのが、非決定論の立場です。この立場は、機械論的な因果決定を超えた何か、つまり物理的な実体とは別な次元にある心的実体みたいなものを想定します。そういうものは責任が必要であると考えることから「非両立説」または「自由主義」と呼ばれます。本講演では、便宜上この立場を「自由意志説」と呼ばせていただきたいと思います。というのは、さきほどの説明からおわかりのとおり、強い決定論も非両立説なので混乱があるし、自由主義という言葉はむしろ社会学や政治学で用いられる言葉ですので紛らわしい。両方とも、英語ではリバタリアニズム(Libertarianism)でややこしい。特に、ロックなどでは非常に面倒くさいということになるわけです。代表者としては、さきほど挙げたホッブズと同時代のブラムホール、ヒュームと同時代の、トマス・リードで、何と言っても代表者はカントだと教科書的には言われます。これにはいろいろ異論があるかと思いますが、「経験的なものに決定されたものが決して道徳的なものにはならない。超越論的な格律のみに決定された意志のみが道徳的な行為だ」という意味で、カントは自由意志説の1人だと私は解釈しています。

自由意志説は、外的障害不在の原理のみでは人間の責任は十分に説明されないとして、責任の要件として他にとり得る可能性を要求します。つまり先行する原因によって一定の仕方で一定の結果に決定されるのではなくて、別の結果に決定されたいというような考えです。これはオルタナティブ・ポッシビリティー(AP)と業界では呼ばれますが、そういうものを要求するわけです。われわれが決められたとおりにしか行動し得なかったならば、責任を課すのは不当である。つまり私が何か悪いことをしたときに、そういう悪いことをするしか仕方がなかったのだから私は責任がないでしょうというような直観に由来していると思います。

しかし、両立説もこの点を見逃していません。多くの両立論者の主張は部分的にこのAPを満たしています。例えばホッブズは、「欲求と嫌悪を継起」という心理状態によって行為の上でのAPを確保します。

ここで簡単にホッブズの考えを説明します。いつも私の例ではビールが出てくるのですが、きょう帰ってビールが飲みたいという欲求があるわけです。けれども、勉強するためにビールを飲みたくないというビールに対する嫌悪もあります。ビールに対する欲求と嫌悪が交互に生じて、私の中に葛藤が生じるわけです。これによってどっちが出てくるかわからないというわけです。しかも、ホッブズの場合は、欲求も嫌悪も1つのエンデバーという形で物理的なものに還元されるので、実はそれは物理的なランダム状態であろうと。正確にはホッブズはそうは言わないのですが、私たちの目から考えると、飲みたい、飲みたくないというランダム状態だと。最終的にどっちかが私の背中をポンと押して、ビールを飲ませるか、勉強させるかするわけです。つまり嫌悪のほうが行為を決定していれば、私はビールを飲まなかったであろう。欲求のほうが行為を決定していれば、私はビールを飲んだだろう。そういう形で、行為のレベルではAPが確保されているわけです。このために、普遍的な自由意志説、現代の自由意志説もそうですが、責任には別の仕方で望めること、別の仕方で意志できること、すなわち別意志可能性(AP)としてのほかの可能性を求めることになるわけです。

つまりすべてが先行する何かの原因に決定されているとすれば、結果的に私のビールを飲むという行為を決定した欲求は、また別の何かの物理的な存在によって決定されているわけです。欲求を決定した何かもまたさらに一様な仕方で何かに決定されているわけです。というのをやると、別意志可能性は、どこかにそういうものの因果的な連鎖から外れたものを置かなければ決して確保されないというのが、自由意志説の主張です。ですので、そもそも人間の魂はそのような連鎖の中にないのですよという形で、魂とか、デカルト的な心みたいなものを想定してしまうのが一番簡単な方法です。

以上が、古典的な自由意志論争の分類です。しかし、お互いの立場の何が悪いのか、何が問題なのだろうということがまだ明らかにされていないので、私が今、勉強しているメタ倫理学から1つの道具立てを借りてくることにしました。

マーク・ティモンズという人が、現代のメタ倫理学はこういう仕事をしなければいけないという形で示した2つのプロジェクトがあります。レジュメに載っていると思いますが、D1、D2とついているのは引用上関係ですが、2つのプロジェクトがあるわけです。

1つ目(D1)、もっともらしいメタ倫理学上の見解は通常の道徳的言説及び実践が備える[われわれの]心の深くに組み込まれている諸前提と適合していなければならない。これは内的調整プロジェクトの指針となる。

2つ目(D2)、もっともらしいメタ倫理学上の見解は探求に関連するその他の領域がもつ一般的な見解群及び諸前提と適合していなければならない。これは外的調整プロジェクトの指針となる。 Mark Timmons 1999, MORALITY WITHOUT FOUNDATION A Defense of Ethical Contextualism, New York, Oxford University Press, p. 12.

ちょっと気づいた方はさきほどの神崎さんのところに出てきたヨナスを思い浮かべていただけるかと思うのですが、環境倫理の指針とそれを裏づけるための自然的な結合というものと内容的にはほぼ同じことを言っています。それをこれから説明します。

ここでもっとも強調されるべきは、メタ倫理学には2つの層の仕事があるということです。ということは、結局は自由意志論争にも2つの層の仕事があるということになるのですが。まずD1の示唆する目的は、われわれが話す道徳判断やそれに基づいた行動の実態をうまく説明することだというわけです。たとえば、「電車の中で老人に席を譲ることが正しい」ということはいったい何を意味しているのか。「席を譲ることが正しい」という判断はいったいわれわれをどのように動かし、その原因はいったい何か。そういう説明をすることがメタ倫理学の1つの仕事ということになります。そして、もしその説明がわれわれの日常的な道徳と大きくかけ離れている場合は、そのギャップを埋める方法、もしくはギャップの妥当な説明を同時に提示する必要が生まれるということになります。

メタ倫理学上には、例えば、「席を譲ることが正しい」というような発言や道徳判断は単なる感情の表明でしかないという立場があります。つまり席を譲ることが好きなのだ、席を譲ることなんて嫌いだと言っていることでしかないと言った場合、そういう解釈をする人は、そういう感情がなぜ日常的に道徳的なものとして尊重されなければならないのかということも説明しなくてはいけないことになります。

ティモンズの言う内的調整プロジェクトというのは、道徳の言明の意味は何かということを解明し、道徳の実践についていかにうまい説明をするかという仕事です。しかし、仮に日常道徳とうまく適合するような説明をしたとしても、どこかに善のイデアがあって善のイデアを発見することによって人に席を譲ることが正しいということを知るとか、神様がどこかで命令しているとかいうような、直接われわれが知ることができない何かに訴えると説得力がちょっと減ってしまうように思われます。そこで、D2で示唆される外的調整プロジェクトが要請されるわけです。つまり道徳の説明は、関連するその他の領域、われわれの場合、哲学的な見解や世界像、それが妥当だとわれわれが信じているような世界の条件と言ったらいいでしょうか、世界の形と言ったらいいでしょうか、そういうものと矛盾があってはならないというわけです。

特に18世紀以降、自然科学が隆盛してきたわけですが、極端な話、世界を構成するのは物理化学的な存在物のみであって、自然科学的な手法でとらえられるもの以外は世界に存在しない、自然科学的な世界像こそが世界の真相であるというような、自然主義が妥当であると考える人が増えてきたと思われます。少なくともメタ倫理学の業界では増えてきています。そこで、外的プロジェクトが示唆するものは何かと言うと、われわれは自然主義的な世界像とメタ倫理学の説明をいかに調整するかということになります。外的プロジェクトは道徳的特性、その他の特性や存在というものの存在論的な認識論的な身分を問うものであって、われわれの言っている、実践している道徳の哲学的な裏づけをするということになります。

さて、私は、内的・外的の2つのプロジェクトは自由意志論争における立場においても実行される仕事だと思っています。少なくとも、両方を実行できないとその理論はもっともらしさをもって受け入れられないだろうということは明らかな気がします。実際、自由意志論争の決着がつかない理由は、どれもこの2つのプロジェクトを実行し得ていないことだと思います。

自由意志論争の場合の内的プロジェクトは、例えば、私の行為には責任がある、私の行為は自由であるといった言明はいったい何を意味しているのだろう、発言が行われた場合の実践、自由であると言ったときにどのようにして行為するか、責任があると言ったときにどのようにわれわれは行為するかということです。そういう実践をいかにうまく説明できるかという問題になるかと思います。外的プロジェクトは、内的プロジェクトで用いられた説明が自然主義的な世界像とちゃんと調和しているかどうかということが問題になるかと思います。

この2つの基準は上述の3つの古典的立場をうまく説明するものだと思いますが、とりわけ各立場が抱える問題はどちらの層にあるのかということを明らかにします。3つの立場の中で内的プロジェクトをもっともうまく実行しているのは自由意志説だと思います。非決定論的で別意志可能性を備えた自由意志による決定は、哲学を抜いたわれわれの素朴な責任観にもっとも近いと思われます。これはしばしば問題になるのですが、洗脳を受けたり、薬物中毒になっていたりする人の犯罪はなぜ責任の免除がされるか。たとえば、覚せい剤を打った人が殺人を犯しても殺人罪が適用されない場合があるのはなぜかということです。そういうわれわれの日常的な実践を自由意志説はうまく説明していると思います。

その一方で、古典的な自由意志説は外的プロジェクトに完全に失敗しているわけです。古典的自由意志説は、因果律を離れた形の自由意志の存在を自然的に説明する手段をもっていなかったし、やろうともしていなかったのではないかと思います。というのも、彼等が設定する自由意志概念は認知的にアクセス不可能なものであったり、たとえばイデアとか神の意志とかですが、もしくはさらなる神秘的な何かの認知能力を想定する、つまり神の声を聞くとか、善のイデアを認識するような何らかの特殊な能力を想定したりするようなものだからです。

両立説は、自由意志説が想定するような形而上学的なものは存在しないということから外的プロジェクト上の問題はないと言えるかと思います。しかし、内的プロジェクトはどうかということになると、これは問題です。ホッブズは自由の意味を組み換えた、すなわち好きなことをやったら自由だという形で自由の意味を限定し、ヒュームは必然の意味を組み換えること、つまり必然というのはそのような因果的な強制を含まないのだという形で必然の意味を変更しました。そのようにして、われわれの自由や責任についての言説について一定の説明をしたと言うことはできますが、彼らは洗脳とか中毒という事例を十分には扱い切れていないと言えるかと思います。特にホッブズはそうです。そういう点で、内的プロジェクトにおいて不十分さが残っているということです。

特にホッブズの、外的プロジェクトを重視したがゆえに、物理的特性に自由というものを還元してしまうということには大きな問題があります。彼らは部分的にでも内的プロジェクトを実行するために、心的な決定から生じた行為、何々をしたいという欲求から行った行為と、外的な決定から生じた行為、例えば誰かから突き飛ばされたり、もしくは体の発作のせいとかという行為と区別するわけですが、還元主義をとる場合には両者を区別するための説明が必要であると言うわけです。つまり、とどのつまりは同じ物理的決定なのに、なぜその2つの原因を区別しなければいけないのかということです。そして、この説明は多くの思想家においても不十分だと思います。

以上の2つの立場を対比すると、強い決定論では外的プロジェクトは問題ないとして、内的プロジェクトをそもそも拒否していると言えます。

これで、古典的な3つの立場はどのレベルで問題を抱えているかということが明らかになったわけです。この点は現代に焦点を移しても同じです。現代と言っても私が想定しているのは1960年以降という本当の現代ですが、コンテンポラリーなという意味の現代と、いわゆる古典と呼ばれる立場には、2つの重要な違いがあると思っています。

1つ目は、物理学が発展して素粒子とか量子力学とかいう話が出てきたせいで、ラプラスの魔という、完全に未来が予想できるような形ですべての事象が一定の仕方で決まっていくという形の機械論的な世界像が、部分的にはありますが、崩壊したという点があります。結局、素粒子でも原子でも分子でもいいのですが、基礎的なレベルのものの衝突によってすべてが説明されるということはあるのですが、それが完全に予測可能であるという前提が崩れたということです。これによって、実は古典的な三分類によって強い決定論と弱い決定論と非決定論に分けることが難しくなってしまった。つまりミクロのレベルの非決定論に自由意志を還元してそれが自由だと言うような、非決定論だけど自然主義の人が出てきてしまったということです。非決定論と言ったときに、これまでは何か変なものを想定していたのですが、普通に両立説的な非決定論もありますよみたいなことが出てきます。この代表は後で述べるロバート・ケインという人でもありますし、マイケル・スミスもその1人です。

もう1点は、これは画期的な論点だったと思いますが、ハリー・フランクファートという人がいます。この人は「意志の階層理論」というので有名になった人ですが、フランクファートは変な思考実験をやって、責任にとって別意志可能性(AP)は必要ないということを示しました。どういう例だったかと言うと、これは私がアレンジしたものですが、といってもジョンが太郎になって、アメリカの2大政党が自民党と民主党になっているだけなのですが、以下レジュメを読みます。

今、太郎は自民党か民主党のいずれかに投票しようとしている。太郎は考えて考え抜いた挙げ句にどちらに投票するかを決定する。が、実は太郎の脳には邪悪な脳神経外科医が脳波計を取り付けていて、脳波を測定している。脳神経外科医は同時に外部操作のできる脳波発生装置を取り付けているのだが、太郎は脳神経外科医のことも脳波計のことも脳波発生装置が自分の中に埋まっていることも全然知らない。これに加えて、もし太郎が自民党に投票することを選ぶ場合、それに先立ってJという脳波が出る。太郎に自民党を投票させるような決定要因Jというものが生じます。そして民主党に投票するように決定した場合、同じようにMという脳波が出ます。以上が設定ですが、太郎にJの脳波が生じた場合、太郎は自らの意志によって自民党に投票するが、Mの脳波が生じた場合、脳神経外科医は妨害電波を出すわけです。Mの代わりにJの脳波を出します。つまり、自民党に投票させるような決定要因を出してしまうわけです。結局、太郎が民主党に投票することはありません。つまり民主党に投票しようと思った瞬間に脳波が妨害されて、やはり自民党に投票しようというようになってしまう。この場合、太郎は行為のレベルで可能的選択肢をもっていないわけです。しかし、フランクファートはこういう場合でも、太郎が自民党に投票する際には道徳的責任が生じるのではないかと言うわけです。

実は、これは古典的なものをちょっと変えただけなのですが、この思考実験から得られる結論は、結局、別意志可能性は必要ないだろう、ほかに行為する可能性は必要ないだろうということです。別意志可能性がなくても責任が成立するならば、APをもった行為は責任の外延に収まらないのですから、それは必要条件ではあり得ないわけです。

なぜわざわざこういう話をもってきたかと言うと、行為のレベルで選択肢がないような行為でもしっかり考えて自分が行えば責任が生じると考えるならば、責任の発生がシンプルになったと言えるからです。つまり責任を課すという行動を行う際に、自由意志という何だかよくわからないものが成立しているということを確認する必要も、そういう存在があるということに訴える必要もないわけです。

一方、古典的両立論のもつ欠点から、しっかり内的プロジェクト上の説明をしなければいけないというところから、つまり洗脳とか中毒といったような内的強制の事例の反省がありますから、そこから自由意志と呼ばれるものを、なんとか超越論的なものではなくてもっと自然的な存在、例えば、心理学上の特性に還元しようという試みがあります。

それは、さきほどの例を考えたフランクファートとか、今で言うとJ.M.フィッシャーらがとっている「意志の階層理論」というものです。つまり、われわれには二層の意志と二層の欲求があるのだというわけです。私はビールを飲みたいという欲求とビールを飲みたくないという欲求、さらにその上の層に、私はビールを飲みたいという欲求を実現させたい、もしくはビールを飲みたくないという欲求を実現させたいという欲求をもっているという理論です。2階の欲求によって実現された欲求が実現されていれば、それは自由意志が成立しているということだと言ったり、マイケル・スミスの「熟慮による自己実現」も、何かしたいと思ったときにはあれこれよく考えて、最終的に合理的に生き残った欲求によって行為が決まっていれば、それは自由だと言ったりするわけです。そのような合理的な熟慮によって生き残った欲求による行為決定みたいなことがあれば自由意志が成立していると考えましょうということを提唱する人もいます。

さらには、ロバート・ケインのように、われわれは決定論的な世界を生きながらも、時間をへて性格が決められていく、というような考えがあります。たとえば、初恋をしてAさんに告白するとかしないとかいうイベントがあったとしましょう。さらに、英検2級の試験がその日にあって、同じ日に大好きな女の子からデートを申し込まれた、としましょう。私は英検2級を受けに行くべきか、デートに行くべきか迷うという葛藤状態がここにあるというわけです。このような葛藤を経てで人生と自分の性格が決まっていくわけですが、この心的葛藤を、ケインは物理的な非決定状態、ランダムな状態だと言うわけです。そういう人生の葛藤ポイントを通過してきたかどうかが、自由意志があったかどうかを決めるポイントだと。要望があればまた後で詳しく説明しますが、そういうことが自由意志だと言う人もいます。

このような、自由意志を何か自然的なものに還元しようと考えて、フランクファートのように、責任には別意志可能性みたいな自由は必要ないのだ、つまり、何か二階の意志のようなものが実現されていれば大丈夫だという発想は新しい問題を引き起こします。すなわち、洗脳や中毒によって心的に強制された人間の行為は免責されるという直観と、フランクファートの思考実験から得られた根本的には責任に自由意志は必要ないという直観が衝突してしまうということです。一方で責任が発生するためにそういうものは必要ないと思いながら、そのような還元を行わなければならないという矛盾的な態度がそこにはあるわけです。

結局、現代の自由意志論の思想家、特に今、言った自然主義的な還元を行うような自然主義者は、内的プロジェクトにおいて自由意志の還元的説明と同時に直観の衝突をうまく説明する必要があるということになります。さらに言うならば、こういう自然主義者は、私がここで「ハードル問題」と呼んでいるものですが、帰責のハードルを高めてしまうことになります。つまりフランクファートの場合は、やりたいことができていれば責任は課せるというようなシンプルな形で帰責ができたわけですが、それに新しい自由意志に代わる心的な過程みたいなものを挿入してしまうと、責任を課すときに複雑なプロセスがそこに生じてしまうだろうということです。それは結果として、われわれが責任を課すのが妥当だと思っているような多くの場合において責任が帰せなくなる。

マイケル・スミスの理論を例にとれば、熟慮の中で生き残った行為にのみ責任が課されるということでした。それは自由意志の実現であり、そういう行為にのみ責任があるという考え方をとるならば、仮に私が散歩の最中に何の考えもなしに土手に見つけたネズミの穴をドンドンと棒でつついてみたら、堤防が崩壊してしまったとしましょう。これを、「私は考えなしにやったのだから責任はないでしょう」というのは、おかしいことになります。

こういう重大な帰結を伴わない場合でも、われわれはあらゆる行為に対して熟慮を行っていなければならない。つまりわれわれが責任のある自由な行為者であるためには、われわれは一挙手一投足、何かをするたびにいっぱい熟慮をしなければいけない。そういうことはばかげた考えだろうと言うわけです。優秀な作曲家が素晴らしい楽曲を作ることに成功したとしても、それが熟慮の末に自分の本当の欲求を実現したものであるかどうかということをわかった上でなければ、つまり「本当におまえが考えたのか」というインタビューをいっぱいした後でないと素晴らしいものを作ったと称賛できないのかということです。

あまりいい例ではありませんが、昨今流行している少年犯罪の例に対して、すごく小さい子がやっていて明らかに自由意志があるかどうかは疑わしいのですが、でも、彼らに対してわれわれはとりあえず精神鑑定を行ったりするわけです。そういう精神鑑定の結果が出る前でも、彼らは悪いことをした、彼らは悪いとわれわれは考えるだろうというわけです。

私は常々このハードル問題は大事だと考えていて、これはもともと功利主義から来ているわけです。功利主義の要求、簡単に言うと、われわれは最大多数の最大幸福を目指すような行為をしなければいけないのが義務だと言われると、それはちょっとハードルが高過ぎるでしょうという功利主義の問題がありました。その転用ですが、ハードル問題というのは、実は現代の自由意志説をすごく困難にさせるわけです。というのも、帰責に因果的に決定されていないような自由意志を要請すると、自由意志もハードル問題に立ち向かわなければいけないということです。非自然的ゆえに存在が理解不可能で、認識的にもアクセス不可能な特殊な過程を想定している自由意志説は、外的プロジェクトだけに問題を限定すれば、さきほど神崎さんはそういう科学の基礎付けをとりあえず保留したと思ったのですが、そういうのを保留できる。とりあえず活動は活動、実践は実践でやっていけばいいというので少なくともなんとかなるかと思うのですが、実はハードル問題を考えることによって、外的プロジェクトが一気に内的プロジェクトの問題として浮かび上がる。つまり、認知不可能で存在がよくわからないものを発見することなしには帰責が行えないというのは、すごく困った問題ではないかというわけです。これが結局、自由意志論が抱えている問題のすべてだということになります。

2. 言い訳アプローチ

結局、今の自由意志の話をしていくと、冒頭で紹介した「言い訳アプローチ」がある程度妥当な考えではないかということがおわかりになるのではないかと思います。そもそも行為に対して必要十分条件、もしくは行為の主体の条件、目指すべき条件を成立させた上でしか帰責を行えないというような哲学的な判断は、われわれの日常的な経験からすると非常におかしい考えだということです。特に道徳的な評価という面では、われわれはそういうものを確認せずにとりあえず判断をしてしまうということです。

もう1点は、レジュメにあるように、結局、自由意志とか主体の条件とかはどういう意味になるのかと言うと、それは免責の条件になるというわけです。これは、洗脳を受けたり、中毒になったり、強度の精神障害のある人とか、そういう内的な強制にある人たちの行動には免責がされるという直観、一番古いロックの場合でも夢遊病者の例がありますが、そういうレベルで行為の免責が行われるという経験的直観から生み出されるというわけです。

ただ、ここで1つ言わなければいけないのは、責任の免除の軽減に第1の役割を置くという自由意志、言い訳アプローチの言い訳ですが、本人に言い訳の意図がない場合はその役割を発揮しないということです。行為の称賛の事例を考えてもらえばわかると思いますが、誰々さんは良いことをしたねと褒められたときに、「いや、私には自由意志がなかったので」とわざわざ言う人はいないということです。実は酔っぱらって作った曲だからと言う人もいるかもしれませんが、本人が申告しない場合もある。言い訳があろうがなかろうが、本人が積極的に申告しない場合は役割を発揮しないということです。

その後に、理論的な根拠として法学者のH.L.A.ハートとギバードの話がありますが、これは置いておいて、結論に行きたいと思います。

結局、言い訳アプローチの何がいいかと言うと、「ハードル問題」が回避されます。これはおわかりのとおりです。そもそもそういうものがわからなくても、われわれは帰責を行えるというのが言い訳アプローチの主張ですから、これはまず問題にならない。フランクファートのように、別意志可能性みたいな自由意志は本質的に必要ではないかという話もとりあえずかわせるということです。

実は、もう1ついいところがあります。これは自由意志論の方向付けということになるのですが、自由意志論をやるに当たって、われわれは言い訳としての機能を果たさないような自由意志概念を想定してはならないということにあります。つまり、言い訳としての基準として機能し得るような自由意志概念を想定してください。そういうものが理論的な帰結として出てくるような自由意志論を作ってください。さきほどのフランクファートやマイケル・スミスの例は一部それを満たしているわけですが、それがあります。

もう1つ大事なところは、これは非決定論的な自由意志論者にも希望の光を与えるということになりますが、非決定論的なものを想定しつつも、それがわれわれの免責としての機能を果たし得るような自由意志基準を想定することができれば、自由意志論者も自分の仕事が行える。そのとき外的プロジェクトは完全に達成されていないわけですが、形而上学のレベルではなく、基準のレベルで外的プロジェクトが担保されている、つまり免責の機能をはたす役割をもった基準が外的プロジェクトに矛盾していなければ、それは自由意志論者が仕事ができる理由になるということが言えるかと思います。

3. 言い訳アプローチの問題

では、言い訳アプローチに問題はないのかということになるのですが、問題はあります。結局、自由意志と責任の関係はそこでわからなくなってしまうわけです。責任の発生のために自由意志論は必要がないとしながらも、免責としては機能しなければいけないとなると、自由意志と責任の根本的な関係はいったい何かと問われるわけです。それに対して、私はいまだ答えをもっていないのですが、1つ言えることは、私は、責任概念とは必要十分条件が想定されないような形での何か要素の集まりだと思っています。(板書しながら)そういう要素がもつ、別にこれは交わっていなくてもいいのですが、こういう全体の外延が責任であると考えています。1つ1つは個別の責任理論によって想定されるような責任概念ですが、その外延のどこかに自由意志が入っているというわけです。つまり、責任概念の総体として自由意志が要請される。個別のレベルでは、それは必要条件ではあり得ないけれども、総体のレベルで要求されるというような答え方をしたいと思います。

最後にもう1つ、自由意志はすべての場面において言い訳になるわけではありません。それは最初の話にもなるのですが、結局どの場面で責任概念が言い訳の基準となるのかというのは、帰責を行うときの責任を決める理論と、われわれがもっている自由意志が妥当だと思われるような直観と、その自由意志を構成するような理論の間で、いろいろな場面における擦り合わせ、専門用語で言うと「反省的均衡」的な擦り合わせを行うことによって次第に明らかになっていくのではないかと思っています。

――佐々木氏 講演 終了

南山大学社会倫理研究所